水戸城 (茨城県水戸市三の丸)1
⑤ 水戸城 (茨城県水戸市三の丸)1
源頼朝が、平家打倒に功のあった常陸平氏の嫡流、馬場資幹に、常陸の統括権(常陸大掾)を与え、居館(水戸城の前身)を築いたのが始まり。
その後、馬場氏を追い出した江戸氏が水戸城を築き、居城とした。
続いて、1590年、小田原参陣の功で所領安堵された佐竹氏が、水戸城を奪い、江戸氏を滅亡させ、以来、佐竹氏の本拠が水戸城となった。
1602年佐竹氏は、家康から出羽国への国替えを命じられる。
ずっと治めたい地であり、大切にした佐竹氏の本拠、水戸城だった。
わずか12年の本拠だった。
無念の思いで去る。
■佐竹義宣の最初の妻、正姫
鎌倉幕府を開いたのが、源頼朝。
源義家は頼朝から4代遡る源氏の棟梁だ。
義家の弟が義光。
その系統が常陸国久慈郡佐竹郷に在し、佐竹氏を名とし、常陸源氏佐竹家が始まる。
甲斐の武田家は弟の家系になる。
源氏の嫡流に近い名門として続く。
徳川家は、義家の孫、新田義重を始めとする新田源氏を祖とし、庶流であり、系統的には佐竹氏が上だ。
頼朝の挙兵に早期に従わなかったこともあり、浮き沈みはあるが、以来、500年以上、常陸国の支配を続けた。
1562年、家督を継いだのが18代当主となる佐竹義重。
父、義昭を引き継ぎ、越後の上杉謙信と連携して勢力を広げていく。
だが北条氏が台頭し、次いで、伊達政宗が力を出し始めると、常陸国に常駐体制ができない謙信は頼りにならなくなっていく。
謙信が軍勢を引き連れ在すれば問題ないが、越後に去ると押され守りに入るしかないのだ。
それでも、謙信がいれば、佐竹氏の体面はどうにか保ることができた。
だが、謙信が亡くなり、後ろ盾を亡くし、侵攻を食い止めることができず、風前の灯となった佐竹家。
そこに、秀吉から臣従するようにとの申し出がある。
喜んだ佐竹義重は、秀吉に活路を見出し、臣従を誓い窮地を脱していく。
1590年には、秀吉の北条征伐に積極的に参陣し、常陸国54万石を安堵される。
今までと状況が一変し、佐竹義重は、大藩の藩主となり、強気で常陸を支配する。
本拠を水戸城としたかった。
馬場氏以来、常陸を治める本拠は、水戸城だった。
だが、江戸氏が居城とし、動かない。
江戸氏は長く縁戚関係を続けた強力な軍事力を持つ佐竹氏一門だ。
江戸氏は、佐竹氏の家臣でもあるが、国人として独立した領地を持ち命令に従わない時も多々あった。
争ったり和睦したりしつつ佐竹氏に従っていたが、独立性を増し、許せなくなった。
佐竹義重は、身内の内紛を嫌った。
それ故、江戸氏の命令を無視する行動に我慢し、重通の嫡男、江戸実通と義重の次女を結婚させて、強力な一門とし、配下に置こうとしたが、効果はなかった。
そんな時、江戸実通が亡くなり、次女は佐竹家に戻った。
ここで、江戸氏との近い縁が切れた。
義重は、耐えていた思いを爆発させ、欲しかった水戸城を奪おうと考える。
佐竹義重は、北条征伐に率先して参陣したが、江戸氏は参陣しなかった。
秀吉に従わない江戸氏は追放してもよしとの内諾を得て、水戸城主、江戸重通を襲い追放し、水戸城を奪った。
江戸重通は妻の実家、結城氏を頼って逃げた。
こうして、水戸城は、佐竹家居城となり、拡張整備される。
秀吉は江戸重通を改易し、義重の領地として与えており、当然のことだった。
居城だった太田城(茨城県常陸太田市)から水戸城(茨城県水戸市)に引っ越しだ。
その時、嫡男、義宣に悲しい出来事が起きる。
義宣の妻、正姫が自害したのだ。
義宣と正姫の縁は少しさかのぼる。
正姫は、下野国那須郡(栃木県)を支配する有力国人、那須資胤の娘。
那須氏と佐竹氏は争いを繰り返したが、義重の力が増し、那須氏の内紛に介入し影響力を強めた。
そして1572年、佐竹氏優位の和議を結び、佐竹氏は那須氏を配下とした。
