Ⅰ
朝、レオンが目を覚ますと視界いっぱいに黒色が広がっていた。
「・・・えっ?」
目を開けても黒い視界に違和感を覚えて驚くが、起き上がるとすぐにその原因が分かった。
ぼてっと音を立てて、顔から何かが落っこちたのだ。膝下を見ると、まだそれは蠢いている。黒い毛皮がゴソゴソ動き、二本のしっぽがうねうねと波打つ。
『痛いのう・・・・何をする。この腐れオカマ』
そして、それは声を発した。それだけで、昨日の記憶が彼の寝ぼけた脳みそに浸透する。
「てっめぇぇええ・・・・・・なんっでここにいるんだよ!!」
そう言うと同時にサエが乗ったままの布団をひっくり返す。重力に引かれて落ちそうになったサエは、そのままうまく受身をとって絨毯の上に着地した。
「んっ?絨毯?」
よくよく見ると、自分が寝ていた部屋はとてつもなく豪華だ。小さめのシャンデリアに、床を覆う絵画の様に精密で芸術的な絨毯。品のある壁紙に上部にステンドグラスの埋まった窓からは朝の暖かな光が差し込んでいる。
今座っているベッドも、低反発で寝転がると疲れが吸い込まれるような感覚がするだろう。
「あれ?ここ、どこだ??」
先ほど思い出したのはサエのことだけなので、今の状況が分からずに首をひねる。
『何を言っておる?ここは、ちょーちょーの家だろう?』
成程、と言う前に大きな木彫りの扉が開く。
「あっ、起きたんですね。おはようございます。レオンさん」
そこからやって来たのは、まだ着替え終わっていないパジャマ姿のままのシェランだった。栗色の髪はまだ櫛が入れられていないのか少し撥ねていて、髪飾りもついていない。淡いピンク色の水玉がプリントされた庶民的な服装は、豪奢なこの部屋にはあまり合っていない。しかし美しい顔立ちは優雅な部屋とよくマッチしており、アンバランスな感じがする。
「きっと疲れてたんですね。着いて部屋に案内していただいたら、すぐ寝てしまいましたから」
そう言って、自然な動作でベッドの脇に座る。長い髪がふわりと舞い、レオンに夜行列車でのことを思い起こさせる。
すぐ隣にあった彼女の体温。柔らかな石鹸の香りと、微かに頬の赤い顔。
それらを完全に思い出して、顔が赤くなったレオンはそれを隠すために窓の外の景色を見つめた。
「あ、ああ。そうだったよな」
本当はよく覚えていないのだが、適当に相槌をうっておく。外には、大きくて荘厳な赤レンガ造りの建物が建っていた。その周りは塀で覆われており、庭と思わしき場所には石像などが置いてある。
「美術館ですよ」
「えっ?」
「ふふっ・・・やっぱり、あんまり覚えてないんですね。昨日、ちゃんと説明してもらったのに」
時間が経ってきて大分緊張が溶けてきたのか、親しみを込めた笑顔を向けるシェラン。朝日に当たって美しく輝く瞳を、レオンは思わず見つめてしまう。そこに、サエが割って入った。
『貴様の記憶力の良し悪しはどうでもいい!さっさと準備して下に行くぞ』
「そういえば、ちょーちょーさんが“朝食の用意ができましたよ”って」
どうでもいいことだが、彼女らの発音はどうにかならないのだろうか。
苦笑し、レオンは起き上がった。シェラン達には先に行っておくように話し、彼女らが退室したところで着替えに腕を通す。
「やべぇ・・・マジで記憶が曖昧だ」
寝る前の事を思い出そうとするが、具体的な事は何一つ思い出せない。ただ一つ思い出せるものは
「虹色の・・・・髪?」
闇の中妖しく光る、虹色の長い長い髪。物珍しくもどこかなつかしいそれを、レオンは思い出していた。
「どっかで見た気がするんだよなぁ」
しかし、全く思い出せない。その髪から不思議と連想できる言葉は
「氷の花」
奇妙なほどに口に馴染んだ、その言葉。
「一体―――――何なんだ?」
不可思議な頭痛に眉を顰め、痛む頭をさする。その理由に答えてくれる者は、まだここにはいなかった。
「町長!町長、大変です!」
豪華な朝食を広い部屋の中で摂っていた時のこと。
軍の憲兵が一人、駆け込んで来た。その言葉を聞き、驚いた老人はすぐにその場から立ち去ろうとする。しかし、国家魔術師の二人がいるのを思い出して席に座り直した。
「・・・何だ」
電車内での雰囲気とは打って変わった、重苦しい声が響く。その威厳に気圧されたのか、まだ若そうなその憲兵はぴしっと敬礼する。
