137話 最初に手放すもの
港の朝は、以前よりも騒がしい。
だが、その騒がしさは「慌ただしさ」ではなく、
日常になりつつある音だった。
桜は、役所の奥に設けられた小さな書き机の前に座っている。
机の上には、これまで自分が書き留めてきた覚書が積まれていた。
制度案。
交易路。
抑止の設計図。
もしもの撤退路。
――どれも、桜の頭の中から生まれたもの。
(これを……)
指先が、わずかに震える。
「……桜」
声をかけたのは、まな姫だった。
以前より、少しだけ表情が引き締まっている。
「呼びましたか?」
「いいえ。
でも……今、渡すつもりでしょう?」
図星だった。
桜は、観念したように笑う。
「はい。
“考えの中心”を、手放します」
机の上の束を、まな姫の方へ押し出した。
「これは、答えじゃありません。
私がどう考えてきたかの“痕跡”です」
まな姫は、すぐには手を伸ばさない。
「……怖くはないの?」
「怖いです」
即答だった。
「でも、
私が持ち続ける方が、もっと怖い」
もし、自分がいなくなったら。
もし、自分の考えが間違っていたら。
それでも里見が動けるように――
思考を属人化しない。
それが、最初に手放すものだった。
まな姫は、ようやく覚書を受け取る。
「重いですね」
「ええ。
だから、私一人で持つべきじゃない」
二人は、しばらく無言で向き合った。
やがて、まな姫が言う。
「桜。
あなたは、まだ里見に必要です」
「……分かっています」
「でも、
“全てを決める者”ではなくなる」
その言葉に、桜は静かにうなずいた。
「問いを投げ、
流れを読む役に回ります」
その時――
役所の外で、声が上がった。
他領の役人が到着したという報せ。
制度を探りに来た者たちだ。
まな姫は、深く息を吸う。
「……行きましょう。
今度は、私が前に出ます」
桜は、少し後ろに下がった。
視界が、変わる。
これまで見ていた景色と、
同じはずなのに、役割が違う。
(……これでいい)
胸の奥に、静かな確信が芽生えた。
最初に手放したのは、
“中心であろうとする意志”。
だがそれは、
里見から離れることではない




