第20話 醤油と味噌と料理番
七つになった春から、少しだけ時が流れた。
味噌樽の蓋を、そっと持ち上げる。
「……うん」
鼻に抜ける、あの匂い。
前世で何度も嗅いだ、懐かしい匂い。
(発酵、問題なし。カビも想定内。塩分濃度、たぶん大丈夫)
――いやいや。
(待って、今の言葉はダメ)
―――脳内戦略会議、開始。
(「発酵」は「寝かせた」「味が馴染んだ」
「塩分濃度」は「しょっぱすぎない」
「管理」は「見張っていた」)
……よし。
「お母さま、これ……もう、使えると思う」
母、正木椿は、少し驚いた顔で桶を覗き込む。
「これが……味噌、なのね」 「うん。大豆を潰して、塩を入れて、寝かせたの」
「……本当に、不思議なことを考える子ね、桜は」
苦笑いしながらも、母の声はどこか誇らしげだった。
その日の昼下がり。
正木家の台所に、料理番の女性が呼ばれた。
名を、おきぬ。
四十を越えた、腕のいい料理番だ。
「今日は、この子の話を聞いてほしいの」 「は、はい……?」
おきぬは、少し困惑しながら桜を見る。
七つの子が、台所で何を言うのか――
そんな顔だ。
桜は、小さな壺を差し出した。
「これが、しょうゆ」 「……しょう、ゆ?」
「黒いけど、魚とか、野菜に使うと美味しくなるの」
おきぬは慎重に指先で舐める。
「……!」 「しょっぱい……けど、香りが……」
「で、こっちは味噌」
今度は、味噌。
「これは、汁にするといいよ」
「汁……?」
(来た、ここだ)
桜は、必死に言葉を選ぶ。
「魚を焼いて、身をほぐして」 「貝とか、海のものを入れて」 「それで、これを溶かすの」
おきぬは、腕を組み、少し考え込む。
「……魚の臭みを、これが消すのか」 「うん。たぶん……いや、絶対」
即答だった。
夕刻。
家族が揃う膳に、新しい料理が並ぶ。
焼いた魚に、醤油を少し垂らしたもの。
貝と魚の身が入った、味噌仕立ての汁。
父・正木の当主は、箸を止めて匂いを嗅ぐ。
「……これは」 「桜の考えだそうです」
父は無言で口に運ぶ。
一口。
二口。
「…………」
場が静まる。
桜は、膝の上で手を握りしめていた。
(お願い、通って……)
「……うまい」
短い一言だったが、十分だった。
「海の物が、ここまで馴染むとはな」 「毎日でも、食べられる」
母も、そっと微笑む。
「胃が、楽ね……」 「優しい味」
兄姉たちも、驚いた顔で箸を進めている。
「桜、これ……」 「売れるな」
父の一言に、桜の胸が跳ねた。
(来た)
でも、すぐには言わない。
(焦るな、七才)
「……料理番の、おきぬさんが」 「作りやすいように、やり方を、書いてあるの」
桜は、小さな紙束を差し出す。
そこには、簡単な手順が、絵と短い文でまとめてあった。
「読めなくても、分かるようにしたの」
父は、紙を受け取り、しばらく眺める。
「……料理は、人に任せる」 「その土台を作るのが、お前か」
「うん」
静かな肯定。
(これでいい)
(全部を握らない。広げる)
その夜。
桜は布団の中で、そっと目を閉じた。
(味噌、醤油、料理) (畑、台帳、人)
―――戦は、まだ先。
でも。
(これは、勝てる戦)
七つの春。
正木桜の脳内戦略会議は、静かに、しかし確実に進んでいた。




