㉞ 熊本城(熊本県熊本市中央区)2
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■ガラシャ玉子の大切な人
玉子の次男、興秋の養父、忠興の弟、興元(1566-1619)と玉子は、養子縁組が決まって以来、付き合いを深めていた。
興元は、奥州細川家を継いでいた。
ガラシャ玉子に影響され、キリスト教に関心を持ち、共感を覚える。
1594年、興秋が正式に養子入りする時、興秋に従う忠興家臣、5人は洗礼を受けて従い、興元や奥州細川家家臣も洗礼を受けて迎えた。
1598年、豊臣秀吉が亡くなる。
京大坂は激しい政争の場となり、不穏な動きが渦巻き、関ケ原の戦いへと続く。
忠興は、家康支持を鮮明にし、まもなく、三男、忠利を家康の居城、江戸城に人質として送り、家康嫡男、秀忠に仕えさせる。
ここから東軍西軍と別れていく。
家康に従って動く陣営が、東軍だ。
反家康陣営は、石田三成が中心の西軍だ。
「(秀吉の)遺言をないがしろにする家康に鉄槌を下す」と毛利輝元・宇喜多秀家を総大将に立ち上がる。
秀吉の遺言に従い政権の継承を訴えるのが西軍。
一歩先を見る家康は、豊臣政権に従わず、上洛しない上杉氏を討伐をすべきだと、茶々・秀頼に訴え、同意を得て、大坂を離れた。
その間隙を狙って、三成ら西軍が立ち上がる。
茶々・秀頼は、秀吉の遺志を破ったと訴える三成の家康追討に、賛同した。
こうして、天下分け目の戦いが始まる。
秀吉は大坂城下に大名屋敷を作り大名妻子に住むよう命じていた。
その命令に従い大阪城下に住まう大名妻子は、西軍、石田三成の元、人質となる。
ただ、大阪城下は広過ぎて、警備の手が回らず、十分に監視出来ない。
そこで、三成は東軍に従う有力大名の妻子を大阪城二の丸に集めて、効率的に監視下に置くことで、彼らの戦意をくじけさせ、西軍に味方させたいと考える。
主だった大名妻子を二の丸に連れてくるよう命令を出した。
まず、最初が、東軍の旗色を鮮明にしている細川家でありガラシャ玉子だった。
だが玉子は、屋敷から動くことを拒否。
毅然とした態度で、家臣に「東軍に属する他の大名妻子の為にも、細川家は東軍であり、三成には従わない覚悟を見せます」と告げた。
三成は玉子主従を捕らえ、大坂城二の丸入りさせようとする。
そこで、玉子は、屋敷に火を放つ。
そして、家老、小笠原秀清(少斎)に亡骸を三成に与えないように厳しく命じて、介錯を頼み、炎の中で亡くなる。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ(辞世の句)
玉子はこの時を待っていた。
長く待ちわびた死する時だった
忠興との夫婦生活は、父、光秀の死以後、玉子の思い描いた暮らしではなかった。
忠興はキリスト教を認めていたが、玉子の生き方を理解できなかった。
溝は深くなるばかりで、忠興とけじめをつける日が来ると心構えしていた。
子達の生きる道は、ほぼ出来ており、もう充分生きた満足感があった。
玉子のキリシタンとしての影響力は、拡大するばかりだ。
だが、政治とキリスト教が相容れなくなっていくのは明らかだった。
余りに影響力を持つキリシタンの玉子は、細川家にとって、益はない。
説得力のある宗教者として充実した暮らしを続け、この世に生まれた意味を問い続けた。
忠興は、秀吉の動きに応じて、聚楽第から大坂城、そして伏見城下の屋敷に移り、政争に明け暮れる。
二人の生き方はますます違っていった。
子達の為には、細川家が安泰で続くことは必要であり、その一助となりたい。
また、キリシタンとして生きたと誇りを持って後世に伝えられる人生の終わりとしたい。
仕え、支えてくれた人達の心を打つ生き様を残したい。
玉子らしい最後でありたいと心ひそかに祈っていた時に起きた三成の蛮行だった。
最高の死に場所が与えられたと、神のご加護に感謝し、微笑んで生涯を終える。
玉子の潔い死に恐れをなした三成は、大名の妻子を二の丸に集めることをあきらめた。
それぞれの大名屋敷の監視を厳しくするよう命じた。
だが、結局、兵が散らばるばかりで、鉄壁の守りとはならない。
他の大名の妻子は、細川屋敷の炎上で、警備が手薄になり逃亡が可能になったと勇気づく。
それぞれ、知恵を絞り逃走する策を練る。
次いで、玉子の死を知った他の大名屋敷は、勇気百倍、決死の脱出が相次ぐ。
