今だけのこの子も可愛いですわ。
食事を終えたからか、彼がうとうととし始める。
なんとか起きようと頑張っている姿が可愛らしい。
そっと彼の背中に触れてこちらへ促した。
「眠いなら寝てもいいのよ」
そのまま頭をわたくしの膝の上に誘導する。
わたくしより背が高いので、三人掛けのソファーに横になると足を投げ出す形になるけれど、彼は横向きになると手足を縮めるようにしてわたくしの膝の上に頭を置いた。
頭を撫でると傷んでいるのか白銀の髪はふわふわだった。
優しく頭を撫でてから、もう片手で優しく肩を叩く。
一定のリズムでゆっくりと肩を叩いているうちに、膝の上にある頭の重みが増した。
彼の横向きの寝顔に笑みが浮かぶ。
しっかり寝付いた後はもう叩くのをやめて、わたくしは読書をして過ごすことにした。
「この子が怯えてしまうから、お父様やお母様、お兄様が来ても部屋には通さないでちょうだい。用があるならわたくしから出向くわ」
小声で侍女に言って、本に集中する。
それから夕食の時間まで、彼はぐっすり眠っていた。
わたくしが食堂に行く時は不安そうな顔をしていたけれど「良い子で待っていてね」と頭を撫でると頷いた。
……全然喋らないのが気になるわね。
元々無口なのか、それとも虐待のせいで声が出なくなってしまったのか。
部屋を出てから侍女に声をかける。
「ミリー、明日お医者様を呼んでちょうだい。あの通り、健康状態が良くなさそうだから見てもらいたいわ。それからお腹を空かせているようだったら、食事を与えてあげて」
「かしこまりました」
それからわたくしも夕食を摂るために食堂へ向かう。
彼を構っていたから少し遅くなってしまい、食堂に着くと、もうお父様とお母様、お兄様も席に座っていた。
「お待たせしてごめんなさい」
席に着けば、斜め向かいのお兄様から視線を感じる。
テーブルの一番奥がお父様、お父様の向かって左にお母様とわたくし、右にお兄様が座っているので、お兄様とは正面から顔を合わせることになる。
昼間の件もあって少し気まずい。
わたくしが席に着くとお父様が頷き、食事が始まった。
「ヴィヴィアン、今日は買い物をしたと聞いた」
いつもはわたくしが何を買っても口を出さなかったお父様が、そう言った。
お父様もお母様もお兄様も、わたくしが奴隷を買ったことをもう知っているはずだが、あえてわたくしの口から聞きたいらしい。
「ええ、奴隷を買いましたわ。どうしても欲しい子がいたので、お願いをして譲っていただきましたの」
「何故、奴隷なんて……。見目の良い者をそばに置きたいなら、もっと身元の確かな者にしなさい」
「お父様、違います」
お父様が驚いた様子でわたくしを見た。
思えば、わがままを言うことはあっても、お父様に口答えをしたことは一度もなかったように思う。
「他の子ではなく、どうしても欲しい子がいたのです」
お父様とお兄様が目を丸くしている。
お母様も驚いてはいるけれど、どこか微笑ましげで、多分いつものわたくしのわがままが始まったと思っているのだろう。
「明日、きちんとお医者様に診てもらいます。でもわたくし、今日買ってきた子を従者にすると決めましたの。その代わり十五歳の誕生日の贈り物はなくてもいいですわ」
「まあ、そんなに気に入ったのね。ねえ、あなた、ヴィヴィアンがここまで言うのだもの。良いではありませんか」
お母様はわりとわたくしに甘い。
お兄様にも優しいが、わたくしには特に甘くて、お父様もなんだかんだ言ってわたくしには甘いのだ。
お父様が小さく溜め息を吐く。
「分かった、十五歳の誕生日の贈り物の代わりに、その奴隷を使用人として雇い入れよう」
「ありがとうございます、お父様。でも今は弱っていますので、もう少し健康になるまではわたくしの遊び相手にして、元気になってから従者として扱いますわ」
「お前の好きにしなさい」
