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㉞ 熊本城(熊本県熊本市中央区) 1

㉞ 熊本城(熊本県熊本市中央区) 1

  

最初の築城は、室町時代、肥後守護、菊池氏一族、出田秀信だった。

当時は千葉城(千葉城町)と呼ばれた。

次いで、大友家から養子入りした菊池義武が、家老、鹿子木(かのこぎ)親員(ちかかず)に隈本城(古城町)を築かせた。

それから幾度かの城主の変遷があり、1598年、加藤清正が、秀吉から肥後北半国19万5千石を得て、隈本城に入った。


 1591年、清正は、秀吉の天下を示す壮大な近世城郭を築くと決める。

千葉城・隈本城のある茶臼山丘陵一帯に城郭を築くと縄張りを始めた。

秀吉に従い戦うことが多く進まなかったが。

それでも構想を練り、築城を続けた。


秀吉の死後、1600年、関ケ原の戦いで東軍の主力となる。

家康は戦いぶりを誉め、恩賞を与え、清正は肥後一国52万石藩主となる。

旧領を守りその上、倍増したのだ。

大喜びで大藩にふさわしい居城とすべくより一層力を入れ、1606年、築城完成。

熊本城と名付ける。

 清正自慢の加藤家の城だったが、1632年、改易。

細川忠利が、藩主となり入城。


■細川家居城、熊本城

細川忠利の父が、細川忠興・母が細川ガラシャ玉子(1563-1600)。

秀吉に従い、豊臣家本拠、大坂城内に、玉造屋敷を築き住んでいた。

この屋敷で、忠利は生まれた。

続いて、秀吉が政庁を京、聚楽第と定めたため、秀吉の命令で、1587年、聚楽第屋敷を築き、細川家の本拠とする。


玉子は、玉造屋敷を離れず、住み続け、夫と別居する。

そして、洗礼を受け、ガラシャ(神の恵み)という洗礼名となった。

秀吉の禁教令が発令されると、宣教師が追放されいなくなるかもしれないと恐れ、その前に洗礼を受けると決め実行したのだ。


秀吉の禁教令は、宣教師の布教活動の制限・国外退去だった。

外国商人による南蛮貿易は認め奨励したままだった。

商人と宣教師を確実に見分ける方法はなかった。

そのため、結局、形だけで終わる。


玉子は、父、光秀謀反の責任を取らされ、味土野に幽閉された。

納得できない仕打ちに悩む中で、キリスト教への信仰心を少しづつ深めていた。

玉造屋敷に戻ると密かに教会を訪れ、教会・神父・教えを自分の目で確かめた。以来、宣教師と文通を続け理解を深め、洗礼を受ける決意をしたのだ。

味土野で、筆頭老女、清原マリアからキリスト教を教えられ興味を持って以来、学び続け、ついに、キリシタンとして生きると決めたのだ。


清原マリアは、忠興の父、藤孝幽(ゆう)(さい)の母の実家の生まれで、一族に信者も多い。

清原家は、儒学を研究・教授する公家だ。

当主は、マリアの兄、清原国(くに)(かた)(1544-1615)だった。


ガラシャ玉子が熱心にキリスト教を学び、傾倒していくと、侍女達も、敬虔なキリシタンになる。

秀吉が禁教に傾き、ガラシャ玉子が屋敷を出て、教会に行くことは出来なくなる。

そこで、玉子が洗礼を受ける前、清原マリアや侍女達17人に大坂教会で洗礼を受けさせた。


洗礼を受けた清原マリアからガラシャは洗礼を受けた。

洗礼を受けると、覚悟が定まり、思う存分、家中にキリシタンとしての影響力を広げていく。

忠興も認めていた。


続いて次男、(おき)(あき)(1584-1615)3歳に洗礼を受けさせる。

以後、心を込めて教義を教え(おき)(あき)も熱心に学ぶ。

忠興の弟、興元(おきもと)の養子となり家督を継ぐと決まっており、いずれ離れていく。

そこで、キリスト教を心の支えとするよう、厳しくも優しく説いた。


(おき)(あき)は、幽閉され落ち込んでいた時、玉子の意に反して授かった。

そして、夫の裏切りを知ることになる。

生まれた(おき)(あき)は、まっすぐな優しい子だった。

