閑話 「椎茸と、味噌と、醤油──値の重さ」
帳面の端に、父が朱を引いた数字があった。
「椎茸一本の値だが――
今回は、一万二千文とする」
桜は、少しだけ目を見開いた。
「上げましたね」
「椎茸だけなら九千文でも高すぎる。
だが今回は違う」
父は静かに続ける。
「味噌と醤油。
あれが一緒に動いた」
なるほど、と桜は脳内で頷く。
(保存性、再現性、汎用性――
“知ってしまった味”は、価値が落ちない)
「足軽の給金が月三百文前後。
一万二千文となれば――」
父は、はっきり言った。
「足軽四か月分だ」
桜は帳面に書き足す。
(当時:一万二千文
現代換算:約十二万円)
「月五百本で――」
「六百万文」
「(約六千万円相当)ですね」
誰も、すぐには声を出せなかった。
「取り分は、以前の約束通り」
桜が言う。
「二割。
一割も動かしません」
「一本につき、二千四百文
(約二万四千円)」
「月で、十二万文
(約一千二百万円)」
父は、しばらく黙ってから言った。
「……子どもの遊びの額ではないな」
「はい」
桜は即答した。
「だから、管理します。
帳面も、人も、情報も」
桜は、帳面を閉じて言った。
「もう――
人工栽培は確立しています」
父が、わずかに眉を上げる。
「椎茸も、味噌も、醤油も。
作り方は再現できるし、品質も安定しています」
(ここからは“研究”じゃない。
“商い”の領域だ)
桜は、はっきりと線を引く。
「商売は大人に任せます」
「値の交渉、流通、献上の段取り――
それは父上たちの仕事です」
父は静かに頷いた。
「では、お前は?」
桜は少しだけ笑う。
「次を考えます」
(完成したものに、私は張り付かない
――停滞するから)
「椎茸も、味噌も、醤油も、
“基準”は作りました」
「これ以上やるのは、
効率化と拡張だけ」
桜は脳内で、次の会議を始めている。
(次は――
人の流れ
物の保存
情報の伝え方)
(便利に暮らすには、
“作る”より“回す”が要る)
父は、そんな桜を見て確信する。
――この娘は、
一つの成功に留まる器ではない。
「殿への献上は?」
「予定通り」
「ただし」
桜は言葉を添えた。
「味噌と醤油は添え物ではありません
あれを“知ってしまった”以上、
戻れない味です」
「価値の一部として扱ってください」
父は、短く笑った。
「……分かった」
桜は立ち上がる。
(さて)
(次の秘策は――
人が“楽になる”仕組み)
少女の顔をした策士は、
すでに次の時代を見ていた。




