「旦那様、離縁してくださいませ」(公爵夫人視点)
「旦那様、離縁してくださいませ」
場が凍てついた音がした。
「な」
隣に佇む旦那様はわたくしを見下ろしながら、顔を強張らせていた。旦那様だけではない。わたくし達を囲うように静観していた紳士淑女の貴族が呆気に取られた顔をしていた。
そう、ここはわたくし達夫婦が居を構える屋敷内ではない。王宮内で行われる舞踏会の真っ只中だった。
「何を言っているんだ、君は!」
「何をと申されましても、言葉の通りですわ」
上品に、優雅に。誰もが見惚れるような。そんな微笑みを浮かべてみせる。
「わたくしはあなたと夫婦の縁を切りたいと考えております」
「!」
「ほら、これを見てくださいな」
わたくしは離婚届を掲げてみせた。周囲が俄に騒ぎ出した。皆さん、とても目がいいのかしら。
「こちらを教会に提出すれば、すぐに受理してくださいますわ」
離婚届には旦那様とわたくしの直筆のサインが既に綴られている状態だった。掲げられたそれに、旦那様は絶望のどん底に落とされたかのように、顔を青ざめていた。
「君は、まだ持っていたのか······」
「当然ではありませんか、氷の公爵様」
微笑みを湛えながら、わたくしは小首を傾げてみせた。
「あの日から、もう一年。この日が来ることをどれ程心待ちにしていたことか」
悪女だと、誰かが呟く声がした。旦那様にこんな顔をさせてしまうわたくしは確かに悪女なのかもしれない。けれど、今更だ。
わたくしはずっと『悪役令嬢』だと言われてきたのだから。
◆ ◆ ◆
王太子殿下とわたくしの婚約解消が成されたのは、必然だった。王太子殿下との仲は決して悪いものではなかった。しかし、国同士の取り決めの前には、婚約者同士の仲など塵も同然。
先王が残した負の遺産ーー国家間での戦争は先王の急死に伴い、和睦が結ばれた。戦好きの先王は領土拡大と称して、あちらこちらに戦に仕掛けては、領土拡大を有言実行していたのだから質が悪く。
隣国との戦争もそれが目的だったものの、膠着状態に陥り、それは数年にも及んだ。その頃には既に我が国は国王が代替わりをしていたのだが、先王の影響力は残っており、現国王は先王が急死するまで傀儡に徹していた。先王の崩御によって、現国王の親政が始まったと言っても過言ではない。
現国王陛下が初めに着手したのは、先王が起こした戦争の後始末であった。和睦が結ばれるまでも様々な軋轢や困難があったが、国同士の和解はようやく成された。
国同士の和解には王族含めた上流階級の令息令嬢の婚姻が必要とされるのは謂わば暗黙の了解。ただ、片方にのみ人質を送るのは具合が悪い。対等であることを証明する為、双方の王子王女を送り合い、真に和睦は成立したと公にされた。
既にわたくしと王太子殿下は婚約を交わしていたのだが、隣国の王女との婚姻に伴い、王太子殿下との婚約は解消せざるを得なくなった。
『すまない』
非公式の場で、王太子殿下に謝罪された。何の落ち度もなかったのに、謝罪の言葉を口にされる王太子殿下の姿を見て、逆に申し訳なく思った程だった。
その後、王太子妃として迎えられた王女殿下は、王太子殿下と仲睦まじいと評判だった。
何も思わないわけではないけれども、わたくしも侯爵家の人間として夫となる方を探さなければならなかった。しかし、夫探しは思った以上に困難を極めた。何故かわたくしは『悪役令嬢』だと囁かれていたからだ。
曰く、王太子殿下との婚約が『破棄』されたのは、わたくしが我が儘で横暴だったから。
曰く、王太子殿下と王女殿下との『真実の愛』を邪魔立てした悪しき人間だとか。
曰く、王太子殿下に愛想を尽かされる程の身持ちの悪さだとか。
他にも散財癖が激しいなど、噂に流れる『悪役令嬢』はわたくしの実像と大きく掛け離れており、その上、噂が広まる速さが尋常ではなかった。
