135話 静止の夜、言葉を持たぬまま
夜明け前。
空がまだ藍色のまま、鳥の声も遠い刻。
桜は、いつもより早く目を覚ました。
考えきれなかった思考は、
眠れば消えるわけでも、
答えを連れて戻ってくるわけでもなかった。
ただ――
重さだけが残っている。
衣を整え、そっと外に出る。
港へ向かう道ではない。
工房でもない。
政の場でもない。
桜の足は、
何も決めていない場所へ向かっていた。
草の露が足袋を濡らす。
土の冷たさが、妙に心地いい。
(……私は、考えすぎている)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
戦国。
誰もが、完全な答えなど持たずに生きている。
間違え、失い、選び直しながら。
自分だけが、
「最善」を求めすぎているのかもしれない。
そこへ――
背後から、気配。
「桜」
振り返ると、慈光尼が立っていた。
まだ朝餉の鐘も鳴らぬ時刻。
「……起こしてしまいましたか?」
「いいえ。
今日は、私も眠れませんでした」
二人は、言葉少なに並んで歩く。
しばらくして、桜がぽつりと漏らした。
「私……
どこまでやれば、いいんでしょう」
慈光尼は、すぐには答えない。
「すべてを整えても、
世界は思い通りにならない。
それが、あなたにも見えてきたのですね」
桜は、うなずいた。
「限界を感じています。
一人で考えることに」
慈光尼は、少しだけ微笑む。
「それは、弱さではありません」
そして、静かに続けた。
「“渡す時”が近い、という合図です」
渡す。
何を?
誰に?
桜の胸が、ざわりと揺れる。
「すべてを決める役目から、
少し降りるだけでもいい。
答えを、誰かに預けるのも、政です」
桜は立ち止まり、空を見る。
藍色が、少しずつ薄れていく。
(……私が消える、じゃない)
(私が、分ける……?)
初めて、
「居なくなる」以外の選択肢が、
輪郭を持ち始めた。
その時――
港の方から、鐘の音。
朝だ。
里見は今日も動き出す。
桜が悩んでも、悩まなくても。
それを見て、桜は小さく息を吸った。
「……まだ、答えは出ません」
「それでいいのです」
慈光尼は、はっきりと言った。
「答えが出ないまま進むことも、
また、正しい歩みですから」
桜は、うなずいた。
この先、
何かを託す回になるのか。
自分の役割を変える回になるのか。
それとも――
思いもよらぬ出来事が、答えを連れてくるのか。
それは、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
桜は、もう一人では考えない。
次の一歩は、
誰かと共に踏み出すためのものになる。