一見、冷たく聞こえる言葉だが、これはお父様なりの甘やかしである。言葉通り、今日買った奴隷についてはわたくしの好きにして良いということだ。
お母様が「良かったわね」と微笑む。
斜め前のお兄様も微笑んでいて、昼間のことなどなかったかのような様子だった。
「あとでその奴隷の子を見に行ってもいいかな?」
とお兄様に訊かれたので首を横に振る。
「ごめんなさい、お兄様。人見知りをする子なので、せめて二、三日経ってここに慣れてから、改めて紹介いたしますわ」
「分かった。紹介してくれるのを楽しみにしているよ」
その後は普段通り夕食を摂り、先に部屋へ戻る。
すると、何故か困り顔の侍女がいた。
彼はまた床の、それも部屋の隅に座り込んでいて、テーブルの上には冷めてしまっただろうスープが置かれていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ええ、それで、これはどうしたの?」
「お嬢様のお申し付け通り食事を出したのですが、全く手をつけようとせず、この通り、部屋の隅に逃げてしまって……」
……本当に人見知りだったのね……。
原作のゲームも記憶を取り戻すまでこうだったのだろうか。
その辺りはクローデットが優しくすることで心を開きつつあった、という説明とクローデットが彼に手を差し出すスチルがあるだけだったので分からない。
だが、わたしを見つけると立ち上がって近づいて来る。
「この食事が気に入らなかったの?」
ビクリと彼の肩が震えたので、そっと彼の手を取る。
「怒ってないわ。ただ、あなたが心配なの。こんなに痩せて、ボロボロで、もっと沢山食べて、よく眠って、元気になってほしいのよ。元気になったらあなたをわたくしの侍従にするわ」
伏せられていた黄金色の瞳がわたくしを見る。
それに微笑み返した。
「でも、そうね、今日だけは特別に食べさせてあげる」
おいで、と手を引けば彼は素直に椅子に腰掛けた。
わたくしも横の席に座り、冷めてしまったスープをスプーンで掬う。
一口食べて確かめてみれば、小さく切った野菜が崩れるほどよく煮込んだスープに細かく挽いた麦を入れ、更に煮たもののようだ。肉と野菜の優しい旨味がある。
「大丈夫、とても美味しいわ」
スプーンを替えて、掬い直して彼の口元へ差し出した。
匂いを嗅ぐ暇もないほどの速さでぱくりと彼が食いつく。
……お腹は空いていたのね。
最初にわたくしに食べさせてもらったから待っていたのかと思うと、可愛く感じる。
しかし、やはり半分も食べ切らないうちに口を閉じてしまった。
代わりにグラスを持たせればしっかりと水を飲む。
「良い子ね」
手を伸ばして頭を撫でようとしたら、彼の体が硬直する。
「あら、ごめんなさい。いきなり触れようとしたから驚かせてしまったかしら? 頭を撫でられるのは嫌い?」
彼が首を曲げ、頭を差し出してくる。
撫でられることは嫌ではないらしい。
「心配しなくても、わたくしは絶対にあなたに暴力を振るわないわ。何があってもあなたの味方よ。もし誰かがあなたをいじめたら教えてね。代わりにわたくしが懲らしめてあげる」
よしよしと頭を撫でて、手を離せば、彼が見つめてくる。
「さあ、今日はもう寝る時間よ」
……さすがに同じ部屋で夜を過ごさせるわけにはいかないから、男性使用人の部屋を一つ与えたほうが──……。
そう考えていると、彼が床に両膝をつき、わたくしの足に顔を近づけた。
……って、何をする気ですの!?
「お待ちなさい!!」
思わず大きな声が出てしまい、彼が硬直する。
それに慌てて声量を落とし、彼の顔から足を引き離す。
「大声を出してごめんなさい。怒ってないわ。驚いてしまったの。……あなたはもうそんなことをしなくていいのよ」
……そうだ、彼は奴隷として夜の奉仕とかもさせられていたんだった……!!
