あなたは狡い人ね。
十六歳の誕生日を迎え、成人となった日。
家族や使用人達から祝ってもらい、贈り物ももらって、嬉しい一日──……となれば良かったのだけれど、そうもいかなかった。
夕食後、家族との団欒を終えて部屋に戻るとリーヴァイが言った。
「我は一度、魔族領へ戻る」
その言葉に、思わず持っていたティーカップを落としそうになった。
なんとかギリギリのところで落とさなかったが、カップを持つ手が震えてしまう。
「……そう。何か用事があるの?」
努めて冷静であろうとしたけれど、声も震えてしまった。
いくらわたくしの奴隷とは言え、魔王ならば簡単に隷属の首輪など外せるだろう。
わたくしの奴隷なのは、あくまでリーヴァイの気紛れに過ぎない。
「力を取り戻すために、以前の我の亡骸を回収する必要がある。それを取り込むことで残った力を吸収する。終わったら戻ってくるつもりだ」
リーヴァイの言葉にホッとした。
「どの程度の期間、向こうにいる予定?」
「ここから旅をして戻るとすると行きだけで二ヶ月力を取り込み、馴染ませるのに数ヶ月……最低でも一年近くかかるだろう」
「そんなに会えない時間があるのね……」
リーヴァイを侍従にしてから、ほとんど一緒だった。
とても優秀な使用人であり、推しであり、わたくしにとっては大事な存在。それが一年もいなくなってしまう。
寂しいけれど、力を取り戻すことも重要だった。
もし本来の魔王としての力を十分に取り戻せれば、クローデットと対決することになっても倒されずに済むかもしれない。
そっと、リーヴァイの手が伸びて来た。
わたくしの頬を撫で、親指がわたくしの唇を辿る。
「寂しいか?」
それは、まるでわたくしに「寂しい」と言わせたがっているようで、少し笑ってしまった。
「ええ、寂しいわ」
「正直だな」
「あら、わたくしはいつでも正直者でしてよ?」
リーヴァイを買ったのも、クローデットと親しくなったのも、王太子と婚約を決めたのも、全てわたくしは自分の望みに正直に生きているからだ。
正直だからこそ、わがままなのだ。
「確かに、そなたは常に正直ではあるな」
リーヴァイの顔が降りてきて、わたくしの顔に近づく。
しかし、直前でわたくしはリーヴァイの口元に指を当てて、それ以上近づくのを止めた。
「わたくし、そんな安い女ではありませんわ」
恋人でもない相手と口付けをするつもりはない。
「……我のものになれ」
推しに甘く囁かれる甘美さと言ったら、たとえようもない。
黄金色の瞳に孕む熱は冗談ではなかった。
……以前はあまり本気度を感じなかったけれど。
今回は本気でそう思っているようだった。
けれども、ここで簡単に流されるわけにはいかなかった。
「残念。わたくしはもう王太子の婚約者よ」
「形だけだろう?」
「そうね。だけど、幸運の女神に後ろ髪はないのよ」
チャンスは掴める時に掴むべきだ。
わたくしの言葉にリーヴァイが笑った。
「面白い言葉だ」
スッと離れていくリーヴァイを引き留めたくなる。
たとえそれが一時の感情だとしても、推しから望まれたというのはわたくしにとっては何にも代えがたい幸福だった。
……その言葉があれば頑張れるわ。
もし、一年後にリーヴァイの気持ちが変わってしまっても、ほんの僅かでも、一瞬でも、その心がわたくしに向いたという事実だけでやっていける。
「それでは、いつなら許される?」
「殿下の婚約者ではなくなった時ね。最低でもクローデットが成人するまではこのままでしょう」
「その程度ならば待とう。魔族は長寿だからな」
そこで、お兄様から聞いた話を思い出す。
人間より寿命の短い魔族もいるが、大抵の魔族は人間と同じか、それ以上に寿命が長い。
もしかしたら一、二年など、魔族にとってはあっという間の時間なのかもしれない。
リーヴァイがわたくしの頬から手を離して足元に座った。
「いつここを出るの?」
「明日には」
「明日!?」
「ヴィヴィアンの誕生日までは居ようと思ってな」
……微妙な気遣いね。
確かに誕生日にリーヴァイがいなかったら、もっと寂しかっただろうけれど、きっといなくなったらそれはそれで寂しくなりそうだ。
撫でろと言うように頭を差し出されたので撫でる。
このさらふわな髪に次に触れるのは最低でも一年後だと思うと、名残惜しくていつもより丁寧に撫でた。
「そうだわ、櫛を持って来てちょうだい。髪を梳いてあげる」
リーヴァイはすぐに櫛を持って戻って来た。
……こういうところが可愛いのよね。
