「貴方でしたら、気付くと思っていました」(候爵令嬢視点)
「······やはり気付いていたのですね」
王太子妃は微笑んだままだが、明らかに雰囲気が変わった。舞踏会で見せていた、無邪気な笑顔とはまた違う。
柔らかく、慈悲深く。
王族としての、顔。
「貴方でしたら、気付くと思っていました」
ティーカップを置く音が響く。
「······あら」
王太子妃は呼び鈴を鳴らすと、王太子妃付きの侍女が現れた。
「お呼びでしょうか、王太子妃殿下」
「お茶のおかわりを頂けるかしら? できれば、気持ちが落ち着く香りのものがいいのだけれど」
「畏まりました。すぐにご用意致します」
扉が静かに閉まる。
「お話をするのは、お茶が来た時でもいいかしら?」
「······勿論です」
わたくしに否やと言う選択肢はない。程なくして、侍女が戻ってきて、ティーカップに紅茶を注ぎ入れる。嗅いだこともない、甘くて落ち着く香りが香り立つ。侍女は静かに一礼した後、部屋の扉を閉じる。
「我が国から取り寄せた品です」
口火を切ったのは、王太子妃だった。
「紅茶には花とその蜜を使用していまして、とても香りがよいと評判なのです。気に入って頂けたらいいのですが」
「······確かに」
その香りに、目を細めた。
「我が国にはない香りですが」
一口飲んでみて、わたくしは微笑んだ。
「とても上品な味ですね」
こんな場でなければ、もっと楽しめたかもしれないが。王太子妃はわたくしに微笑み返した上で、「よかった」と呟いた。
「それで、」
王太子妃はわたくしに言った。
「私に何か聞きたいことがあるのでしょう?」
「······何故、あのような噂を流されたのですか?」
わたくしの噂を流したのは、王太子妃だった。無論、王太子妃が主導していたとしても、実際に手足となって動いたのは王太子妃付きの侍女や使用人達だろうが。
「ああ、やはり信じていないのですね」
変わらぬ微笑みを浮かべながら、王太子妃はそんな言葉を口にする。わたくしは聞き返す。
「何のお話ですか?」
「噂の中では『王太子妃が王太子の元婚約者に嫉妬してあらぬ噂を流しているのではないか』と言うものもありましたので」
「そんなもの、信じるわけがありません」
わたくしは断言した。
強いて理由を挙げるのならば、
「感情論で物事を見るような輩は、我が国にとって害でしかありませんから。······国王陛下も隣国との国交に心砕いているのです。王太子妃殿下、貴方様の国とて例外ではない筈です」
先王が引き起こした戦争で疲弊している状況で、私情を優先するような相手を送り込んで、状況を悪化させるようなことは避けたい筈だ。
「ええ、そうですね」
王太子妃は頷いた。
「父が私を指名した際、『お前が適任だ』と言われましたので」
感情が決してないわけではなく。国の為に最善を尽くすと判断されたのが、目の前にいる王女だった。
「私は両国に身を捧げる為に嫁いできましたので、私情を優先する暇などある筈がありません」
「そういった意味では、『夫』とは同じ境遇と言えるかもしれませんね」と、王太子妃は呟いた。
脳裏に王太子殿下の姿が過ぎった。
「では、何故」
「先代の公爵が起こした末の王子襲撃事件が原因です」
王太子妃は目を伏せた。
「あれさえなければ、貴方に干渉しようとは考えなかったのですが」
末の王子襲撃事件は酷いものだった。王族が害されたのも勿論、国境付近で襲撃を受けたのだ。
「実は私が嫁いできた際も、似たようなことが起きたのです」
初耳だった。息を呑むわたくしに、王太子妃は微笑んでいるものの、先程は感じなかった紅茶の苦みが広がったように思った。
「公にするのは伏せたのです。幸い、大事には至らなかったので」
曰く、襲撃犯の主犯は捕縛したものの、尋問にかける前に自害されてしまったと言う。ただし、自害したにしては、不自然な部分も多く。何より、「襲撃犯が自害した」と報告したのは、先代の公爵だった。
