第25話 名を伏せた約束
約束というものは、
必ずしも言葉にして交わすものではない。
名を出さず、
証文も残さず、
けれど確かに結ばれるものがある。
■ 静かな呼び出し
夕刻、正木家の裏口。
桜は父の後ろを歩いていた。
呼ばれた相手は、
城下でも古参と呼ばれる商人三人。
だが、桜は名を名乗らない。
父が言う。
「こちらは、話を聞く者だ」
それだけ。
商人たちは戸惑いながらも、
小さな少女を一瞥し、視線を戻した。
「正木殿、
味噌と醤油の件ですが――」
桜は口を開かない。
ただ、父の袖を軽く引く。
父は、合図を理解した。
「売らぬ」
「……は?」
「今は、売らぬ」
商人の一人が、声を荒げる。
「では、独り占めか?」
その瞬間、
桜が静かに言った。
「違います」
場が凍る。
「独り占めは、
“数を減らす”やり方です」
「正木は、
“関わる人を増やす”やり方です」
商人たちは、互いに顔を見合わせる。
「では、我らは何を得る?」
桜は、少し考えてから答えた。
「流れです」
「流れ?」
「売る順番、
運ぶ順番、
支払う順番」
「正木領では、
それが乱れません」
沈黙。
商人にとって、
それは金よりも重い言葉だった。
■ 条件なき条件
父が続ける。
「作り方は教えぬ。
値は決めぬ。
量も約束せぬ」
「だが――」
桜が言葉を継ぐ。
「破らないことだけは、
約束できます」
商人の一人が、苦笑する。
「名も出さずに?」
桜は頷く。
「だからです」
「名が出ないから、
裏切る意味がない」
その夜、
盃は交わされなかった。
だが、
商人たちは黙って帰っていった。
■ 家族の会話
その後、囲炉裏端。
父はため息をついた。
「ずいぶん思い切ったな」
桜は小さく言う。
「縛ると、逃げます」
「でも、
戻れる場所を作ると、
人は離れません」
母は微笑む。
「名を出さないのに、
名が残るやり方ね」
桜は少し照れた。
「覚えられるのは、
“人”じゃなくて、
“土地”でいいです」
■ 脳内戦略会議・結論
(名を伏せる)
(前に出ない)
(でも、流れの中心には立つ)
それは、
戦国という時代では
とても奇妙な立ち位置。
だが、だからこそ――
刃が向かない。
■ 約束の形
翌日から、変化はすぐに現れた。
商人たちは、
無理な値を吹っかけなくなった。
城下では、
争いが減った。
浜では、
荷の扱いが丁寧になった。
誰の名かは、
誰も言わない。
けれど皆、同じ言葉を使い始める。
「正木では、そうする」
名を伏せた約束は、
制度となり、
習慣となり、
やがて力になる。
桜はその様子を、
少し離れた場所から眺めていた。
(これでいい)
七歳の少女は、
今日も名を伏せたまま、
確かに国を動かしていた。




