第32話「旨味という名の力」
都では、噂が静かに巡り始めていた。
近衛前久の邸で振る舞われた膳が、いつもと違った――ただそれだけの話が、妙に尾ひれをつけて広がっていく。
「出汁が深い」
「後味が残る」
「塩を足していないのに、物足りなくない」
公家たちは理由を知らぬまま、違いだけを感じ取っていた。
乾燥椎茸から引いた出汁、味噌のコク、醤油の切れ。
それらが合わさることで生まれる“旨味”という概念は、まだ言葉としてすら定着していない。
前久は敢えて説明しなかった。
理屈を語るより、体験させた方が早いと知っていたからだ。
やがて、ある公家が口にする。
「同じ米、同じ魚なのに、なぜこうも違うのだ?」
その問いは、料理人ではなく、前久のもとへ向けられた。
前久は穏やかに答える。
「東国の工夫、だそうだ」
名は出さない。
だが“工夫”という言葉は、公家たちの心に強く残った。
この日以降、前久の邸では
「東国の品」を用意できるかどうかが、料理人の腕前の一つと見なされるようになる。
旨味は、もはや味覚だけの話ではなかった。
饗応の格を決め、主の力量を示す――
それは政治の場においても、十分に力となり得る。
そして前久は、静かに次の手を考えていた。
この力を、どこまで広げ、
誰の名で世に出すべきかを。
名を呼ばれぬ功は、
今や都の中で、確かな影響力を持ち始めていた。