リーヴァイの年齢は不明だが、わたくしが十四歳で購入した時に十八歳だったので、人間と同じように成長するなら二十歳だろう。
外見年齢的にもそれくらいに見える。
白銀の、少しクセのある髪を少量取り、ゆっくり櫛を通す。
元々、艶があってさほど絡まってはいなかったみたいだ。
背を向けているのでリーヴァイの表情は見えないものの、静かに髪を梳かれているということは、嫌ではないと思う。
本当に嫌な時、リーヴァイはハッキリと言う。
だから、何も言わないのならいいのだろう。
「……わたくしをあまり待たせないでね」
リーヴァイが一つ頷き、振り返る。
「ヴィヴィアン、左手を貸してくれ」
「何かしら?」
言われるまま左手を差し出すと、手の甲に口付けられる。
それから、口を開けたリーヴァイがわたくしの左手の薬指を口に含んだ。
初めて感じる生温かい感触にギョッとしているうちに、リーヴァイが指の根本を結構強い力で噛んだ。
血は出なかったが、指が口から解放されると、根本にくっきりと歯型が残っていた。
リーヴァイがハンカチて指を拭い、歯形に唇を押し付け、何かを囁いた。
「ここは予約させてもらおう」
本来、結婚指輪をはめるべき場所につけられた歯型。
白い肌に赤く残るそれにドキリとした。
「これでは常に手袋をしないといけないじゃない」
「良いではないか。これは消えないようにしてある。……手袋をすれば直に男と触れ合わずに済むだろう?」
リーヴァイは機嫌が良さそうだった。
……推しの歯型……。
「あなたって実は執着心が強いのね? それとも独占欲かしら? こんなの、同性にも見せられないわ」
見る人が見れば、歯型だと分かってしまう。
「今更気付いたのか? こう見えて我もわがままでな。我の主人になった以上、責任は取ってもらうぞ」
「それだと、わたくしはもう奴隷を買えないわね」
ギュッと強く手を握られた。
「そなたの奴隷は我だけで十分だ」
「……そうね、あなたで手一杯だわ」
それ以上はお互いに何も言わなかった。
……あなたを求めてもいいのかしら……。
左手の薬指につけられた歯型だけが確かなものだった。
* * * * *
翌朝、リーヴァイはもう旅立っていた。
わたくしが起きるよりも早い時間に出かけたようだ。
……見送りもさせてくれないなんて酷い人。
でも、何故かリーヴァイらしいとも思った。
「ヴィヴィアン、あの、どうかしたの?」
アンジュの声にふっと我に返る。
「ごめんなさい、ぼうっとしてしまっていたわ」
「何かあったの? いつもの侍従さんもいないし……」
そういうところは勘の鋭い子である。
共にお茶をしていたクローデットも心配そうにこちらを見ていて、思いの外、ぼんやりしていたのだと気付く。
なんとか笑みを浮かべて説明した。
「あの子は今、生まれ故郷に帰っているの。どうしても行かなければいけない用事が出来て、帰って来るまでに最低でも一年ほどはかかってしまうみたいで……」
自分で説明していて、寂しさが募る。
この二年、リーヴァイはいつもわたくしのそばにいて、見守ってくれていた。
リーヴァイがいなくなって、まるで体に穴が空いてしまったかのごとく、何かが欠けてしまった感覚があった。
「それは寂しいね。大丈夫?」
「いつも一緒にいる家族がいないのはつらいですね」
向かいのソファーに座っていたアンジュとクローデットが立ち上がると、わたくしを挟むように左右に座り、抱き着いてくる。
慰めてくれる気持ちが嬉しかった。
「ありがとう、二人とも。わたくしは大丈夫ですわ」
それから、あえて話題を変えることにした。
「ところでクローデット様はその後どう? 伯爵にお手紙を書いて渡した後も、ご家族は相変わらずかしら?」
「ヴィヴィアン様のおかげで、少し良くなりました。未来の王太子妃と縁を繋いだこともお父様は褒めてくださいましたし、無視されることも減りました」
「それは何よりですわ」
アンジュとクローデットとは月に数回会うようにしている。
そして、クローデットは月に一度、王太子と会えるようにわたくしは取り計らった。
表向きは月に一度、わたくしとの交流会という名目で王太子を招き、クローデットと過ごさせ、最後の三十分から一時間ほどわたくしと話をして王太子は帰る。
王太子はわたくしと過ごしたことを両陛下に報告する。
だが、ここでわたくし達が親しいと思わせてはいけない。
……一月後のデビュタント兼婚約発表では不仲を見せつけるのよ。
