あの子がいなくなってしまうのは寂しいけれど。
* * * * *
妹のヴィヴィアンが奴隷を購入してから二日。
ルシアンは使用人達にヴィヴィアンと奴隷について、逐一報告を上げさせていた。
先日「距離を置こう」と妹に言われてから、ルシアンは逆に妹のことが気になってしまい、落ち着かない気分でここ数日を過ごしている。
その原因のヴィヴィアンは何かと奴隷の世話をしているらしい。
朝起きて身支度を整え、朝食を摂った後に奴隷にも食事を与え、手紙などの確認をしつつ奴隷を構ってやり、部屋で奴隷と共に昼食を摂ってから、午後は奴隷に本を読み聞かせたり、膝枕をしてやったりしているそうだ。
……奴隷相手にどうしてそこまで。
よほど容姿が気に入ったのだろうか。
だが、買い物に出掛ける前にヴィヴィアンは「お母様とお兄様が喜ぶもの」と言っていた。
その奴隷のことを指しているのであれば、一体どのような意味であの言葉を口に出したのか、謎が深まるばかりであった。
朝食の席でヴィヴィアンは言った。
「そろそろ奴隷が慣れてきたようなので、紹介をしようと思います。午後にお時間をいただけますか?」
それに全員が頷いた。
元より、誰もがヴィヴィアンの購入した奴隷のことや、ヴィヴィアンが何を考えているのかを知りたがっていたので、むしろ『やっとか』という気持ちのほうが強かった。
待たされたのはたった二日のはずなのに、妹と食事の席以外で顔を合わせなくなってから、まるで何十日も過ぎたかのようだった。
……今になって気付かされるなんてね。
ルシアンはヴィヴィアンのことを『形だけの家族』だと思っていた。
いつか、魔王様を見つけ出した時、この国を抜け出すことになった時、置いていく存在。
そう考えていたはずなのに、いつの間にか、ヴィヴィアンから「お兄様」と嬉しそうに呼ばれることに慣れてしまった。
だからこそ、ここ最近の妹の態度が気に入らなかった。
これまで適当にあしらってきたせいだと分かっている。
それでも、今まで何もせずとも与えられてきた妹の愛情を失ったと思うと面白くはないし、反省もした。
ヴィヴィアンへの無関心さにいつから気付かれていたのかは分からないが、妹なりに、今までルシアンの気を引こうとしていたのかもしれない。
そして、ルシアンからの愛情を諦めたのだとしたら、ヴィヴィアンの兄への関心が失われたという意味でもある。
自分勝手な考えだが、そのようなことはありえない、とずっと無意識に思っていた。
だが、実際にヴィヴィアンはルシアンへ付き纏うのをやめて、新しく購入した奴隷に構っている。
午後になり、ヴィヴィアンの奴隷に会うために居間へと移動しながら溜め息が漏れる。
……関係の修復は可能なのだろうか?
少し苛烈な性格のヴィヴィアンは、色々なものに執着するけれど、一度捨てたものには見向きもしないところがある。
……もう一度、きちんと謝ろう。
ルシアンはこれまで後悔したことも、心から謝罪したこともなかった。妹が許してくれるとも限らない。
もう一度、溜め息を吐きながら居間の扉を叩き、ルシアンは中へと入った。
室内には父と母が既にいた。
ルシアンが扉から数歩、離れたところでまた扉が叩かれる。
「あら、お待たせしてしまい申し訳ありません」
ヴィヴィアンがそう言い、開けたままの扉の向こうへ声をかける。
「さあ、こちらへいらっしゃい」
その声は驚くほど優しいものだった。
これほど穏やかなヴィヴィアンの声は初めてで、全員が驚き、そして、次の瞬間には別の意味で驚愕した。
扉の向こうから俯き加減で入ってきた奴隷。
まだ少し傷んでいるものの艶のある白銀の髪に黄金を溶かしたような輝く瞳、美しい褐色の肌、その整った顔立ちはルシアンも遠い昔に何度か見る機会はあったが、それよりもずっと幼い。
「……っ、魔王、様……?」
思わず漏れた声はルシアンのものか、それとも母イザベルのものか。もしくはその両方だったかもしれない。
記憶の中よりもずっと幼いが、間近で見て、直接会ってその力を感じることで本能が叫ぶ。
……この方こそ、長年探し続けた魔王様だ!!