「·····口封じの為に、主犯を手にかけたと言ったところでしょうか」
「ええ。ですが、証拠が見つからなかったそうです」
死人に口なし。状況的には限りなく黒に近い。にもかかわらず、証人もいなければ、証拠もない。事を公にすれば、隣国のみならず諸外国との関係が揺るぎかねない。結果、王家は事を伏せることにしたのだ。
「王太子妃殿下は、よろしかったのですか?」
「ええ、事を荒立てようものならば、状況が悪化していくのみ。王家の判断は正しかったと思います。ただ、」
王太子妃はため息を漏らす。
「愚かだったとは思います。水面下で調査していれば、あんなことは起こらなかった」
「······襲撃事件のことを指しているのですか」
「ええ、私が嫁いだ直後に起きましたから」
「······酷い状況だったと、父から聞いています」
「·····そうですね」
王太子妃は静かに頷いた。
「私があのような末路を辿ったとしても、何の不思議もありませんでした」
「······」
「証拠も何もない状況で、また何かあれば、国際問題に発展する恐れがありました。同時に戦争が起こる可能性すらも」
隣国の王女は言った。
「私の役目は王太子妃として、国交の正常化を促し、両国の友好関係を築き上げること。それを邪魔立てするのならば、利用できうるものを利用し、排除する必要がありました」
「·····その利用できうる『者』がわたくしだったと言うわけですね」
「ええ、その通りです」
何の躊躇いもなく、王太子妃は頷いた。
「外から崩せないのならば、内側から腐らせてしまえばいい」
その手段こそが、わたくしーー公爵夫人という『花嫁』だった。
「その為に侯爵令嬢ーー貴方をあの家に嫁がせたのです」
「······このお話は国王陛下や王太子殿下にも」
「ええ、国王陛下は快諾してくださいました」
「······」
「ただ、」
王太子妃殿下は目を伏せる。
「王太子殿下には最後まで反対されましたけれど」
気付かれない程度に、わたくしは息を呑んだ。
「······それは、何故?」
「『国の行く末を、一人の令嬢に背負わせるべきではない』と」
他に手立てを考えるべきだと、王太子殿下は主張していたらしい。結局、王命により、わたくしは公爵家に嫁ぐことになったが。
「······お話は分かりました」
わたくしは静かに声を発した。
「ですが、何故あのような噂を流されたのですか?」
侯爵家に、一言命じるだけでいい。
ーー『嫁げ』と。
お父様は難色を示していたものの、最終的に王命に従うこととなった。わざわざ、わたくしを『悪役令嬢』に仕立て上げる必要はどこにもなかった筈だ。
それなのに、何故。
「······不快な思いをするかもしれませんが」
前置きした後、王太子妃は言った。
「貴方が公爵家に取り込まれるのを防ぎたかったからです」
「······は、」
淑女らしからぬ声が出た。
「どういう意味でしょうか、王太子妃殿下」
知らず知らずのうちに、声が震えていた。
「わたくしが、王家を裏切る可能性があると、お考えに?」
「ええ、そうですね」
「······は、」
相手が誰なのかも忘れて、わたくしは嗤う。
淑女らしからぬ笑みだと、指摘されずとも分かる。けれども、押さえきれる気がしない。
それ程までの、激情。
「王太子妃殿下。貴方様はわたくしを知らずにそのような判断をされたご様子。ですが、わたくしは侯爵家の娘として、この国の民の一人として、今の王家に反逆の意思を持つ気はございません」
今後も決して来ないだろう。
何故なら、わたくしは、
「妙な勘繰りはお止めください。······正直に申し上げますと、あまり気分がいいとは言い難く」
「そうですね、ごめんなさい」
尚も言葉を続けようとしたわたくしに、隣国の王女は静かに謝罪の言葉を口にした。それだけではない。一介の令嬢相手に、頭を下げていた。