何者かがわたくしの悪評を広めているのは明らかだった。
誰が何の目的があって流しているのか。単純に考えれば、王太子殿下の元婚約者であるわたくしに対する嫌がらせ、派閥争いの延長線。あるいは王太子妃となった隣国の王女殿下。王女殿下がそれを指示したかどうかは関係ない。王太子妃は嫁いできた際、付き人を何人か従えてきたらしい。その付き人の誰かがわたくしと王太子殿下との関係を勘繰って、主人の為にと頼まれてもいないのに悪い噂を流すなんてこともあり得る話だ。
『国の為とはいえ、我々侯爵家から次期王妃を輩出できなかったのが大きいのかもしれん』
当然、わたくしのお父様である侯爵家当主の耳にも入り、そんな考えを溢していた。次期王妃を輩出すれば、その家は栄華を極めることができる。無論、あまりにも家柄が低ければ、選ばれる筈もないが。
娘であるわたくしが次期王太子妃に選ばれたのは、ひとえにお父様の努力の賜物だった。侯爵家から王太子妃ーー王妃が輩出すると考えられていた時期、わたくし達にすり寄る人間もまた多かった。
しかし、王太子殿下との婚約が破談になった途端、近寄ってきた人間は全員蜘蛛の子を散らすようかのようにいなくなっていった。代わりに、嘲笑う人間が増えたのだ。
お父様はその延長線ではないかと言っていた。
『噂を揉み消すことは可能でしょうか』
『ほぼ不可能だろうな。逆に何かあるのではないかと疑われかねない』
完全に手詰まりだった。わたくしの嫁ぎ先は後妻か、それとも修道院に行くか。どちらしか方法がないと思われていた時。突然、王家から縁談が持ち込まれたのだ。氷の公爵と呼ばれる男に嫁ぐ。王家から持ち込まれた縁談は、王命。そして、わたくしは公爵家に嫁ぐことが決まったのだ。
◆ ◆ ◆
「言っている意味が分かっているのか、君は」
ーー氷の公爵。
両親の不仲が原因で、心を閉ざした公爵子息が爵位を受け継ぎ、常にその美貌が微笑まず、固く無表情を貫いている姿から、いつしか呼ばれるようになった異名。氷と称される美貌が絶望に染まり、妻であるわたくしを見つめている。
「君と私の婚姻は王命によるもの。離縁は王命に背くも同じことだ」
「重々承知しておりますわ、旦那様」
離婚届を突き付けた腕を下ろしながら、わたくしは頷いた。
「最悪の場合、わたくし達のみならず、我が家門にも累が及ぶであろうことも」
王家に反逆の意思があるとして、御家断絶もありえるのだ。一族郎党、処罰を受ける危険を孕んだ行為である。一年前のわたくしならば、こんな自殺行為をするわけがない。
が、今のわたくしは違う。そもそもの話。
「分かっているのならば、何故、」
「旦那様がそれを仰るのですか?」
旦那様にわたくしを責め立てる資格などありはしない。
「最初に離縁を申し出たのは、他でもない旦那様ではありませんか」
「·······ッ!」
騒ぎがまたもや大きくなった。
「わたくしは侯爵家の娘として厳しい教育を受けてきました」
加えて、次期王太子妃として、王宮で教育を受けていた時期もある。
「わたくし、我が家の家庭教師に褒められる程、とても記憶力に優れていますの」
「ですので、よく覚えております」と続けて言った。
「『君を愛するつもりはない』」
「······!」
「『この婚姻は王命によるものであって、君を迎え入れたのは、私の本意ではなかった。間違っても、私に要らぬ期待はしないように』」
一年前に嫁いできた妻がわたくしでなければ、屈辱と絶望のあまり自害していたであろう言葉の数々。
「その後、わたくしに離婚届にサインをするように求められましたわよね? ······嫁いできて、まだ半日も経っていませんでしたのに」
「······ッ」