忠興の行動を許せず、怒り悲しむ玉子に、笑顔を振りまき癒してくれた。

何度も癒やされ、力づけられた、素晴らしい宝に育つ。


1595年には、キリシタン、ガラシャ玉子の影響力は広範囲に広がり信奉される存在となる。

自分が導き信徒となった人たちの為にも、信仰に生きる覚悟をより強くする。

そして、忠興に信仰なしの暮らしはないと告白する。


忠興は、玉子の存在が子たちにも家中にも影響力を持っていると認めざるを得ず、屋敷内に小聖堂を造ることを許した。

ここから、玉子は、誰に遠慮することもなく宗教の道に突き進む。

その姿は神々しく、美しく、ますます周囲に入信者が増えていく。

末の娘、多羅姫7歳に洗礼を受けさせる。


宗教心は篤くとも、細川家の奥に目を配ることは怠らない。

細川家の奥の要としてゆるぎない地位を築く。

母としてしっかり子たちを育てている。

細川家の外交付き合いにも抜かりはない。

周囲のあこがれる完璧な女人だった。


そこで、母として自信を持って、次々、子達に結婚相手を決めていく。

決めるのは、秀吉だが、事前に相手方と話し合い、根回しをしていく。


長女、長姫(1579-)と秀次の筆頭家老、前野氏の嫡男、前野景定との結婚。

秀吉後を睨んで、秀次との仲を重んじようとした忠興が、言い出したことだ。

玉子は、どこか不安があったが、細川家のために良いことと受け入れた。

秀次・前野長康と図り、秀吉の了解を得た。


細川家は、文人の家系としても名高い。

秀次が目指したのは、文人としての関白だ。

天下を統率する武家として戦いをなおざりにするつもりはないが、文化の保護・発展に力を入れている。

忠興とは、文化人として共通する価値観があった。

茶道、千利休を通じても親しくした。


忠興は、秀次との関係をもっともっと深めたいと考えた。

そこで、秀吉に申し出、秀次の側近中の側近、前野景定との結婚を願ったのだ。

前野長康は、但馬国出石に5万3千石を得ており、忠興の丹後(京都府北部)12万石と隣接し、この縁からも結婚は自然だった。


嫡男、忠隆(1580-1646)には前田利家の姫、千世。

秀吉は、忠興を高く評価し秀吉の盟友、大大名、前田家の姫との結婚を申し出た。そこには、大坂城に在するねねと玉子との親しい付き合いがあった。

玉子は、外出はしなくなり、直接会うことはだんだん少なくなるが、ねねはキリスト教にもおおらかで、素晴らしい相談相手だった。


そこで、玉子は、秀吉・ねねと縁の深い女人と忠隆の結婚を願った。

すると、ねねは、養女、豪姫の妹、千世姫を推したのだ。

当時の秀吉配下としては、細川家よりはるか上に位置する前田家であり、破格の相手だった。

喜び感無量で迎える。


続いて、次男、(おき)(あき)(1584-1615)には斉藤氏・明智氏に繫がる西美濃三人衆として高名な氏家直元(卜全)の孫姫との結婚を決める。

(おき)(あき)には文人としての才があり、武将として名を成すより文芸の世界で生きて欲しかった。

何より、明智家につながる姫を迎え、明智家のために少しでも力を尽くし、復権に繋げたかったのだ。


父は、氏家行継。

近江国・伊勢国などに1万5千石の所領を得ていた。

(おき)(あき)は、丹波郡、竹野郡網野庄、和田野など1万5千石を得ていた忠興の弟、興元に養子入りしており、似合いだとされ、決まる。

思い通りの結婚相手でとても嬉しい。


この後、秀吉の死、関ヶ原の戦いと続き、子たちの結婚は、家康の了解や勧めによるものとなる。

それでも、次女、多羅姫(1588-)の結婚相手は決めることが出来た。

相手は、豊後臼杵五万石藩主、稲葉一通(1587-1641)。

美濃八幡4万石藩主、稲葉典通(1566-1626)の嫡男だ。

斉藤氏・明智氏に繫がる西美濃三人衆として高名な稲葉家の嫡流の家系だ。

信長に「文武兼備の将」と称えられた稲葉一鉄のひ孫になる。

徳川家光の乳母、春日の局は一徹の孫だ。

 

