136話 渡すという選択
朝の光が、港の水面に反射している。
完成したばかりの桟橋では、商人と職人が静かに動き始めていた。
桜は、その様子を少し離れた丘から見下ろしていた。
(……私がいなくても、回っている)
昨日までは、その事実が怖かった。
けれど今は――
胸の奥が、少しだけ軽い。
そこへ、足音。
「桜様」
振り返ると、百地三大夫だった。
いつものように、気配を消して立っている。
「伊賀からの報せです。
……大きな動きはありません」
「そう」
短い返事。
それでも百地は、桜の表情を見逃さない。
「……何か、決められましたか」
桜は、少しだけ考えてから答えた。
「いいえ。
でも、“決めないこと”を決めました」
百地は、意外そうに目を細める。
「ほう」
「全部を把握し、全部を判断し、
全部の責任を背負うのを……やめます」
言葉にした瞬間、
胸の奥で、何かがほどけた。
「里見には、もう――
考える人が、たくさんいる」
慈光尼。
まな姫。
百地。
職人たち。
制度を動かす役人。
「私は……
“考え続ける役”から、
“問いを投げる役”に回ります」
百地は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「それは、
指揮官よりも、厄介な役目ですな」
桜は、苦笑した。
「逃げ道を塞ぐ役でもありますから」
百地は、わずかに口角を上げる。
「……伊賀は、その問いに答える側に回りましょう」
桜は、深く息を吸った。
そこへ――
港から声が上がる。
新しい船が、初めて荷を積んで出るのだ。
人々の表情は、緊張と期待が入り混じっている。
誰もが完璧な未来など信じていない。
それでも、進む。
桜は、その光景を目に焼き付けた。
(私は、道を作った)
(でも、歩くのは――みんなだ)
それでいい。
自分が消えなくても、
自分がすべてでなくても、
里見は続く。
「……次は、何を渡そうか」
その呟きは、
不安ではなく、静かな覚悟だった。
戦わない戦国。
生き残るための里見。
それはもう、
桜一人の思想ではない。