気付けば、ルシアンとイザベルは膝をついていた。
「我が君、またお会い出来たこと、光栄に存じます」
イザベルの言葉に主君が戸惑う。
イザベルがルシアンを見てきたので、ルシアンは頷いてから「失礼いたします」と声をかけて立ち上がった。
主君が一歩下がったものの、その腕にヴィヴィアンが優しく触れた。
「大丈夫、お兄様はあなたを傷つけないわ」
……まさか、ヴィヴィアンは全て知っていた?
その確信に満ちた声に驚き、ルシアンは少し戸惑ったけれど、今は自身のやるべきことをしなければと主君に近寄る。
「我が君、お手をお貸しいただけますでしょうか?」
恐る恐る差し出された左手にルシアンは触れた。
直に感じる主君の力と気配に歓喜に震えた。
そして、ルシアンは懐から小さな宝石を取り出すと、それを主君の手に握らせた。
瞬間、目を開けていられないほどの眩い光が室内を満たす。
その光は数秒で収まり、ルシアンは主君を見た。
閉じられていた瞼が開き、その向こうにある黄金色の瞳に強い意志が宿っていることを感じ取った。
「──……ああ、久しいな。イザベル、ルシアンよ」
ルシアンはこの瞬間をずっと求めていた。
* * * * *
その声を聞いて、わたくしは喜びと寂しさを覚えた。
……もう可愛いあの子ではなく、魔王様なのね。
そっとその腕から手を離す。
お父様が一人、置いてけぼりになっていた。
けれども、立ち上がったお母様がお父様に手を翳すと、お父様の表情がぼうっとしたものになり、そしてソファーに崩れるように倒れ込んだ。
一瞬ギョッとしたが、眠っているだけのようだ。
「あれからどれほどの時が経った?」
魔王様の言葉にお兄様が答える。
「三百二十四年、経過いたしました」
「そうか。長き間、二人とも大義であった」
「っ、勿体なきお言葉でございます」
普段は何があっても微笑みを絶やさないお兄様とお母様の感極まった表情と、二人に歩み寄る魔王様の背中を、わたくしはぼんやり眺めた。
ふとお兄様と目が合った。
「ヴィヴィアン、君は知っていたのかい?」
その問いにわたくしは苦笑した。
「それは何についての質問かしら。わたくしが魔人であること? お母様とお兄様が魔族であること? それとも、この方が生まれ変わった魔王様で、魔族がずっと探し続けてきた存在だということ?」
「……全て分かった上で購入したのか……」
魔王様と分かっていて奴隷として買ったことを、お母様もお兄様も怒るだろうかと思ったが、予想に反して二人は酷く困惑した様子だった。
もしかしたら、わたくしには自分が魔人であることを一生告げずに済ませるつもりだったのかもしれない。
「申し上げた通り、お母様もお兄様も喜ぶことになったでしょう?」
そして、彼が振り返る。
黄金色の瞳に縋るような弱さはもうなかった。
目の前に推しがいて、生きて、動いている。
寂しさと感動とで体が震えた。
彼が近づいて来ると、わたくしの頬に触れた。
「ヴィヴィアンよ」
返事をしようにも声が出なかった。
「そなたは何故、我を買った?」
「……説明したいけれど、きっと理解してもらえないわ」
そもそも、なんと伝えればいいのかも分からない。
ここはゲームの世界で、あなた達はキャラクターで、魔王様は死ぬのだと。そんなこと、言葉にしたくもない。
ゲームによく似ていたとしても、本当にゲームの世界だったとしても、わたくし達はこうして生きて、自分で考えて動いている。画面の向こうの物語ではないのだ。
俯きそうになった顔が彼の手で上げられる。
「では、そなた自身の記憶に問おう」
彼の黄金色の瞳が虹色に煌めいた。
視線を合わせられ、その瞬間、頭の中にこれまでの記憶が濁流の如く流れていく。
ヴィヴィアン・ランドローとして生きてきた十四年。
それよりも前、この世界とは別の世界にいたわたしの人生。
最後に遊んでいた『クローデット』の物語。
記憶を取り戻したわたくしのこれまで。
まるで追体験をするように記憶が一瞬で流れ、そして『今』に着地する。
あまりに情報量が多くてふらついたわたくしの体が彼に抱き抱えられるけれど、力が入らない。
「ふむ、少々負担が大きかったか」
彼の声がして、体がふわりと持ち上げられる。
そうして、一人掛けのソファーに下ろされた。
……あら、もしかしなくてもわたくし、今、推しに抱き上げられたのかしら……?
