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推しはわたくしがいただきますわ。






 玄関に停まっていた馬車に乗り込む前に、御者に目的地の住所を告げ、そうしてバーンズ伯爵家に向かった。


 ガラガラと走る馬車の中から車窓を眺める。


 ……お兄様、なんだか傷ついた顔をしていた気がするわ。


 でも、それがお兄様の本心なのかどうかもわたくしには分からない。


 本当に傷ついたのか、優しい兄が妹に突き放されて悲しんでいるふりなのか、判断がつかない。


 それでも、こうして胸が痛むのはわたくしがお兄様を家族として愛しているからなのだろう。


 ……ああ、もう、これについて考えるのはやめましょう!


 これからわたくしの推しに会いに行くのに暗い顔でいるなんて良くない。


 ぱちんと両頬を叩くと侍女が驚いた顔をする。




「お、お嬢様? どうされたのですか?」


「なんでもないわ。気合いを入れただけ」


「気合い……?」




 ……そう、わたくしは今日、推しを手に入れるのよ!


 そして馬車が目的地に着く。


 バーンズ伯爵家は公爵家よりも小さな屋敷で、到着すると執事に出迎えられた。


 老齢の執事に案内されて応接室へ向かう。


 小さいと言っても貴族の屋敷だからなのか華やかで、絵画などの美術品があちこちに置かれている。


 それらを横目に応接室に着き、扉が開けられる。




「ランドロー公爵令嬢、よくお越しくださいました」




 立ち上がった女性がバーンズ伯爵夫人なのだろう。


 彼女とは初めて会うが、穏やかで優しそうな女性だった。


 ……でも、奴隷の魔王様に酷いことをしているのよね。


 人の第一印象など当てにならないものだと思う。




「本日は急なご連絡にも関わらず、快く受け入れていただき感謝いたします。バーンズ伯爵夫人」


「いいえ、ランドロー公爵家の可愛らしいお嬢様をお迎え出来て光栄ですわ」




 ソファーを勧められて腰を下ろす。




「改めまして、ランドロー公爵家の長女、ヴィヴィアン・ランドローと申します」


「バーンズ伯爵当主オリバーの妻、ミラベルでございます。以前、何度かランドロー公爵夫人のお茶会にお招きいただきましたが、どれも素晴らしくて楽しい時間を過ごさせていただきましたわ」


「ありがとうございます。夫人にそう言っていただけて、きっと母も喜ぶことでしょう」




 出してもらった紅茶に口をつける。


 恐らく、公爵令嬢のわたくしをもてなすために慌てて買った茶葉なのだろう。味がとても良いが、伯爵家で常飲するには高い味であった。


 夫人と目が合ったのでにっこりと微笑む。


 それに夫人がホッとしたのが伝わってきた。


 家格が上の者をもてなすには、相手の家格にあったものを用意しなければ失礼に当たる。


 だから本来、あまり家格の離れている家に上の家格の者が行くというのは少ない。そもそも、家格が上の者のところに下の者が行くのが普通である。




「それで、本日はどのようなご用件で我が家に?」




 向こうから訊いてくれて助かった。




「実はわたくし、欲しいものがございまして、それがこちらにあると訊いてまいりました」


「まあ、そうなのですか? 我が家にあるものなど、どれも公爵家のものより劣ると思うのですけれど……」




 困ったような表情で頬に手を当てる夫人へ言う。




「夫人の持つ奴隷をいただきたいのですわ」




 夫人が硬直する。


 この世界でも、この国でも、奴隷は違法ではない。


 重労働のために奴隷を買って働かせることは普通だし、貴族が見目の良い奴隷を買って装飾品のように連れ歩くことも珍しくはない。


 しかし、基本的に奴隷は奴隷商から買うものだ。


 稀に貴族同士で奴隷を贈り物にすることもあるらしいが、自ら欲しいと言うのは少々はしたないと思われる。




「わたくし、変わった奴隷が欲しいと思っておりましたの。聞くところによるとバーンズ伯爵夫人の下には珍しい白銀の髪に褐色の肌、手足に不思議な紋様のある奴隷がいらっしゃるとか」