反論できないのか、旦那様はギュと唇を噛み締めている。夫の姿を見つめながら、わたくしはあの時の旦那様を思い出していた。この男は従者が恭しく持ってきた一枚の書類を提示して、わたくしにサインをするよう命じたのだ。
『君の噂は耳にしている。だが、この屋敷に男を引き込むのだけは控えてもらいたい』
閨を共にするつもりはない、腹が膨れてきた場合は申し訳ないが堕胎薬を飲んでもらう。
離婚届を突き付けながら、旦那様は変わらぬ態度で淡々と説明していく。
『一年だ』
原則、離婚は認められていない。しかし、何事にも例外は付き物だ。夫婦が結婚後、閨を共にしないーー白い結婚が一年以上続いた場合にのみ離婚が認められる。王命とはいえ、嫁いできたばかりの妻に白い結婚にすることへの協力を求めてきたのだ。
『一年間はこの屋敷で暮らしてくれて構わない。しかし、それが過ぎたら、侯爵家に帰ってほしい。離婚が成立するよう、教会に働きかけよう』
淡々と話し終えた後、旦那様は初めてわたくしの顔を見た。
『君もその方が都合がいいだろう?』
この方とは生涯分かり合えないと、理解した瞬間だった。あろうことか、旦那様は離婚届を二枚用意して、わたくしに二枚分サインを書かせたのだ。
『これはお互いが持っておこう。万が一、どちらかが紛失した場合に備えて』
『······畏まりましたわ』
そう言って、わたくしは離婚届を肌身離さず持ち歩いていたのだ。
「旦那様だって、こちらの予備をお持ちしていたでしょう?」
「······ああ、持っていた。だが、それは」
旦那様はわたくしを見返しながら、
「君の目の前で破り捨てた筈だ」
「はい、確かに」
わたくしは静かに頷いた。
「半年過ぎた辺りでしょうか。わたくしと新たに関係を築きたいと仰っておりました」
「そうだ。君にも離婚届を処分しておくよう伝えた筈だ」
「いやですわ、旦那様」
ふふと、笑い声が漏れた。微笑ましい子供を見つめるような眼差しで、旦那様を見た。
「わたくしがいつそんな言葉に了承したでしょうか?」
「な······」
「何事に置いても、事実確認は重要ですわ。それを怠ったせいで、」
ふうと、ため息が漏れた。
「わたくし、嫁いでからしばらくの間は屋敷内で酷く窮屈な思いをしていましたわ。特に、」
ちらりと、夫を見た。
「主人の意向を汲んだ使用人達の態度は目に余るものがありました」
「あれは、」
咄嗟に言い返そうとして、旦那様は一旦押し黙った。
「あれは使用人達が勝手に行ったことだ。私が命じたわけではない」
「はい、存じ上げております。謝罪を受けましたので」
「ならば、」
「ですが、あれは監督不行きでしたわ、旦那様」
背筋を伸ばし、まっすぐに夫を見た。
「旦那様は命じたわけではないと思われていますけれど。そもそも、旦那様がわたくしを『客人』としてではなく、『公爵夫人』として扱って頂けたら、使用人達もあのような振る舞いをしなかったでしょう」
公爵家に仕える使用人達は良くも悪くも公爵家に忠誠心を誓い、尽くしている者ばかりだった。そんな使用人達が主人の意に沿わない『女主人』が現れたら、どんな対応をするのか。しかも、その『女主人』が評判の良くない女だった場合。
結果は火を見るよりも明らかだった。使用人達がわたくしに何をしたのか、この場で言及しようとは思わないけれど。
「旦那様は『すまなかった』と仰っていましたけれど。それも噂が真実ではないと知った後でしたわよね?」
「それは、」
「旦那様」
わたくしは旦那様を見上げながら、あえて聞く。
「わたくしが噂通りの女だったとして。果たして旦那様はわたくしの為に動いてくれましたでしょうか?」
使用人達を注意したのか、否か。
「······ッ」
勿論だと。言おうとした唇が不自然に閉じた。
何も答えられないでいる夫を前にして、わたくしは目を細めた。
「正直な人」
「!」
