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第2話 水面下の違和感

翌日の講義は、生体組織工学に関するものだった。最新の3Dバイオプリンティング技術を用いて、いかにして欠損した臓器や組織を再生するか。スクリーンには複雑な細胞培養プロセスや、分子レベルでの相互作用を示す図が次々と映し出される。静香は、精密なレーザーポインターが示す微細な構造の一つ一つを目で追いながら、改めて人体の神秘性と、それを解き明かそうとする医学の執念に感嘆していた。生命とは、かくも精巧で、複雑なシステムの集合体なのだ。


講義の終盤、教授は再生医療における課題点として、拒絶反応の抑制や、機能的な血管網の構築の難しさを挙げた。どんなに高度な技術を駆使しても、生きた身体の中で完全に機能する組織を作り出すことは、依然として大きな挑戦であり続けている。静香はペンを走らせながら、ふと考えた。もし、本当に強力な「想像力」が物理法則に影響を与えるのなら、これらの課題を一足飛びに解決できるのではないだろうか? 細胞の一つ一つを、血管の一本一本を、完璧に「正常である」と強く想像し、それを現実化することはできないのだろうか?


「…馬鹿げてるか」静香は小さく首を振った。そんなことが可能なら、医学は全く異なる発展を遂げていたはずだ。高度な外科手術も、複雑な薬物療法も、その多くは不要になっていただろう。だが、現実は違う。人々は病気にかかり、怪我をし、そして多くの場合、科学的な医療によって治療されている。念力による火起こしや、単純な物体の移動といった現象は、才能ある者によって時折デモンストレーションされたり、稀に犯罪に利用されたりすることはあるが、それはあくまで限定的な力として認識されている。最も切実に必要とされるはずの「治療」という分野において、その力が体系的に応用されていないのはなぜなのか?


講義が終わり、学生たちが片付けを始める中、静香は隣の席の美緒に、抑えきれなくなった疑問をぶつけてみた。

「ねえ、美緒。ちょっと変なこと聞くかもしれないけど」

「ん? なあに、静香?」美緒は教科書をカバンにしまいながら、きょとんとした顔で静香を見た。

「どうして、念力って治療には使えないのかなって、不思議に思ったことない?」

「え? 念力で治療?」美緒は一瞬、何を言われたのか理解できないというように目を瞬かせた。「だって、そんなの無理に決まってるじゃない」

「どうして無理だって断言できるの? 火を出したり、物を動かしたりできるなら、傷を塞いだり、病気を治したりすることだって、原理的には可能なんじゃないかって…」

「うーん…」美緒は腕を組んで少し考え込んだ。「でも、火を出すのとは訳が違うでしょ? 火は『燃えろ』って強くイメージすればいいかもしれないけど、怪我を治すってなると…細胞がどう分裂して、血管がどう繋がって、免疫がどう働いて…そんな複雑なこと、全部正確にイメージし続けるなんて、できるわけないじゃない。それに、もしできたとしても、ちょっと想像がズレたら、とんでもないことになりそうだし」

美緒の言葉は、昨日、静香自身が内省した内容とほぼ同じだった。それが、この世界の一般的な認識なのだ。


「でも、紋章だってあるじゃない。私の紋章は『治癒』や『医療』の才能を示してる。それなのに、どうしてその才能が念力と結びついて、もっと直接的な治療法を生み出さないんだろう?」静香は食い下がった。

「それは…紋章は、あくまで才能の方向性を示すものであって、魔法みたいに何でもできるわけじゃないからじゃないかな? 私たちの才能は、複雑な医学知識を理解したり、精密な手術手技を習得したりするのを助けてくれるけど、物理法則をねじ曲げるような力とは別物なんだと思うよ」美緒は困ったように眉を寄せた。「静香、最近ちょっと考えすぎじゃない? 疲れてるのかもよ」


美緒の反応は、静香の疑問を解消するには至らなかった。むしろ、その「当たり前」とされる常識の壁の厚さを再認識させられただけだった。彼女は、もう少し踏み込んだ答えを求めて、講義を終えて研究室に戻ろうとしていた老教授に声をかけた。

「先生、少しよろしいでしょうか?」

「ん? 霧島君か。どうしたね?」教授は穏やかな表情で振り返った。

静香は意を決して、先ほど美緒にしたのと同じ質問を投げかけた。なぜ、念力は存在するにも関わらず、医療分野での応用、特に直接的な治療への利用が進んでいないのか、と。


教授は少し驚いたような顔をしたが、すぐに興味深そうな表情に変わった。

「ほう、面白い着眼点だ。君のような優秀な学生が、そういう根本的な問いを持つことは素晴らしい」教授は一度頷き、そして続けた。「だがね、霧島君。その問いに対する答えは、先ほどの佐々木君の言った通り、そして君自身も理解しているであろう通り、『複雑性』と『制御の困難さ』に尽きるのだよ」

教授は自身の指先を静香に向けた。

「例えば、指先の小さな切り傷一つを考えてみよう。単純に見えるかね? だが、その治癒プロセスには、血小板による凝固、マクロファージによる壊死組織の除去、線維芽細胞によるコラーゲン生成、表皮細胞の遊走と増殖、血管新生…数え上げればきりがないほどの複雑な生体反応が、精密な連携のもとに行われている。これを、人間の『想像力』だけで完璧に再現し、コントロールすることが可能だと思うかね?」

静香は黙って首を横に振るしかなかった。

「火を出すイメージは比較的単純だ。『熱』や『炎』という単一の現象を強く念じればいい。しかし、生命現象は違う。それは無数の要素が絡み合った、極めて動的で繊細なバランスの上に成り立っている。個人の想像力という、曖昧で不安定な力で介入しようとすれば、むしろそのバランスを崩し、予期せぬ、あるいは致命的な結果を招く危険性の方が遥かに高いのだよ。だからこそ、我々医学者は、地道な研究と検証に基づいた、科学的なアプローチによって治療を行うのだ。それが、現時点では最も安全かつ確実な方法なのだから」


教授の理路整然とした説明は、論理的には完全に静香を納得させるものだった。反論の余地はない。彼女は「よくわかりました。ありがとうございます」と頭を下げた。

「うむ。疑問を持つことは大切だ。その探求心が、君を良き医師にするだろう」教授はそう言って、穏やかに微笑み、研究室へと去っていった。


一人取り残された静香は、がらんとした廊下に立ち尽くしていた。頭では理解した。教授の言うことは正しい。念力による治療が確立されていないのには、明確な理由がある。しかし、心のどこかで、何かが腑に落ちない感覚が残っていた。まるで、パズルの最後のピースが、どうしても見つからないような、そんなもどかしさ。


なぜだろう? 論理では説明がついているはずなのに、この水面下に漂うような違和感は消えない。本当に、「想像力の限界」だけが理由なのだろうか? もしかしたら、まだ誰も気づいていない、別の要因があるのではないだろうか?


そんな考えが、また静香の頭をもたげる。彼女はゆっくりと歩き出し、大学の建物を後にした。空は高く澄み渡り、昨日と同じように、穏やかな日常が広がっている。だが、静香の目には、その日常の風景が、どこか薄いヴェールに覆われているかのように見え始めていた。そのヴェールの向こう側に、何か隠された真実があるような気がしてならなかった。左手の紋章が、今日はいっそう重く感じられた。


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