ぅああぁあぁっ……!!
癖のある白銀の長い髪に、黄金色の瞳。
美しく整った顔立ちには表情と呼べるものがなかった。
……それでも、生きている。
こうして推しが生きていてくれることが嬉しかった。
床に膝をつき、俯いている彼に近づく。
ピクリとも反応しない彼に手を差し出した。
「わたくしの名前はヴィヴィアン・ランドロー」
顔を上げた彼の手を掴んで立ち上がらせる。
彼はきっと人間を憎んでいるだろう。
怒り、悲しみ、嘆き、どうしようもない状況で足掻くことも出来ず、苦しみを感じないために心を閉ざす。
そうすれば、少なくとも苦痛は和らぐから。
でも、もう彼にそんな思いはさせない。
「あなたは今日からわたくしのものよ」
あなたを死なせないために、わたくしはあなたを買うわ。
* * * * *
「お嬢様、廊下を走ってはいけません!」
後ろから追いかけて来る侍女の声にわたくしは笑う。
でも、走ってしまうのは仕方がない。
ここ半年ほどお兄様は領地に行っていて、ようやく、今日帰ってくるのだ。
お兄様が到着したと聞いてわたくしは部屋を飛び出した。
玄関へ向かって走っていると、角を曲がったところでドンと何かにぶつかり、弾かれて体が後ろへ倒れる。
そのままゴツンと頭を床に打ちつけた。
……凄く痛いわ……!!
頭を抱えていると侍女が駆け寄ってくる。
「お嬢様……!!」
そっと体を起こされ、手で押さえている後頭部に侍女が触れて、傷がないかを確かめる。
ズキズキと痛む後頭部に泣きそうになりながら顔を上げれば、そこにはずっと会いたくてしかたなかったお兄様が立っていた。
お兄様は立ったままわたくしを見下ろしている。
その、妹に向けるにはどこか冷ややかな眼差しと目が合って、頭がズキリと痛んだ。
視界がザラザラとした白とも灰色とも言えないものに包まれ、頭の中におかしな光景が一気に流れ込む。
見たこともない世界、不思議なものばかりに囲まれた、この屋敷よりもずっと小さな建物の一室に黒髪の若い女性がいた。
狭く薄暗い部屋にベッドや机など、生活に必要そうなものが詰め込まれており、ベッドに寝転がった女性が明るく光る小さな四角いものを見て楽しそうに笑っている。
「ああ〜、やっと出た! ディミアン様、やっぱりかっこい〜!!」
その小さな四角いものには人の姿が描かれていた。
それから、様々な景色が勢いよく流れていく。
この女性をわたくしは見たことがあった。
懐かしさすら感じて、でも、わたくしはこの女性に会ったことなんてないはずで、頭が混乱する。
……わたくしは……わたしは誰……?
……いいえ、わたくしはわたくしですわ!
……でも、この女性は多分、わたくしで……?
「──……ま、うさま……お嬢様!!」
声が聞こえてきてハッと我に返ると景色が消えた。
わたくしはお兄様を見つめたまま意識を飛ばしていたらしい。
お兄様が心配そうな様子でわたくしのそばに片膝をつく。
「すまない、僕がきちんと前を見ていれば……大丈夫かい?」
お兄様の手がわたくしの頬に触れる。
その瞬間、バチリと視界が弾けて思い出した。
金髪に紅い瞳も持つ、公爵令息ルシアン・ランドロー。
わたくしが遊んでいた女性向け乙女ゲーム『クローデット』の中に登場する、主人公が恋愛出来るキャラクター、攻略対象の一人である。
乙女ゲーム『クローデット』は伯爵令嬢クローデット・バスチエが主人公の選択肢によって各攻略対象と恋愛をして物語を楽しめるノベル形式のゲームだ。
攻略対象は全部で七名。
王太子、エドワード・ルノ=シャトリエ。
公爵令息、ルシアン・ランドロー。
近衛騎士、ギルバート・マクスウェル。
聖騎士、フランシス・パターソン。
聖騎士でフランシスの弟、アレン・パターソン。
暗殺者、イヴォン。
大筋の物語は同じであるが、その中で、各キャラクターを選択し、あとは物語を楽しみながら更に選択肢を選んでいき、キャラクターの好感度を上げていくと結末が変わるというものだ。
結末はノーマル、ハッピー、バッドの三種類があり、キャラクターの好感度によってエンドが決まるのだ。
そして、わたくしが一番好きだったのは特殊攻略キャラ……つまり隠しキャラの魔王・ディミアンだった。