「え、ええ、確かにそのような奴隷はおりますが……」


「まあ、まだいるのですね? 良かったですわ。どうしてもその奴隷が欲しいのです。どうか譲っていただけませんか?」




 夫人が微妙な顔をする。


 わたくしは侍女に手を振り、持って来ていた箱をテーブルへ置き、侍女が箱の蓋を開けた。




「譲っていただけるのでしたら、相応のお礼はいたしますわ」




 箱の中には金貨百五十枚が入っている。


 わたくしの全財産とまではいかないが、お小遣いの大半を持って来た。


 大量の金貨を目にした夫人が驚き、その表情を隠すためかサッと扇子で顔を隠す。


 しかし金貨から視線は外さない。


 応接室まで案内される間に伯爵家の中を見たが、バーンズ伯爵家は少々見栄っ張りのようだ。


 屋敷の大きさは伯爵家にとっては普通くらいだけれど、内装も華やかだし、美術品の数も多いし、目の前の夫人も身に着けている装飾品はわりと華やかだ。


 家格が上の公爵令嬢を出迎えるために華やかな装いをしているにしても、屋敷の美術品や内装まで数時間で替えるのは不可能だろう。


 つまり、体面をとても気にしている。


 見栄のためにお金を使う以上、どこかで削る必要も出てくる。たとえば普段の食事を質素にするとか、若い新人の使用人を雇って給金を安く済ませるとか。


 華やかに見えても、これはハリボテなのかもしれない。


 ……多分ストレスが溜まっているのでしょうね。


 奴隷なら暴力を振るっても反抗されることはない。




「金貨が百五十枚ございます。これだけあれば新たな奴隷を購入することも出来るでしょう」




 侍女が蓋を閉じたことで、夫人がハッと顔を上げる。




「もちろん、夫人が奴隷を手放したくないというのであれば仕方ありませんが……」


「いえ、そろそろ別の奴隷を買おうと思っておりましたので、お嬢様がお望みでしたら喜んでお譲りいたしますわ」




 ……まあ、そうでしょうね。


 高くても奴隷なんて金貨五十枚もあれば十分買える。


 その三倍もあれば新しい奴隷を買ってもお釣りが来る。




「まあ、ありがとうございます! 急な訪問を受け入れてくださった心優しい夫人でしたら、きっと譲っていただけると信じておりましたわ」




 伯爵夫人がすぐに立ち上がった。




「では奴隷と購入証をお持ちいたしますので、少々お待ちいただけますでしょうか?」


「ええ、もちろん」




 夫人が部屋を出て行き、わたくしは紅茶を飲む。


 そっと侍女が近づいて来た。




「さすがに金貨百五十枚は多すぎるのでは?」


「そう? わたくしにしてみれば安い買い物だわ」




 何せずっと画面越しでしか見ることの出来なかった推しを、本当にこの目で見ることが出来るのだ。全財産を払ってもいいくらいである。


 それに多めに払っておくことで、もし夫人が「やはり返してほしい」と言い出した時に「では金貨百五十枚を一括で返してください」と言えばいい。そう簡単には出せない額だ。


 言葉通り、夫人はすぐに戻って来た。




「お望みの奴隷はこちらで間違いございませんか?」




 使用人が連れて来た奴隷が床に膝をつく。


 艶のない白銀の髪はボサボサで、褐色の肌はくすんでいて、俯いた黄金色の瞳はどこか焦点が合っていない。


 丈の合っていない古びた服から覗く手足には紋様があるが、それよりも痩せ細っていて、普段から満足に食事も与えられていないのが一目で分かった。


 掌を握り、わたくしは努めて笑みを浮かべた。




「ええ、この奴隷ですわ」




 夫人が差し出した書類には奴隷について書かれていた。


 だが、ほとんど出生が分からないらしく、どこでいつ生まれたのかも、どの魔族と人間とのハーフなのかも判明しておらず、ただ『魔人・推定年齢十八・男』としか書かれていなかった。


