⑤江戸城 (東京都千代田区千代田1−1)
⑤江戸城 (東京都千代田区千代田1−1)
江戸時代、将軍の居城であり天下の政庁だった江戸城。
始まりは、平安時代末期、江戸氏が居館を築いたときだ。
江戸氏を追い払った太田道灌が、1457年、城郭として築城し江戸城としての歴史が始まる。
■太田道灌、江戸城を創った英雄。
道灌は1432年、相模守護代、太田資清と正室、長尾景仲の娘との嫡男に生まれた。
生誕の地、鎌倉扇谷の屋敷跡に、4代後のお勝の方(家康側室)が、道灌を偲び、英勝寺を建立し、篤く弔った。
ここで、道灌とお勝の方の出世物語が完結する。
出世物語の始まりは、道灌が心を込めて築いた江戸城だ。
相模守護(神奈川県の大部分)・武蔵守護(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)は上杉氏だった。
道灌の祖父、長尾景仲は、白井長尾氏の当主で、山内上杉氏の筆頭家老・武蔵守護代だった。
嫡男は景信。
景信の嫡男が、景春。
白井長尾氏と上杉謙信の生家、越後守護代・越後長尾氏とは同族で婚姻関係も続き親しくしていた。
そして、道灌の父、太田資清は、長尾景仲の娘と結婚した。
道灌の父、太田資清は、山内上杉家の分家、扇谷上杉家の筆頭家老・相模守護代だ。
こうして、武蔵守護代を引き継いだ長尾景信と相模守護代を引き継いだ太田資清は義兄弟となり親しく付き合った。
上杉氏宗家が、山内上杉氏。
扇谷上杉氏は分家になる。
この明らかな違いがあることで、先々差が出て、戦いのもととなるが。
道灌は、幼少時から飛び抜けて賢かった。
飛びぬけた秀才が集まる関東最高の学問所、鎌倉五山の建長寺や足利学校で学ぶが、その中でも、他を寄せ付けない天才ぶりを発揮し、皆の羨望の的だった。
相模・武蔵は、室町幕府成立時から、鎌倉公方(後には古河公方)、足利氏を擁する派と幕府に代わり治める関東管領、上杉氏との勢力争いが続いていた。
1455年初め、鎌倉公方、足利成氏が関東管領、上杉憲忠を暗殺し、権力を握った。
ここから、関東を二分する28年間にも及ぶ戦い、享徳の乱が始まる。
関東管領、山内上杉家は、殺された憲忠の後継者を弟、房顕(1435-1466)とする。
そして、成氏討伐の軍を起こす。
幕府は房顕支援の為に、足利一門の今川範忠を起用した。
範忠は強く、上杉氏派と共に、成氏を破って鎌倉を制圧する。
道灌も名将の誉れ高い相模守護代の父、太田資清に従い、扇谷上杉家を率い戦う。
父から戦とは何かを学びながら。
上杉勢が勝ち、足利成氏は古河に敗走し、鎌倉公方は消滅した。
関東管領、上杉房顕は勢力を取り戻した。
1456年道灌は、家督を継ぎ、扇谷上杉家の筆頭家老・相模守護代となる。
足利成氏は「古河公方」として、巻き返しを図る。
扇谷上杉氏の軍事総責任者、道灌は、幾多の戦いに勝ち続け、優位に戦いを進める。
父譲りで戦いの采配も抜群で、軍学も極めた文武両道の天才武将だと名声が響く。
そこで、道灌は、戦略上の防御と攻撃の拠点が必要と、次々と要衝の地に城を築き、兵を配置する。
1457年、古賀公方の本拠、古河城に対峙するため、扇谷上杉氏の本拠として、川越城(埼玉県川越市)を築城。
扇谷上杉氏、上杉定正(1443-1494)に引き渡し、扇谷上杉氏の居城となる。
続いて、房総(千葉県)守護、千葉氏に対峙する為、利根川下流に城が必要だと考え、武蔵と下総の境、隅田川の河口に江戸城を築く。
かって秩父江戸氏の居館があった江戸桜田の高台を全面的に拡張改修して築く。
道灌25歳、関東制圧の拠点、江戸城が完成した。
得意満面で居城とする
江戸の持つ価値をよくわかっていたのだ。
以後、江戸城での活躍が目覚ましくなる。
道灌は江戸城内で上杉氏の軍備の増強と兵士の戦闘力の強化に取り組む。
「騎馬武者による一騎討ちの戦いは古い、集団での戦いに変える」と足軽の戦力化に重点を置く。
武士と農民の間だと軽く見られた足軽に、長槍・弓などの訓練をし、武士の心得も教える。
こうして足軽を主要な戦闘集団に変身させていく。
道灌の軍事力は質量共に飛躍的に拡大していく。
戦さの合間には学問の普及にも取り組む。
自らも、飽くなき学びの探求心があり、京から迎えた文人から古典や和歌や漢詩を学び、教養を深める。
連歌会、お茶会などよく催し、文武両道の鍛錬こそ武士に必要と、率先して遊び、楽しむ。
1466年、関東管領、山内上杉氏、房顕が亡くなる。
ここで、山内上杉家の筆頭家老・武蔵守護代、白井長尾家の景信(1413-1473)が動く。越後上杉家から上杉顕定を婿養子に迎え、後継とすると決めたのだ。
景信の妻は、越後を実質治める越後守護代、長尾頼景の娘だった。
越後守護代、長尾頼景が率いる越後上杉家、顕定を関東管領とすることで、白井長尾氏、景信の権力をより強大にすることができる。
多くの反対派を排除し、関東管領、山内上杉顕定を実現させた。
ここで、白井長尾氏、長尾景信も力を持つ。
翌1467年、扇谷上杉家を16歳の政真が継ぐ。