「わたくしが噂通りの悪女でしたら、わたくしの為という言葉すら発することができない」
「それが旦那様の答えでしょう?」と念を押せば、旦那様は傷ついた子供のような顔をした。一年前に比べれば、随分と表情豊かになったものだと、どこか他人事のように思った。
「······何故だ」
「何故とは?」
「私と離縁をしたいのならば、屋敷に帰った後でも構わなかった筈だ。何故、王宮で騒ぎを起こすような真似までした?」
「まあ、それは簡単なことですわ」
わたくしは旦那様から視線を外して、別の方々に目を向けた。
「旦那様がわたくしの為にと、あの方々をこの場で断罪したからですわ」
旦那様を含めたこの場にいる招待客達は、彼女達の存在を思い出した。騎士達に取り押さえられ、身動きができない状態にいる一組の親子。
伯爵家当主と夫人、その娘だった。わたくしが旦那様に離縁を申し出る直前まで踠いていたのが嘘のように、静かだった。呆気に取られた様子で、こちらの動向を見ていた。この者達は旦那様が王室の許可を得て、断罪した者達である。
「この者達の罪状は確か、公爵夫人であるわたくしへの侮辱と、国家反逆罪、」
「ち、違います!!」
わたくしの言葉を遮り、悲鳴のように叫んだのは他でもない伯爵令嬢だった。
「た、確かにわたしは公爵夫人を軽んじる行いをしてしまいました、で、ですが、わたしの父と母は無関係です!! 無実です!!」
震える唇を動かしながら、必死に主張する。
「ですから、罰を受けるのでしたら、わたし一人に、」
「黙りなさい」
ぴしゃりと、伯爵令嬢に言った。わたくしは旦那様の側から離れて、ゆっくりと伯爵令嬢に歩み寄る。
「今、あなたの言葉など聞いてはいないわ」
「ッ」
家族の今後が懸かっているからだろう。身動き一つできない状態で、涙目になりながらも、伯爵令嬢はわたくしを見返してきた。その目を見ながら、わたくしは微笑んだ。
「助けてあげると言っているのよ」
「!」
信じられない。そう言わんばかりに、伯爵令嬢の目が大きく見開いた。
「だから、そこで大人しくしていなさい」
伯爵令嬢から視線を外して、旦那様の姿を映せば、伯爵令嬢と同じ視線を向けてきた。
「何を言っているんだ、君は」
「言葉そのままの意味ですわ、旦那様」
後ろにいる伯爵令嬢の視線を感じながら、わたくしは旦那様に言った。
「わたくしに対する不遜な言動は許しがたいものでしたが、この者達が国に仇なす存在だったとはとても思えませんわ」
「·······何を言っているんだ、君は」
先程と全く同じ言葉を繰り返しながら、旦那様はわたくしを見た。
「先程、私が証明しただろう。伯爵家は王家に仇なす反逆者達と接触していた。伯爵家当主の名を出した」
一部を捕え、尋問した結果。伯爵家当主の名が出たのだ。中心人物だとも証言していたらしい。
「ええ。ですが、わたくしは伯爵家が『首謀者』だとはどうしても思えないのです」
「何を根拠に? もしかして、君は、」
言い淀んだ後、旦那様はわたくしに尋ねた。
「この者達に同情しているのか?」
「······同情?」
ふっと、わたくしは嗤う。
「いいえ、わたくしがこの者達を庇うのは個人的な事情ですわ」
眉を寄せる旦那様に構うことなく、わたくしは話を続けた。
「話は戻りますけれど、わたくしが伯爵家を反王家派の首謀者だと思えないのには理由がありますわ」
「······それは何だ」
「割に合わないのです」
怪訝な顔をする旦那様に、わたくしは言った。
「反王家派の動きはわたくしとて聞き及んでいます。武器を買い占めているのだとか。ですが、失礼ながら、彼らの領地は潤沢とは言えないかと」
伯爵家は身分こそあれど、領地は広大とは言い難く。とても武器を買い占められるような資金があるとは考えられなかった。