東軍勢妻子は、当主が思う存分戦うのを支えると決意した、死を賭けた脱出だ。
三成が屋敷内に侵入し強制力を行使することはないと見極めた家中が変装したり、荷に隠したりと、手を尽くし、大名妻子を大坂城外に逃がす。
大坂城内は騒然となり、監視の目を潜り抜ける可能性が増えていた。
この結果、東軍の士気は弱まるどころかますます上がり、西軍に属する大名の妻子も大坂城下の混乱で西軍への信頼が揺れる。
迷っていた大名は、ガラシャ玉子の決意を知り、東軍への信頼度を増し、急激に傾いた。
玉子は死を持って、三成に大きな打撃を与え東軍の士気を高めたのだ。
関ヶ原の戦い勝利に繫がる大きな功労となる。
玉子の死を知った宣教師、オルガンティノは、玉子の遺骨を集めるよう手配し、遺骨を自ら守る。
忠興も玉子の死を深く悲しんだ。
望んでいたところもあったが、大きな宝を失った焦燥感もあった。
天下分け目の戦いが終り、世の中が落ち着いた1601年、オルガンティノにガラシャ教会葬を頼み、自らも参列する。
玉子は多くの人に影響を与えており、惜しむ人々は数限りないほどで盛大な葬儀となる。
忠興は、葬儀を済ませると、玉子がキリシタンだったことを忘れたかのように、細川家菩提寺、曹洞宗崇禅寺(大阪市東淀川区)へ改葬し、玉子の菩提寺とする。
また、京都大徳寺塔中、高桐院を建立し墓所とする。
細川家中からキリスト教色を一掃すべく動き始める。
忠興は関ヶ原の戦い後、恩賞として大藩、小倉藩(豊前中津)40万石を得る。
忠興も戦ったが、家康勝利への功は玉子が圧倒的だった。
小倉城を築城し小倉藩主となる忠興は、玉子の功を認めざるを得ない。
キリスト教に寛大にならざるを得なかった。
小倉城下には、玉子に憧れ慕う2千人のキリスト教信者が集まった。
玉子の影響力は絶大だった。
禁教令は出ていたが、まだ、絶対的なものではなかった。
キリシタンは増え続けていた。
義母、沼田麝香(1544-1618)は、細川家に偉大な貢献をしたと玉子に感謝し、自ら洗礼を受けた。
細川マリアと名乗る。
以後、玉子の心・考えに寄り添うように生きていく。
興元の妻は、麝香の弟の娘でいとこだ。
玉子の父、光秀側近、進士国秀の妻は、麝香の妹。
ガラシャ玉子には縁が深く、結婚以来、麝香を母とも思い慕った。
その麝香に、玉子の精神の幾らかが乗り移った。
玉子には幸せなことだ。
玉造屋敷留守居、玉子付き家老、小笠原秀清も玉子の影響を受け、キリスト教を理解した。
小笠原秀清は、玉子とともに亡くなるが、小笠原一族に洗礼を受けた者が、相次ぎ、後には殉教者も出る。
1612年、天下人として圧倒的力を握った家康は教会の破壊と布教の禁止を命じた。
今までにない強硬な禁教令を出したのだ。
この高圧的政策でキリシタン大名はいなくなり、信者も急激に減り、表面的にはキリスト教信者はいなくなる。
1632年、細川家は熊本藩54万石に国替えとなり、忠興は八代城(熊本県八代市)を隠居城とした。
直ぐに、父、幽斎の菩提寺、泰勝寺を小倉から移し八代に建立し、泰勝寺で玉子を篤く弔う。
細川家を大藩とした力を見せつけようとしたのだ。
熊本城に入ったのは、熊本藩主、忠利。
玉子の末っ子だ。
1636年、藩主として、細川家菩提寺、泰勝寺(熊本市中央区)を建立し祖父母、玉子を篤く弔う。
忠利にはかけがえのない母であり藩主としての意地を見せる。
夫と子、忠興と忠利は細川家菩提寺の建立という名の下に、玉子の墓所を競う。
忠利は、母を見殺しにし、異母弟、立孝を溺愛する忠興(1563-1646)を許せず、毅然と対抗したのだ。
藩主の力は大きく、後には、八代、泰勝寺は廃寺になり、忠利の建立した泰勝寺に統一される。
フロイスの記した明智玉子は、迫害を受けたキリスト教者の立場から書かれており、一面の真実はあるかもしれないが伝え聞くことが多く、玉子の具体的な生活をつぶさに見ているわけではない。
ガラシャ玉子は、夫、忠興と価値観の違いを知り離縁を覚悟した。
夫、忠興は細川家の存続と、忠興の名誉が損なわれることを危惧し、離縁には応じず、自由な外出さえも許さなくなった。
だが、玉子を愛し、その優秀さを認め自由に生きることを認めている。
短気な性格ゆえ、時には狂暴な振る舞いもあったが。
夫婦愛は強く、お互いが高め合い、切磋琢磨して細川家を守り、熊本城を守ったことは間違いない。
これでおしまいです。
間違い等のご指摘よろしくお願いします