「はっ!・・・・え、えと。グラフィ殿が、殺害されました!」
その発言に、部屋中にざわめきが走った。
「それで、状況は?」
立ち上がり、町長の息子である男。マーキン・プアンが尋ねた。
「はっ!被害者はドランケン・グラフィ。加害者は現在不明です。魔法が使用された形跡はありませんでした。昨夜、酔ったまま酒場を出、帰宅途中何者かに心臓をナイフで貫かれた模様です。死体のそばには、彼の血で書かれた“一人目”という文字。それは何か手袋をはめたまま書かれたようで、国家科学技術師の方によると指紋は検出されなかったようです」
「目撃者は?」
「“暗くてよく分からなかったが、闇に紛れるような漆黒のコートを着ていた”と。それから・・・“真っ白な仮面を被り、黒いコートを着ていた”と、近くの店から帰宅途中だったという人物二人から得られました」
他に報告はないらしく、彼は一礼して去っていった。
「仮面、か」
プアンはそう呟き、父親である老人に指示を促すように視線を向ける。視線の向けられた老人は、レオンとシェランに向かって言った。
「急で悪いんですが、どうやら仕事のようですね」
「嗚呼、証拠は一切なし。おまけに仮面を被っているせいで、性別、人相すら分からないんじゃな」
行くしかないだろうと、レオンは溜息をついて頷く。その言葉に、訳がわからないというように彼の隣に座ったシェランは首を傾げた。
「証拠も何も見つかっていないのに、どうするんですか?」
「そういえば、シェランは何も知らないんだったな。俺の目について」
早々と朝食をすませると、彼はシェランとサエの二人を連れて殺人事件のあった現場へと趣くこととなった。
出発する所だった彼らを、
「余計なことはするなよ」
と釘を刺しながら老人は苦々しい顔で見送った。
死体の取り払われたその路地には、まだ血がこびりついていた。昼間でも薄暗い、普通は夜だろうと敬遠するだろうその場所に、被害者は酔った勢いで足を踏み込んでしまったのだろう。
「申し訳ありません。死体は鑑識にまわしてしまいまして・・・ですがこの場所は、死体以外は発見当時のままで保存してあります」
兵の一人が頭を下げながらそうレオンに言った。少し怯えたような目つきで、周りの軍人達は彼を見つめていた。
「保存する必要はないさ。そこがどんな惨状になろうと、この目は全てを見ることができる」
現場を目の前にして、レオンは右手を上げた。それと同時に、淡い赤と黄色の模様がついた魔法陣が展開する。その柔らかな光は、暗い路地全体を覆い尽くした。
『・・・何をしている?』
「見たことない魔法ですね」
「あれは下地だ。あの魔法陣の光に当たった範囲は、たとえ何時間経ってもどんな状態になろうともその当時の状態を俺の目に映す」
レオンの両目が、それぞれオレンジ色と黄色に輝く。その瞳には、昨夜の晩の光景が映し出されていた。
淡い色の魔法陣に照らされた犯行時刻時の映像が、レオンの瞳に映し出される。
酔った足取りで、男が路地に倒れ伏した。壁に背中を預け空を仰ぐと、彼はそのまま眠り込んでしまう。
何も変化がないので早送りにする。その約三十分後、変化があった。
漆黒のコートを身にまとい、フードのせいで顔も髪型も見えない誰か。その誰かは男の目の前にしゃがみこみ、見せつけるように顔を近づけて何かを話す。
その位置からは顔が見えないので、レオンは立ち位置を変えた。しゃがみこみ、怪しい人物の顔を覗き込む。声を聞くことはできないので、話の内容はわからない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘘だろ」
その見覚えがある顔に、レオンは絶句した。思わずため息をつく。
「この事件は長引くな」
その何者かが男を刺殺したところで、過去の映像をかき消した。
「・・・・・・・・・・・・・・マズイ。かなりマズイ」
「何がですか?」
『で、犯人は分かったのか?』
後ろから兵達の間からひょっこりと顔をだしたシェランとサエ。
「・・・分からなかった。ちょうど影になっててな」
思わず嘘をつくレオン。まさか、犯人がすぐそばにいるとは言えない。
そう。犯人はすぐそばにいる。驚くほど近くに。
目的も、理由も分からないが、確かに何かの計画性を持って。
本心や本性を、身分と言う仮面で隠したまま――――――