きっかけは、朝鮮の役で忠興が9番隊大将、豊臣秀勝に属し戦ったときだ。

9番隊、2万5千人を実質率いたのは忠興だった。

12万石藩主忠興には荷が重すぎるほどの大役だった。

秀吉の命令は絶対であり、必死で務めるが、資金が不足した。


そこで、秀次に支援を仰ぐ。

長姫の結婚以来、秀次と親密な付き合いが始まっていた。

秀次は喜んで資金を貸し出した。

忠興は実質大将としての役目を果たすことができた。


この時、稲葉典通も忠興に従い戦っていた。

稲葉典通の母は、斎藤道三の娘。

信長の妻、濃姫の父、道三と同じであり、濃姫とは兄・妹の関係だ。

稲葉典通の父、稲葉貞通は、母と死別後、信長の姉と結婚した。

典通の妻は、丹羽長秀の娘、定光院だ。


稲葉家は、道三・信長との縁が深く、秀吉とは同等だと思っていた。

そのため、信長が亡くなり、天下人、秀吉の時代が来ても、秀吉には頭を下げたくない思いがあった。

しかも、秀吉の織田家・丹羽家の処遇に不満が募った。

そんなこともあり、稲葉典通は、秀吉に従った九州攻めでの戦意のなさを追求され蟄居を命じられる。

 

まもなく、許され、豊臣秀勝に付けられ仕え、朝鮮に渡り戦うことになる。

秀吉への忠誠心を見せるよう命じられた。

ところが、大将、豊臣秀勝が朝鮮で亡くなった。

名誉挽回の働きを求められたのに、大将を亡くしてしまった。

死の責任を追求されると身を固くした。


忠興がすべての責任を取り、秀吉に対してうまく取り計らい、稲葉典通は、追求されなかった。

そして、忠興は、秀勝に代わって死に物狂いの戦いを始めた。

稲葉典通も従い奮闘した。

戦いの采配ぶりの素晴らしさ、秀吉との交渉の手腕に深く感心した。


次いで、稲葉典通は、秀次に仕えるよう命じられ、仕えたが、秀次謀反となる。

連座で罰せられる。

その時、助けたのも細川忠興。

秀次に仕えている時も、秀次と親しい忠興と出会うことが多く、朝鮮以来の親交をますます深めていた。


秀吉からの処罰を受けた時、忠興は心を込めて家康に稲葉典通への執り成しを頼んだ。

まもなく、秀吉に許される。

より一層、忠興を信奉していく。

 

稲葉家は京都公家との付き合いもあり、細川家との古くからの縁もあった。

数々の縁が重なり、典通嫡男、一通と忠興の姫との縁談の話が持ち上がる。

玉子も、父、明智家にも縁ある家系であり、喜んで受け入れた。

秀吉の了解のもと、一通11歳と多羅10歳が婚約する。


許された稲葉貞通は、次に、織田家嫡流を引き継いだ織田秀信に付けられた。

有力美濃衆として織田秀信に付けられ、従う。

ところが、すぐに、秀吉が亡くなった。

まもなく起きる関ヶ原の戦い。

織田秀信は西軍に与した。

配下の貞通であり、従うしかなかった。


その時、忠興から東軍に従うよう強く指示を受け、急遽、東軍に寝返る。

どうにか所領安堵され守ることが出来た。

忠興とともに、家康に臣従を誓い、子たちの結婚の許しを願う。

家康もよく理解しており、多羅姫との結婚を承諾。

細川家近くの領地への国替えを命じられ、1602年、結婚する。


ガラシャ玉子は、3人の子たちの結婚の道筋を創った。

そして、秀吉が忠興を評価しつつも、疑いの目を持っていると感じていた。

長姫の結婚には、秀吉から秀次の監視を命じられたのだと感じる。

忠興には、秀吉への忠誠心と共に、その先を見ているところがあり、秀吉は油断できない人物だと考えているようだ。

前田千世姫と利隆の結婚は、忠興を高く評価する現れであり、うれしい。

反面、忠興を早急に隠居させ、利隆を当主としようとしている意図を感じる。


秀次の謀反発覚の影響は、稲葉典通より、細川家に過酷だった。

連座を問われた長姫は、処刑を免れられない状況となる。

秀吉から長姫に出頭するように命令が出た。

玉子は、絶対に秀吉には引き渡さないと、長姫を味土野に隠した。

命に代えても長姫を守ると、忠興に宣言。


忠興は、筆頭家老、松井康之に命に代えても長姫を守るように命じる。

松井康之の奔走で、長姫は許される。

京に根を張る名門出身の松井康之の手腕と、家康の支えが大きかった。

長姫の命が守られ玉子は、感無量だ。

そして、婚家一族が、処罰され傷心の長姫に、キリスト教の教えを説く。

母を尊敬する長姫は、1596年洗礼を受け、以後、宗教に生きる。


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