「貴方の噂を流したのは、私の過ちだわ」
「ーー、」
「両国の礎の為とはいえ、何の非もない貴方を悪し様に言ったのは、明らかに私の落ち度だった」
焦っていたのだと、目の前にいる王女は語った。
「責任を問うのは王女である私だけに。私の手足となって動いた侍女達は私の命令に従っただけだから」
頭を下げる姿にすら品格は宿るものなのだろうか。見る者が見れば、息を呑み、その姿に感動の吐息を漏らすだろう。
ーーこの、卑怯者。
「······まだお話は終わっておりません」
やっとの思いで、言葉を吐き出した。
「何故、あのような噂を流されたのですか? わたくしを裏切らぬようしたいのでしたら、もっと他にやりようがあったと思うのですが」
もしも、噂の出所が王太子妃であると知った場合。恨みの念を募らせて、逆に王家に向ける可能性があるのではないか。
「そうですね。先程も言いましたが、貴方の裏切りを防ぐ為でした」
「ですから、何故、そのような判断をされたのですか?」
わたくしが裏切ると判断をした明確な『根拠』が知りたかった。
「不快な思いをされるでしょうが」
「······ええ」
「公爵家を警戒してのことでした」
「·····公爵家を?」
「ええ、そうです」
眉を寄せるわたくしに対して、王太子妃は顔を上げて、根拠を話した。
「より正確に言えば、先代の公爵当主が問題だったのです。あの方は今の王家に叛意を抱き、その為の糸口を探っていたらしく」
先代は先王に心酔し、未だに先王の御代を夢見ている男であり、利用できうるものは利用し、排除するものは排除し尽くす性質だった。
「王家は公爵家を排除したいと考え、私の『提案』を承諾して下さいました」
侯爵令嬢であるわたくしを『密偵』として嫁がせると言う王命を。
「しかし、嫁がせるに当たって、懸念点がありました」
「·····何でしょうか?」
「密偵と送りまれた後、貴方が本当の『公爵夫人』になると言う可能性です」
「ーーそれは、」
一呼吸置いて、わたくしは王太子妃を見据えて言った。
「わたくしが『旦那様』に情を抱くと考えていらっしゃったのですか?」
「正確に言えば」
王太子妃は静かに答えを提示した。
「貴方が公爵の子を身籠る危険性を考えていました」
「······王太子妃殿下、それはあり得ない可能性です」
わたくしは王太子妃を否定した。
「先程も申し上げました通りでございます。あの方は妻と閨を共にしようと考えていませんでした」
そんな状態で、子供などできる筈もない。
「王太子妃殿下のそれは杞憂に過ぎません」
「私が案じていたのは何も公爵だけの話ではありません」
王太子妃は首を振って、わたくしを見た。
「たとえ公爵にその気がなくとも、先代の命令があれば話が変わってきます」
「······つまり、先代が公爵にわたくしを懐柔せよと命じると考えていたのですか?」
それこそあり得ぬ話だった。
「『お義父様』はわたくしを目の敵にしていました。王家から遣わされた花嫁であるわたくしを」
そんな花嫁を、わざわざ公爵家に引き込むとは思えなかった。
「何より先代がわたくしにそこまで価値を見出だすとは、とても、」
「貴方を引き込めば、」
王太子妃はわたくしの言葉を遮り、淡々と言った。
「王家の密偵としての価値が揺らぎます」
「······ーー」
「貴方は侯爵家の娘であり、王太子殿下の婚約者にまで選ばれた方。王家に選ばれた令嬢はその立場だけで価値があります」
「おそらく貴方が考えているよりも、ずっと」と、王太子妃は付け加える。
「当時、公爵家は先代が実権を握っており、本来の当主は傀儡も同然の状態でした。そんな中で、貴方が嫁げばどうなるのか、」
「それは杞憂に過ぎなかったと、王太子妃殿下もよくご存じの筈です」
「ええ、ですが」
王太子妃は断言した。
「それは悪評が出回った後に過ぎません」
思わず、王太子妃を見た。