混乱する頭で気付けたのはそれだけだった。
「そなたの記憶を読み取らせてもらったが、なるほど、興味深い」
彼が口角を引き上げて小さく笑う。
「我を生かすために奴隷にするとは面白いことを考えたな」
……ああ、本当にわたくしの記憶を見たのね。
伸びてきた彼の手が、わたくしの頭に触れ、そっと髪を一房取るとそこへ口付けた。
「いいだろう、そなたを我が主人と認めよう」
沈みゆく意識の中で、それだけは聞き取ることが出来た。
* * * * *
記憶を無理やり読み取ったせいか、ヴィヴィアンは眠りに落ちた。
寝息を立てている主人を魔王はしばし眺めた。
そっと、近づいて来たルシアンに声をかけられる。
「魔王様……?」
「なんでもない」
視線を向ければ、ルシアンが嬉しそうに目を細めた。
聖人に力を封じられたが、完全に封じ切られる前に転生したものの、半分以上の力はいまだ出せない状況である。
それでも使える力でヴィヴィアンの記憶を見て、一番に思ったのは『愛されている』という感情だった。
どうやらヴィヴィアンには、この世界とは異なる別の世で生まれ育った記憶があるらしく、そこで、不思議な道具によりこの世界のことを知ったようだ。
そうは言ってもこの世界に起こる全てを知っているのではなく、ある人物に関係する一時期だけしか分からなかったが、その中で魔王は死んでしまう。
それをヴィヴィアンは阻止したがっていた。
「ヴィヴィアンは我同様、転生前の記憶が少しばかりあるらしい。その記憶の中では我はとある少女と出会い、そしてその少女と仲間達に倒されてしまうようだ。我を奴隷として購入したのは、いざという時、人間と戦わないよう主人として命令することで我をその人間達と敵対関係にならないようにしたかったらしい」
「それは、つまり……」
「うむ、ヴィヴィアンは魔王を生かしたがっている。我ら魔族の敵ではない。我の味方であるな」
自身が憎まれようとも、助けたい。守りたい。愛したい。
そんな感情が記憶と共に流れ込んできた。
魔族から尊敬され、畏怖され、崇拝されることはあっても、そのような感情を向けられるのは初めてだった。
……だが、それがどこか心地好い。
記憶を取り戻す前の記憶も魔王の中にはあった。
ヴィヴィアンは優しく、穏やかで、記憶のない魔王を甘やかし、彼女なりに愛を与えてくれた。
たった三日間だが、ヴィヴィアンと過ごした間を思い出すと心が穏やかになる。
「決めたぞ、イザベル、ルシアン」
人間への憎しみや怒り、不快感などは今も消えはしない。
だが、ヴィヴィアンをもう少し見ていたい。
もしヴィヴィアンの夢が真実であるならば、今すぐ動き、その少女達と敵対関係になるのは危険すぎる。
何せ、その少女は聖女に選ばれるのだ。
魔王である自身とは相性が悪い。
転生前に戦った聖人を思い出してしまい、不快感が増す。
……聖女と心通わせるなど、ありえない。
あれらは魔族を討ち滅ぼす者達だ。
共に手を取り合って生きる未来などない。
「我はヴィヴィアンの奴隷として過ごす」
イザベルとルシアンが驚愕の表情を浮かべる。
「ご、ご冗談を……」
「冗談ではない。ヴィヴィアンの記憶では、二年後、聖印が現れ、この国で聖女が選ばれる。今、人間と戦争を行えば前回と同じ結果になるやもしれぬ」
「機を待つ、ということでしょうか?」
イザベルの問いに魔王は頷いた。
「そうだ。もし聖女が現れなければ、その間に人族との戦争に向けて力を蓄えれば良い。そして聖女が選ばれた場合は消す必要があるやもしれん」
「かしこまりました」
「その際はお前達にも動いてもらうぞ」
「御意」
イザベルとルシアンが膝をつく。
五百年以上ぶりのその光景に魔王は口角を引き上げた。
「まずは他の者達と連絡を密にせよ。それから封印を解くために、聖力の込められた宝石も出来る限り手に入れろ」
二人が「はっ、魔王様のお望みのままに」と答える。
昔からイザベルは魔王への崇拝が強く、そのイザベルの一部を核に生み出されたルシアンもまた、同様に魔王を崇拝している。
この二人の下に来られたのは幸運であった。
それもこれも、ヴィヴィアンのおかげである。
魔王は主人に近づき、そっとその手に触れる。
「今しばらく、我が命はそなたに預けよう」
半人半魔の公爵令嬢と魔王。
面白い組み合わせがあったものだと、魔王は微笑んだ。
* * * * *