 ……十八歳でこんなに細いなんて……。


 身長はそれなりにあるけれど、あまりに痩せすぎている。




「売買契約書を作っていただけますか? わたくしが夫人から金貨百五十枚で奴隷を買い上げた証明が必要ですもの」




 夫人は頷き、すぐに執事を呼んで書類を作らせた。




「こちらでいかがでしょうか?」


「……ええ、問題ありませんわ」




 渡された売買契約書を読み、不備がないことを確認してから、侍女が金貨の入った箱を執事に渡した。


 それから彼のそばに寄り、夫人が奴隷用の首輪に触れた。




「お嬢様もこちらの首輪に触れてください」




 触れると一瞬チクリとして、僅かな血が首輪に入り、首輪が赤く光る。




「これで、この奴隷の正式な主人はお嬢様になりました」




 この間も奴隷の彼はずっと膝をついたまま床でぼんやりしていた。


 わたくしは奴隷の彼の目の前に移動した。


 それでもピクリともしない姿が痛ましい。


 この二年、彼は暴力や虐待に耐え続けてきたのだろう。


 そう思うと今すぐに抱き締めたくなったが、バーンズ伯爵夫人の前でそれは出来ない。


 彼の目の前に手を差し出し、その手を握る。




「わたくしの名前はヴィヴィアン・ランドロー」




 引っ張ると素直に立ち上がったが、あまりにも軽い。


 ……ああ、それでも、やっと会えたわ。




「あなたは今日からわたくしのものよ」




 触れた頬の温かさに胸が震える。


 すぐに手を離し、夫人に向き直る。




「バーンズ伯爵夫人、良い買い物をさせていただきましたわ」


「いいえ、私のほうこそお役に立てて光栄ですわ」


「この子を持って帰らなければいけませんので、失礼いたします。今度はお茶会の席で会えるよう願っておりますわ」




 恐らく、そのようなことはないだろうが。


 魔族のお母様が『バーンズ伯爵夫人に魔王様が虐げられていた』と聞いて黙っているはずがない。


 お茶会どころか最悪、社交界からも爪弾きにされるかもしれないが、それはわたくしにはどうすることも出来ないし、するつもりもない。


 そのまま彼の手を引いて伯爵家を出て、馬車に乗る。


 ……一応、臭くはないわね。


 でも身綺麗とも言えない。


 ……帰ったらお風呂に入れて、胃に優しい食事を食べさせて、よく眠らせてあげなくちゃ。


 今日から推しとの楽しい生活の始まりである。


 公爵邸に着き、わたくしは彼を連れて部屋に戻った。




「ミリー、お湯を沸かして。この子をお風呂に入れてあげるの。あ、怪我をしているみたいだから薬湯にしてね。それから胃に優しい食べ物も用意してちょうだい」




 物言いたげにしながらも侍女やメイド達が慌ただしく動く中、わたくしがソファーに座ると、彼は足元の床に座った。




「あら、そんなところに座ってはダメよ」




 わたくしの言葉に彼が立ち上がる。


 わたくしは彼を見上げ、横を叩いた。




「ここにいらっしゃい」




 焦点の合わなかった黄金色の瞳が揺れる。


 彼の戸惑いが伝わってきて、わたくしは微笑んだ。




「主人であるわたくしがいいと言うのだから、いいのよ」




 しばしの後、彼はわたくしの横に少し距離を置いて座った。


 初めてソファーに座ったのか少し驚いている。


 ……公爵家のソファーはどれも座り心地が抜群にいいのよね。




「わたくしには紅茶を、この子にはお水をあげて。いきなり紅茶を飲ませたら胃に良くないから」




 メイドがすぐに紅茶と水を持って来る。


 グラスを受け取り、彼の手に持たせる。




「さあ、これを飲んで」




 でも、なかなか飲もうとしない。


 ……もしかして……。


 彼の手からグラスを取り、一口飲んで見せる。




「大丈夫、ただのお水よ」