彼の手を取り、立ち上がらせ、戸惑う彼の目を見つめ返す。
「あなたにはわたくしの従者になってもらうけれど、それより、まずはあなたが健康になるのが先よ。前の主人にしてきたことは、もうやらなくていいの。あなたの今の仕事は『食事をきちんと食べること』『よく眠って体を休めること』『怪我が治るまで無理はしないこと』よ」
わたくしの言葉に頼りなげに佇む彼に胸が痛くなる。
記憶を取り戻す前でこれなら、記憶を取り戻した時に魔王様が人間を憎み、嫌い、敵対したのも頷ける。
彼の手がおずおずとわたくしの手を握った。
……わたくしから離れたくないようね。
「ミリー、控えの間に毛布とクッションを用意して。同じ部屋で眠らせるのは問題だけれど、今わたくしから離れて不安定になっても可哀想だわ」
そうして使用人が待機する控えの間の隅に毛布とクッションを用意してもらい、わたくしは彼の手を引いて控えの間へ移動する。
三人掛けのソファーの上に毛布とクッションが置かれており、そこに彼を寝かせた。
仰向けになったが足がソファーから飛び出している。
……夏だから風邪は引かないとおもうけど……。
毛布をかけて、頭を撫でてあげる。
「今日はもう眠る時間よ。また明日、起きたら美味しい食事を食べて、昼間は……そうね、一緒に窓辺で日向ぼっこをしましょう。大丈夫、わたくしはあなたを誰かに売ったり、捨てたりしないわ」
眠気を感じたのか彼の目が細められる。
彼が寝入るまで横に置かれた椅子に座り、静かに頭を撫でていれば、疲れていたのかあっという間に眠りに落ちた。
バーンズ伯爵夫人の下に売られて二年と聞いていたものの、恐らくそれよりもっと前から奴隷として生きてきたのだろう。
その間に様々な人間に買われ、酷い扱いをされていたのだとしたら、心身共に限界を迎えても不思議ではない。
むしろ魔王の生まれ変わりのせいで体が頑丈だったり、精神的に簡単には壊れられなかったりしたのだとすれば、それは彼にとっては苦痛だったのではないか。
最初に出会った時のように、心を閉ざして何も感じず、命令に従うだけの人形になっていたほうが良かったのだとしたら……。
「……人間を憎悪するのも当然だわ」
最後にもう一度、そっと頭を撫でてから席を立つ。
控えの間を出て、侍女に声をかける。
「あの子がよく眠っているようなら、起きるまでそのままにしておいてあげて」
……わたくしも少し疲れたわ。
入浴し、夜着に着替えたら侍女達を下がらせる。
夜は眠る前に少しだけ読書をして過ごすのが日課だ。
本棚の前に立ち、どの本を読もうか考え、ふと気付く。
……あの子、文字は読めるのかしら?
そもそも、わたくしより歳上の男の子を『あの子』と呼ぶのも変なのだろうが、十七、八歳にしては雰囲気が幼い。
読み書きも礼儀作法も出来ないかもしれない。
……そうだとしたら教師を雇う必要があるかしら?
奴隷に教師なんてと言われようとも、わたくしが庇護すると決めた以上は中途半端なことはしたくないし、読み書きや礼儀作法を覚えることは彼のためにもなる。
しかし、お兄様達と引き合わせれば魔王の記憶を取り戻す。
……その辺りは記憶を取り戻してから決めたほうが良さそうね。
「でも、今は記憶がないのよね……」
わたくしが一番好きなのは記憶を取り戻した魔王様だ。
けれども、今の彼が嫌いというわけでもない。
頼りない黄金色の瞳に縋りつくように見つめられると、可愛くて、頭を撫でてあげたくなる。
……これではまるでペット扱いね。
記憶を取り戻した時、魔王様は怒るだろうか。
「クローデットはどうしていたのかしら?」
はあ、と溜め息が漏れる。
なんだか本を読む気分ではなくなってしまった。
燭台の明かりを吹き消し、ベッドに入る。
本当は『ディミアン』と呼びかけてあげるべきなのだろうが、彼の口から名前を聞いて呼びたい。
……それもわたくしのわがままなのよね。
名前を呼んだほうが距離は縮まると分かっている。
名前を呼ぶことは相手の存在を認め、肯定することなのだと、どこかで聞いた気がする。
「……いつか、わたくしの名前を呼んでくれるのかしら?」
ヴィヴィアン、と呼んでもらえたら、きっと天にも昇る心地だろう。
ゲームでは彼が名前を呼ぶのは魔族とクローデットしかいなかったから、記憶を取り戻したら、魔人のわたくしの名前は二度と呼んでもらえなさそうだ。
……いいえ、呼んでもらえなかったとしても構わないわ。
推しを助け、少しの間でもこうして接せられたのだから、それだけで十分だ。
二日後にお父様達に彼を紹介しよう。
お母様とお兄様はすぐに気付くだろう。
そして魔王の記憶を彼は取り戻すだろう。
奴隷の首輪を外せと言われると思うが、たとえお母様やお兄様に恨まれても、外させない。
……魔王様に殺されるかも。
奴隷の首輪があると言っても、魔王様ならきっと何の力もないわたくしなんて簡単に殺せるはずだ。
「もちろん、死ぬつもりはないけれど」
推しの死をまだきちんと回避出来ていないのに、死ぬなんて絶対に嫌だ。
「……少し気が重いわね」
とにかくこの二日間、わたくしなりに彼を大事にしよう。