「反王家派の中心人物がそんな状態ではとても物資と人を集められるとは思えません」
どんな集団においても、中心人物は中心になり得る要素を有していなければならない。身分や血統、爵位、武力や資金。旗印になるに足る人物がいてこそ、集団は成り立つのだ。
「なら、何故伯爵家当主の名が出たんだ?」
「······詳しいことは分かりませんが、彼等が首謀者の名をおいそれと口に出すような真似はしないかと」
「······伯爵家当主の名を適当に発しただけだと言いたいのか、君は」
「その場合は濡れ衣と言うのですよ、旦那様」
愛する妻の言動を否定するつもりはないようだが。目は口程に物を言うとはよく言ったものだ。
ーー馬鹿馬鹿しい。
旦那様の目は確かにそう言っていた。
「君は憶測で物を言っているに過ぎない」
「ええ、そうですね。ですが、旦那様とて同じことをしているではありませんか」
この男にだけは言われたくはない。
「······何だと?」
「先程、旦那様は伯爵家を断罪なさいました。首謀者の名として浮上したせいだと」
「ああ、そうだ」
「失礼ですが、旦那様」
わたくしは夫を見つめながら、言った。
「尋問をされた際、伯爵の名を出してはいませんでしたか?」
一瞬、旦那様の目に動揺が走った。
「どういう意味だ」
「以前、わたくしは伯爵令嬢と諍いを起こしてしまいました。旦那様はその際、伯爵令嬢に対して酷くお怒りになっていました」
噂を信じた伯爵令嬢の心ない言葉だった。それに対して、わたくしを庇い立てながら、伯爵令嬢を非難していた。その直後だった。
反王家派の一部が捕えられたのは。
「尋問の場に、旦那様が立ち合ったとか。その際、伯爵の名を出されたのではありませんか?」
妻を害する相手が反王家派であれば。自白を手に入れることができれば。
「大義名分を手に入れることができますもの」
反王家派が首謀者の名を出すよう言われた際、尋問の場で貴族の名を出されたのだ。それに便乗した可能性は決してないとは言い切れなかった。
「加えて、伯爵が証拠を出すよう言われた時、旦那様は『貴様が首謀者であれば、直に出てくるだろう』と仰っていました。それは伯爵が首謀者であると言う証拠が発見できていないと言う何よりの証ではありませんか」
「······ッ」
図星なのか。旦那様は唇を噛んだ。
「であれば、このような場で伯爵家を断罪されるのは不当な行いかと」
「旦那様とて、それは分かっておいででしょう?」と尋ねれば、旦那様は震える声で言った。
「······何故だ」
「何故とは」
「何故、君は伯爵家を庇い立てするんだ。······君の個人的な事情とは何だ」
「それは簡単なことですわ」
夫に歩み寄る。
衆人環視が見守る中で、わたくしは言った。
「あなたがわたくしを辱しめたからです」
「は?」
旦那様は意味が分からないと言いたげに、こちらを凝視していた。
「君を辱しめた覚えはない」
「ですけれど、この断罪の場はわたくしの為に行ったことなのでしょう」
「それの何が、」
「旦那様」
一年、この人の妻をしていて、分かったことがある。
「わたくしは『やめてほしい』と言いました」
両親の愛情を受けられなかったせいか。あるいは、氷の公爵と畏れられ、一歩引いた距離からしか相手と対峙していないせいか。この人の愛情は、どこか不恰好で独り善がりなところがあった。
「断罪の場を設けるのでしたら、内々で済ませてほしいとも言いました。なのに、旦那様は聞き入れては下さらなかった」
断罪の場は、公の場ではなくとも構わなかった。仮に王家主催の社交の場でなければ、わたくしは伯爵家を庇おうともせず、屋敷で離縁を望むつもりだった。
「旦那様、わたくしの噂をご存じでしょう」
「······ああ」
「でしたら、何故わたくしを気遣って下さらなかったのでしょうか?」