 彼の手にグラスを返せば今度は飲んでくれた。


 ……一体、バーンズ伯爵夫人は彼に何をしたのかしら。


 水を飲むだけでも警戒して、勇気がいるなんて、きっとわたくしには想像もつかないような酷い目に遭ったのだろう。


 彼は喉が渇いていたようで続けざまに二杯飲んだ。


 そうしているうちに入浴の準備が出来て、侍女に声をかけられたので立ち上がった。




「さあ、こっちで綺麗にしましょうね」




 持っていたグラスをテーブルへ置かせ、手を引いて隣の浴室へと連れて行く。




「一人で入浴したことはあるかしら?」




 彼が小さく首を横に振る。




「ミリー、誰か男性を呼んで彼の入浴を手伝ってあげて」


「……かしこまりました」




 顔を戻せばジッと見つめてくる彼と目が合った。


 出来るだけ安心させるように微笑んでみせる。




「これから他の人が来るけれど、あなたの入浴を助けてくれるだけよ。ここでは誰もあなたをいじめないし、食事もきちんと食べられるし、酷いこともしないわ」




 ミリーがすぐに戻って来て、その少し後に若い男性使用人が入ってくる。


 その男性に彼の入浴の手伝いを任せて部屋を出る。




「あの子の服はとりあえず、使用人のお仕着せの余りでいいわ。服は元気になったら買うけれど、どうせ侍従にするのだから今から着せても問題はないでしょう」


「え、侍従にされるのですか?」


「そうよ。そのために買ったんだもの」




 紅茶を飲みながらしばらく待つ。


 他の貴族だって奴隷を連れ歩く時には侍従という体でお仕着せなどを着せているのだから、別におかしくはないだろう。


 本を読んで一時間ほど過ごしていると浴室の扉が開く。


 そこには綺麗になってさっぱりした彼が立っていた。


 男性使用人は一礼すると下がっていく。




「さあ、こちらへ。入浴後は水分を摂りましょうね」




 またソファーに座らせ、グラスを持たせれば、今度は素直に水を飲んでくれた。もう警戒はやめたようだ。


 メイドに声をかけて食事を持ってこさせる。


 胃に優しいものと伝えたからか、食事はパンをミルクで煮込み、蜂蜜で優しく味付けをしたものだった。


 風邪を引いた時などに料理長がよく作ってくれる。


 メイドからお盆ごと皿とスプーンを受け取った。


 横から視線を感じながらスプーンでふやけたパンを掬い、軽く息を吹きかけて冷ましてから彼の口元に差し出した。




「はい、あーん」




 彼は恐る恐るといった様子で口を開いた。


 そこにスプーンをゆっくり入れ、口がとじたので、そっと引き抜く。


 黄金色の瞳が一つ、瞬いた。




「ほんのり甘くて美味しいでしょう?」




 彼が口の中のものを飲み込んだのを見て、もう一度、同じ動作を繰り返す。


 誰かに食事を食べさせるのは初めてだけれど、なかなかに難しくて、でも楽しい。


 口元に少しこぼれた分は拭いてあげる。


 ぽた、と雫がナプキンを持つ手に落ちた。


 無表情のまま、ぽろぽろと彼の目から涙がこぼれる。


 それでも食べたいのか口を開けるので、わたくしは彼の口に食事を与え続けた。


 お皿の三分の一ほどで彼が口を開かなくなった。


 多分、もうお腹いっぱいなのだろう。


 今まで満足に食事が出来なかったのならば、いきなり大量に食べても消化しきれないかもしれない。


 メイドにお盆を返し、口元も拭いてやる。


 さすがに涙は止まったようだ。



 

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[一言] 年明け早々にお年玉を貰った気分。 これからの展開が楽しみです❣️
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