そうすれば、月に一度の交流も『義務』であったと後々言えるし、婚約破棄をされても『不仲だったし』と納得されるだろう。
「アンジュはきちんと馬車の整備と点検はしている?」
「うん、毎回、乗る前に執事と侍女が立ち会って、見てくれているよ。前に一度、馬車の車輪が歪んでいたことがあって、それからはより気を遣うようになったの」
「あなたに何もなくて良かったわ」
「ヴィヴィアンのおかげだよ」
アンジュはまだ十四歳なので、恐らくそれは原作でアンジュが死ぬことになった事故とは無関係だろうけれど、馬車の整備について考え直す良い機会になったらしい。
ちなみに、クローデットと王太子の件はアンジュに教えてある。
彼女ならば他者に言いふらすことはない。
アンジュは王太子とわたくしの婚約に驚き、クローデットと王太子の関係に更に驚き、わたくし達の婚約がかりそめのものだと聞いて情報過多で最初は混乱していたが、すぐにクローデットと王太子の仲を応援した。
「クローデット様も素敵な出会いがあって嬉しい」
アンジュがギルバートと婚約したように。
わたくしがリーヴァイを購入したように。
クローデットも愛する人を、心を預けられる大事な人を見つけられたことが、アンジュは嬉しかったのだそうで。
……クローデットもアンジュも可愛い子だわ。
ずっとこの子達には友達同士でいてもらいたい。
クローデットも王太子を選んだし、心配はないはずだ。
「でも、クローデット様は本当に大丈夫? 最近、プリシラ様がお茶会に出てるって聞いたのだけれど……」
それに驚いた。
「え? プリシラ様はクローデット様の一つ歳下よね?」
公爵令嬢のわたくしですら、きちんと十五歳にならなければ公のお茶会に出席することは出来なかったのに、準成人でもないクローデットの義妹がお茶会に出るなんて……。
アンジュとクローデットが同じ歳で、異母妹はクローデットより一つ歳下なら、今は十三歳のはずである。
とてもではないがお茶会に出席する年齢ではない。
普通は同年代の同じ伯爵家か、繋がりのある家のご令嬢とお互いを招く小さな身内同士のお茶会をして過ごすものだ。
「え、ええ、そうなんです。伯爵夫人について行ってしまって、何度か他の家の夫人から注意をされたみたいですけど、全然やめてくれなくて……」
このままではバスチエ伯爵家は常識知らずだと言われ、クローデットが準成人を迎えてお茶会に出席した時にも後ろ指をさされてしまう。
……伯爵夫人も元は男爵家の令嬢で、貴族の常識はある程度分かっているでしょうに。
「しかも、お茶会で妹は度々、他の方に失礼をしているらしくて……わたしもどうしたらいいのか……」
クローデットの言葉を聞くことはないのだろう。
「伯爵は注意をしませんの?」
「『可愛いプリシラなら社交もすぐに出来るだろう』と……」
「娘可愛さに好き勝手にさせているのね」
はあ、と溜め息が漏れてしまう。
……仕方ありませんわね。
王太子の婚約者となっている以上、たとえまだ婚約発表をしていなかったとしても、社交界での非常識な行いを放置してはおけない。
まだ非公式だが、貴族間の噂はあっという間に広がる。
もう、既にわたくしが王太子と婚約したことは知られていて、本当かどうか探りを入れてくる手紙も何度かあった。
伯爵夫人達は後妻とその子供なので、多分、参加しているお茶会は伯爵家かそれ以下のものだろう。
高位貴族の中には配慮に欠けた伯爵の行いを不快に感じている者も多い。
それに元が男爵家の令嬢では、伯爵位以上の高位貴族のお茶会では礼儀作法も変わってくるというのもあって、招かれることはないと思う。
「お母様にお願いして、そのプリシラ様とお会いしてみましょう。公爵令嬢、もしくは公爵夫人に注意されれば、さすがの伯爵夫人も控えるでしょう」
クローデットの表情は微妙なままだった。
「……その、ヴィヴィアン様、妹は少し変わっていて、たまにおかしなことを言うのです。それに身分についてよく理解していないようで……」
「わたくし達の注意に耳を傾けないかもしれない?」
「伯爵夫人はともかく、妹は難しいかもしれません……」
……それこそ問題なのでは?
「そうだとしたら、今のうちにきちんと分からせないといけませんわね」
なおさら、その義妹をなんとかしなければ。
バスチエ伯爵や伯爵夫人、その義妹はどうなっても構わないが、クローデットが巻き込まれるのは避けたい。
「とにかく、一度話をしてみますわ」
そっと左手を撫でながら、苦笑する。
……寂しがっている暇はなさそうね。