ディミアンは、ルシアン・ランドローを一度攻略していないと選択肢が現れない特殊なキャラで、最初に遊ぶとどう頑張っても攻略出来ないキャラクターだった。
視界が戻るとお兄様……ルシアン・ランドローがいる。
そう、わたくしはルシアン・ランドローの妹で、物語中では王太子の婚約者である、ヴィヴィアン・ランドロー。
王太子エドワードとお兄様を選ぶと悪役として出てくる悪役キャラで、二人のどちらかを選択して物語が進むと聖女となったクローデットに嫉妬して殺そうとする、苛烈な性格の令嬢だ。
何より悲しいのは、一周目では魔族との戦い後に魔王を殺す選択肢しかなく、お兄様は妹のヴィヴィアンに実は無関心であること。
わたくしの推しは死ぬし、お兄様にも愛されていない。
クローデットがエドワードを選べば、わたくしはクローデットを虐げ、殺そうとして、修道院に入れられる。
……そんなのあんまりだわ。
わたくしはお兄様もお父様もお母様も愛しているのに。
「ああ、顔に怪我はないみたいだね。でも、頭を打ったようだから、今日はもう休んだほうがいいよ」
こんなに優しく微笑んでいるのに、目が笑っていない。
悲しくて、寂しくて、つらくて、衝撃的で。
気付けばわたくしは泣いてしまっていた。
「ぅああぁあぁっ……!!」
泣くわたくしにお兄様も侍女も驚いていたけれど、わたくしはもう他のことなど気にしている余裕はなかった。
推しが死ぬ、お兄様に愛されていない、修道院送り。
……わたくしに救いはないの……!?
お兄様が泣くわたくしを抱えて部屋まで連れて行ってくれたけれど、その温もりがつらかった。
部屋に戻り、お医者様に診てもらい、後頭部には小さなたんこぶが出来ているものの、問題はないとのことだった。
泣きすぎと記憶を思い出したこととで疲れてしまい、わたくしはお医者様に診てもらった後、すぐに眠ってしまった。
そうして、目が覚めると真夜中だった。
………………。
はあぁああぁ……と大きな溜め息が漏れる。
主人公のクローデットになりたいと思ったことはあったけれど、よりにもよって、クローデットをいじめる悪役側だなんて。
しかも大好きなお兄様から実は全く好かれていないという事実が悲しい。
改めて原作乙女ゲーム『クローデット』を思い出す。
この世界には人族と魔族、そしてその間の魔人族がおり、人族と魔族は争い続けてきた。
数百年前に聖人が魔王を封じ、転生させたことで魔王を失った魔族は現在、侵攻を止めている。
主人公クローデットが十六歳の誕生日、聖女の証である聖印が現れたことから物語は始まっていく。
そこからクローデットは聖女として教会などで奉仕活動を行ったり、伯爵令嬢でもあるので社交をしたり、忙しい日々を過ごすのだが、その中で攻略対象達と出会っていく。
そして、あるお茶会で貴族の夫人が連れていた奴隷に対して、クローデットは「奴隷なんて間違っている」と言って奴隷を助け出す。
実はその奴隷が数百年前に力を封じられ、転生した魔王だった。
それだけでなく、ルシアン・ランドローは実は魔族であり、クローデットのそばにいる魔王を見つけ、接触し、魔王としての記憶を取り戻させることとなる。
奴隷として受けてきた屈辱もあり、人間を憎み、恨み、嫌っている魔王だけれど、心優しいクローデットの清らかさに触れて心が揺れる。
しかし、魔族の奴隷が殺される瞬間を目にしてしまった魔王は怒り、力を暴走させ、クローデットの下を去った。
その後、魔族達の動きが活発化し、戦争が始まる。
クローデットは聖女として戦争に参加するのだ。
魔族との戦いの中、選択したキャラクター達との恋愛物語が進展し、最終的には魔王を弱らせ、倒す一歩手前までくる。
一周目ではここで魔王を殺す選択肢しかない。
そしてここで魔王を殺すとルシアン・ランドロールートのハッピーが消え、戦後に選択キャラクターと共に生きていくという締めくくりで終わる。
この大筋の中で選んだキャラクターによって個別のストーリーが楽しめ、わたくしはエドワードとお兄様の悪役となる。
……でも、普通に考えてエドワードルートはわたくし、悪くないわよね?