微笑みを湛えたまま、夫に一歩近付く。
「噂の中でわたくしは『悪役令嬢』という汚名を着せられていました。旦那様に嫁ぐまで、縁談相手に事欠くくらいには」
「······」
「勿論、ただの噂ですもの。時間が経てば、わたくしの噂も落ち着くものだと考えておりました。なのに、旦那様は何をなさいましたか?」
「ッ!」
旦那様は一歩、後ろに下がる。妻を前にして下がるなんて、酷い人だ。
「旦那様がわたくしの為になさったことは、わたくしの噂に更に薪を焚べたも同然の行為。たとえ、わたくしがこの場で動かなかったとしても、社交界で、またわたくしの噂は広がることでしょう」
断罪の場で霞んでいるだけで、氷の公爵が行った行為は、『悪役令嬢』と噂される公爵夫人の為。この断罪劇が下火になれば、関係者であるわたくしに目を向けられるのも時間の問題だった。
「ですから、わたくしは言ったのです。『やめてほしい』と」
「·······ッ」
息を呑む旦那様の前に立つ。決して遠くはないけれど、近いと言い難い距離感。
「わたくしを愛していると言いながら、旦那様はわたくしの尊厳を踏みにじった」
違うと言おうとした唇は結局、音もなく消える。
「ですから、わたくしはこの場で離縁したいと申し上げたのです」
「!」
「あなたがわたくしの尊厳を踏みにじるのならば、わたくしもあなたの尊厳を踏みにじるまでのこと」
「······君は、」
「ここまで事が大きくなったのですから、もはや一蓮托生ですわ、旦那様」
変わらぬ微笑みを浮かべながら、旦那様に聞く。
「旦那様、わたくしと共に地獄に墜ちてくださいますか?」
「·······あ」
旦那様の目が揺らぐ。その目に映った感情を、わたくしは何か知っている。旦那様が何か言おうと、口を開く。
「そこまでだ」
聞き慣れた声が、旦那様の声を遮った。
振り返れば、顔見知りがこちらに向かってくる。
王太子殿下とその妻、王太子妃だった。
「公爵。これは一体、どういうことだ」
「······王太子殿下」
「王家は首謀者の炙り出しを許可しただけだ。それ以外は許可した覚えはない」
「はっ·······」
旦那様は王太子夫妻に臣下の礼を取る。
「申し訳、」
「謝罪はいい。追って沙汰を出す」
王太子殿下は続いてわたくしを見た。
「公爵夫人」
「はい」
「君の処遇だが、」
「殿下、お待ちになってください」
王太子殿下の後ろに控えるようにして立っていた王太子妃が口を開く。
「公爵夫人が公爵に言った言葉が全てとは思えません。夫人のことは、私が」
「······だが」
「尋問されるおつもりですか? そんなことをされずとも、夫人は話してくださるかと」
王太子妃はわたくしに微笑む。
「何より、女同士の方が話しやすいこともあるのではないでしょうか」
「······夫人、妃がこのように言っているが」
「はい、王太子妃殿下のお望みのままに」
「決まりですね」
王太子妃はわたくしの手をそっと握る。
「今日から夫人を私の『客人』として招き入れます」
誰もが可憐と呼ぶであろう微笑みを浮かべる。つまり、『客人』として、王家が監視下に置くと言う意味である。妃の微笑みを見た後、王太子殿下は玉座に座る国王夫妻に許可を得る為、声をかける。
「国王陛下ならびに王妃陛下。この件は私にお任せください」
「······良かろう」
玉座に座る国王夫妻は悠然と、こちらを見下ろしている。王家が取り計らった縁談を台無しにした公爵夫妻の顛末を見届けてもなお、国王は表情一つ変えないまま、旦那様に王命を下す。
「公爵。そなたは王太子の命が下るまで、領地でのんびりと過ごすがよい」
事実上の謹慎処分である。
「······畏まりました」
謹慎処分を言い渡された旦那様は見たことがない程、青ざめた顔をしていた。