「貴方の悪評を聞いた先代が利用価値を見出ださず、貴方を敵と見なし、公爵に何も吹き込むことはしなかった」
何も言えず、王太子妃の唇から零れ落ちる言葉を聞いていた。
「その為、貴方の価値が揺らぐことはなかったのだと、」
「王太子妃殿下は」
王太子妃の言葉を遮るなど、不敬罪に相当する。
分かっていながら、わたくしは王太子妃の言葉を遮った。
「後悔していらっしゃらないのですね」
わたくしを陥れたことに関して。
「······そうですね」
一瞬の間を置いて、王太子妃はわたくしの言葉に対して頷いた。
「貴方を巻き込んだことに関しては申し訳なく思っています。ですが、貴方の悪評を広めなければ、貴方は公爵家に利用されていた可能性がありました。その可能性を潰したことに関しては後悔しておりません」
ーーああ······。
諦めにも似た感慨が沸き上がる。
「······そうですか」
わたくしの悪評を立てたことを、申し訳なく思っているのは本心だろう。一方で、わたくしを公爵家に利用されないよう立ち回ったことに関しては後悔していないと言う。
その、傲慢さ。
彼女は確かに王家に生まれた者である。他者を従えるに足る資質も、王太子妃にふさわしいものに思えた。少なくとも、この王女は両国の為に必要だと考えた上で、わたくしを貶めたのだ。
その非情さは今の両国に必要なものだと思った。
「······わたくしに隣国のことを教えて下さったのは、わたくしの悪評を広めた罪滅ぼしのおつもりで?」
「·····そうですね。それもあります」
「他にも何か理由でも?」
「そうですね。強いて言えば、復讐とでも言えばいいのでしょうか」
「·····復讐?」
穏やかとは言えない言葉だった。
「次期女王候補だと、王子達よりも優れていると褒め称えながら、友好関係を結んだ途端、『お前は用済みだ』とばかりに、王位継承争いから振るい落とされたことに対する、私なりの意趣返し」
慈悲深く、傲慢と呼ぶべき王太子妃の目に、煮えたぎる何かを見た。
「復讐だなんて、烏滸がましいかもしれませんが」
王太子妃は一瞬瞬きをした後、慈悲深い微笑みを湛えていた。
「貴方が隣国で平穏無事に過ごして下さることが、今の私の望みです」
「······承知致しました」
わたくしは王太子妃に頭を垂れる。
「王太子妃殿下のお望みに叶うよう、精進して参ります」
「ええ、よろしくお願いします」
この話は、これで終わりだ。
そう思うと、ふとした疑問が沸き起こる。
「王太子妃殿下は当初、わたくしのことを疑っていたご様子。なのに、何故今はわたくしに信頼を寄せて下さるのでしょうか?」
正直、何故としか言いようがない。わたくしが王太子妃と話す機会など、決して多くはなかった。隣国のことを知る為とはいえ、ここ数日王太子妃と謁見した上で、一対一で言葉を交わす機会に恵まれているのは、異常でしかない。信頼を寄せるだけの時間も、言葉も交わしていない。
なのに、何故。
「それは、」
王太子妃が何か言いかけた時。
扉を叩く音がした。
「とうぞ」
「失礼致します。王太子妃殿下」
入ってきたのは、王太子妃付きの侍女だった。
「何かあったのかしら?」
「はい。王太子殿下が『侯爵家のご息女を執務室に連れてくるように』と」
「······わたくしを?」
「はい」
静かに答える侍女に、王太子妃は鷹揚に頷いた。
「きっと隣国行きの日程が決まったのでしょう」
すぐに向かうよう、わたくしは王太子妃の前を中座しようとした。
「先程の答えですが」
王太子妃がわたくしに声をかける。その時にはもう、王太子妃に背中を向けていた。わたくしは振り返り、息を呑む。
「貴方を信頼する理由など、一つしかありません」
王太子妃は微笑んでいた。
だが、それは慈悲深いものでもなければ、王族としての傲慢さが滲み出るものでもなく。
例えるのならば、そう。
「王太子殿下が貴方を信頼しているから。理由はそれだけで十分です」
羨望にも近い眼差しであった。