婚約者に別の女が近づいて、婚約を無視して仲良くなっていたら怒って当然だし、常識的に考えて婚約者の横取りはアウトだろう。
お兄様の件についてはちょっとブラコンすぎる気はするけれど、エドワードに関しては悪くない。
もう一度溜め息が出てきてしまう。
…………お兄様からちょっと距離を置こう……。
本当に原作通りお兄様が妹のわたくしに関心がなく、どうでもいいと思われているのであれば、そんな相手にしつこく付き纏われるのは嫌だろう。
わたくしもお兄様に嫌われたくはない。
お兄様はそれでいいとして、問題は推しの魔王様だ。
このままだと恐らく一周目でクローデットは魔王を殺すという選択肢となってしまう。
何より、推しが苦しんでいるのも死ぬのも嫌だ。
エドワードとの婚約はともかく、推しが死ぬのだけは絶対に嫌だ。
奴隷のうちに助け出して、少しでも人間の良さというか、憎しみや怒りを鎮めてもらえればいいのではないだろうか。
そのためには魔王様を探す必要がある。
……思い出す、思い出すのですわ、わたくし!!
確かお茶会で貴族の夫人が奴隷として転生した魔王様を連れて来ていた。
その時、クローデットが夫人の名前を呼んでいた気がする。
「うーん……」
……なんだっけ? ミ、ア、ブ……?
「そうだわ、分からないなら訊けばいいのよ……!!」
急いで机に向かい、便箋とペンの用意をする。
月明かりを頼りに手紙を書き、読み返す。
「……これならきっと……」
封蝋は明日の朝、起きてからしよう。
とりあえず手紙を机の上に置いたままにして、わたくしはベッドに横になる。
色々とまだ混乱することはあるけれど、それでも、こうして大好きなゲームの中にいるのならば出来ることをしよう。
* * * * *
最近、妹の態度が変わった。
少し前まではまるで鳥の雛のように、ルシアンを見かけるととにかく後を追いかけ、くっついて来ていた。
それを鬱陶しく思ったことはないが、そのことで妹を可愛いと感じることもなかった。
家族と言えど、血の繋がりは半分しかなく、人間と吸血鬼の魔人である妹のことは家族という名の同居人程度の認識だった。
ルシアンの母イザベルは始祖吸血鬼であり、ルシアンはイザベルの能力で生み出された真の吸血鬼だが、妹ヴィヴィアはこの国で人と偽って生活するためにイザベルが結婚した公爵との間の子供だ。
魔族は同族意識が強いけれど、魔人は魔族とは言えない。
そして魔人は人間からも受け入れられることはない。
そのことについては多少、哀れに思うところはあるが、ルシアンにとってはいてもいなくても変わらない存在。
それがヴィヴィアンという魔人の妹だった。
「おはようございます、お兄様」
それが数日前、廊下でぶつかって大泣きをしてから態度が変わった。
いつもなら抱き着いてくるはずなのに、淑女らしく、一定の距離を保って朝の挨拶をする姿は違和感がある。
妹の侍女や使用人達に訊いても、妹は変わったと言う。
わがままも減ったし、落ち着きが出て、自信家なところは変わらないようだが、使用人達への無理難題も言わなくなったそうだ。
「今日は買い物に行くと聞いたけれど、一人で大丈夫かい?」
「わたくしもう十四歳でしてよ? 一人で買い物くらい出来ますわ」
と、言いながら食堂へ歩いて行く。
今までなら「お兄様もついて来てください」とわがままを言い、ルシアンがついて行く流れなのだが、それがない。
面倒が減って気楽なはずなのに、歩いて行く妹の背中を見て、ルシアンは少し物足りなさを感じた。
そして、そう感じた自分に驚いた。
……どうして妹のことが気になるのだろう。
これまで興味がなかったはずなのに。
「本当に僕は行かなくていいの?」
妹へそう声をかけるとヴィヴィアンが振り返る。
「お兄様、女性には秘密の買い物というものが必要な時がありましてよ?」
そう言って笑った妹が一人で先に食堂へ入ってしまう。
残されたルシアンは、どこか残念な気持ちと共に、ずっと興味がなかった妹のことを何故か今更になって知りたいと思った。
……どうして妹は僕に付き纏わなくなったのか。
それが今は非常に気になっていた。
その理由を知るためにも、妹の様子をしばらく観察してみる必要がありそうだ。
ルシアンは優しい笑みを浮かべたまま、食堂に向かい、扉を開ける。
つまらない日常に変化が現れた瞬間だった。
* * * * *