その条件に、義宣2歳と正姫5歳の婚約があった。
ところが、資胤を継いだ那須資晴は、和議の際の取り決めを実行しない。
一方的に押さえつけようとする義重に不満がたまっていたのだ。
そこで、1583年、佐竹氏と敵対する北条氏と結び、佐竹氏に挑み、領内から義重勢を追い払う。
だが、すぐに、反撃され、義重に屈服。
怒った義重は結婚の延期を告げる。
素直に那須氏が従えば、結婚を認めるつもりだったが、また那須資晴は、北条氏や伊達政宗と結び、裏切り戦いを挑んだ。
義重の敵ではなくまた負けるが。
資晴は降参し、今度は和議を実行する条件として、義宣と正姫との結婚を願う。
1585年、義重は承知した。
こうして義宣と正姫の二人は婚約から13年後、結婚し、しばらく和やかな結婚生活を送る。
那須資晴は、義宣の義兄弟になり、貴ばれるはずだった。
だが、義重は「資晴は裏切ってばかりで信用できない」と冷たかった。
那須資晴は、これでは結婚の意味がないと、再び北条氏・伊達氏と結び、義重に戦いを挑む。
関東ではまだまだこんな戦が続いていたが、信長亡き後をうまくまとめた秀吉が、天下人として豊臣政権を作った。
関東の武将も、天下人、秀吉の威光を認め、それぞれ温度差はあるが臣従の意を表明した。
そこで、秀吉は、惣無事令を発し、独自の戦いは禁止し、領土紛争の解決は秀吉の裁定を願い、従うことを厳命した。
天下の争いごとは、秀吉の采配で決め、天下を支配下に置こうとしたのだ。
そんな時、北条氏は、秀吉の命令に逆らいに無断で領土を争う戦いを始めた。
この機会を待っていた、秀吉は、北条氏を責めた。
北条氏政に非を詫び、臣従の証として上洛するよう求めたのだ。
だが、秀吉の人質にされると恐れ、氏政本人は動かなかった。
ここで、秀吉は、北条氏に秀吉への忠誠心なしと決めつけ、北条征伐を決める。
北条氏と戦っていた佐竹義重は、劣勢だった。
秀吉の北条征伐は、願ってもないことであり、佐竹氏にとって吉報だと、率先して、秀吉の北条征伐に参陣した。
勝利に貢献し、領地は安堵された。
一方、那須氏は、決断がつかず秀吉の元に参陣するのが遅れ、北条方と見なされて改易だ。
正姫23歳は、結婚以来、那須家と佐竹家の争いを回避するべく努力し続けた。
なのに、守るべき実家が滅んでしまった。
とても信じられず、愕然とする。
改易後再興できるのか、今後どうすればよいのか悩み苦しむ。
重臣らの懇請で、家名存続はできた。
元々、正姫は望まれない義宣の妻だったと承知している。
義重は、那須家を嫌っており、正姫を正室として丁重に接することはなかった。
家中も義重と同じ対応だった。
居心地の悪い佐竹家だったが、実家があれば、まだ正姫の存在価値があった。
だが、実家は小禄になり、佐竹氏との対抗力はなくなった。
正姫のすべき役目がなくなったのだ。
佐竹家にとって用がなくなった。
佐竹家に居場所をなくしたと、胸に突き刺さる寂しさの中で涙する。
そして、水戸城には行かないと決めた。
正姫にとって唯一の救いは、義宣の愛だった。
いつも変わらず、優しく正姫を守り、結婚してよかったと感謝するほど愛されていた。
義宣にとって、幼い頃に出逢い文を交わした正姫との長い縁はかけがえのない大切なもので、正姫が妻だった。
実家がなくなろうとも妻は正姫だと、慈しんでいた。
だが、正姫にも那須氏嫡流の姫として、誇りがあった。
実家の再興が叶うなら、佐竹家家臣となっても、旧臣を召し抱え、家名を復活させたかった。ところが、義重は、那須氏滅亡に満足しており、旧臣・一族の召し抱えに冷淡だった。
正姫は、実家の役に立てず、一人悩み前途を悲観し、死を決意し父や一族のもとに逝った。
義宣は、正姫の亡骸を見て悩みの深さをわかっていなかったと、取り返せない失敗を悔やむ。