道灌は、政真から父親代わりと信頼されており、思う存分扇谷上杉家を率いる。
関東管領、上杉顕定に成り代わり、古河公方勢を討ち破り破竹の進撃を続ける。
ところが1473年、政真22歳で討ち死にした。
子はなかった。
扇谷上杉家嫡流は絶え、政真の叔父、定正を後継に迎えるしかなかった。
道灌は、定正も政真と同じように道灌を信頼し、思うがままの戦いができると考えていた。
だが、定正は政真とは違った。
道灌の思い通りにはさせず、当主として指揮権を持ちたいと考えた。
道灌の考えに、口出し、思うままにはさせず、しっくりいかない。
同年、顕定に「当主にした」と恩に着せ山内上杉家を思うがままに操った白井長尾氏、景信が亡くなる。
顕定は、大きな重しが取れ、大喜びだ。
覇権を確立する絶好の時だと考え、景信の嫡男、景春を筆頭家老とせず、言うことをよく聞く景信の弟、忠景を筆頭家老に任命した。
顕定に忠誠を誓う忠景に家老職を与え、景春を排除し、影響力を取り除こうとしたのだ。
景春は、父、景信の薫陶を受け、父以上に勇猛果敢な優れた武将となっていた。
顕定は「悪夢の再来になる」と恐れた。
しかし景春は筆頭家老の地位を叔父、忠景に取られ、顕定に裏切られたと深く恨んだ。
ついに、1476年、長尾景春の乱を起こす。
準備を整え、顕定に戦いを挑んだのだ。
道灌は「戦いを避けるべきで、景春をせめて武蔵国守護代にすべきだ」と、顕定に進言するが、拒否された。
道灌と景春は、従兄弟で長い付き合いがあり仲もよかった。
道灌は景春から熱心に誘われた。
だが、扇谷上杉家は山内上杉家に従う立場だ。
山内上杉家、顕定に戦いを挑むことはできず、断り、敵味方に別れる。
不本意ながらも、関東管領、顕定に従った。
景春は、劣勢の中並外れた才知を生かし、本来は敵方のはずの古河公方を味方につけ、反上杉氏の国人衆を巻き込み決起し、有利に戦いを進める。
1476年、ついに、越後から来たよそ者である顕定は、領民の支持を得られなくなる。
敗れ追われて上野国(群馬県)に逃げる。
ここで、道灌は、景春を倒す為の戦いの最前線に出ることになってしまう。
扇谷上杉家、筆頭家老、道灌が、関東管領、山内上杉家、顕定(1454-1510)に成り代わり、鮮やかな戦いぶりを繰り広げた。
顕定は不人気だったが、道灌は領民の支持されている英雄だ。
形勢は逆転した。
1480年、景春を追い払った。
こうして、1482年、顕定は、戻ることができた。
顕定は、あまりの道灌の強さに、感謝するどころか、恐れをなした。
関東管領、山内上杉家当主として、今まで戦ってきた古河公方と単独で和解してしまう。
主力になって戦った扇谷上杉家、上杉定正・道灌抜きの頭越しの和睦だった。
それでも、和議が成立し、長く続いた享徳の乱が終わった。
の考え通りの終焉ではなく、実質終わらせた道灌が無視されての和睦であり、道灌は納得できず、許せない。
追い出され能力のない山内上杉家、顕定が関東管領でいるのは、間違いだと考える。
そこで、主君、扇谷上杉氏当主、定正に、実力のある扇谷上杉氏、そして道灌が、先頭に立ち、関東の平定を目指すべきだと説く。
扇谷上杉氏当主、定正は、道灌の思うままに扇谷上杉氏が扱われると、納得できない。
それでも、道灌の力は圧倒的で、逆らえない。
道灌は、定正に「主力で戦った扇谷上杉家に対し、山内上杉家は、従うだけのただの分家扱いとしている。ここで、扇谷上杉家の力を見せなければ当主としての力を疑われる」とまで断言した。
そして、弱っている山内上杉家を徹底的に追い落とすよう勧める。
定正は、顕定を放逐する勢いのある道灌に押し切られる。
山内上杉家、顕定と扇谷上杉家、定正とは、一触即発の重苦しい雰囲気となる。
戦いの準備を終え道灌は、勝利を確信している。
道灌は山内上杉家を倒すと自信満々だった。
だが、定正はそれよりも前に道灌に追い出されると恐怖していく。
上杉顕定も事態の動きをよく見ている。
道灌と戦えば負けるのは明らかであり、何としても戦いは避けるべきだった。
生き残る道は調略しかないと、道灌が定正を亡き者にし、扇谷上杉家を乗っ取ろうとしているとの情報を流す。
道灌の偽情報がそこかしこに広がったのを確信して、おもむろに、かつ慎重に、上杉定正に和解の申し入れをする。
定正も自分の立場が揺らいでいると不安に陥っていた。
和議の話し合いは自分の立場を強くすると受け入れた。
上杉顕定は調略がうまくいくと確信した。
話し合いに応じた定正に対して、道灌の謀反の動きを詳細に知らせる。
長く道灌の存在を恐れ、嫌った定正は思い当たるところが多々あり、間違いないと顕定の言葉を信じた。
1486年夏、道灌は主君、定正に謀られ、だまし討ちに遭い、殺される。
道灌は予期しておらず、驕りと油断があり、討ち取られた。
遊び心にあふれ、人を食った独特の世界観で、皆を引きつけ魅了した道灌だった。
ただ、翻弄される凡人の中には、道灌の度量の大きさが理解できず、疑心暗鬼に陥ってしまうこともあった。
戦場でも、ユーモアあふれる歌を創り、温かい人情話が得意で、多くの伝説を作る。
露おかぬ かたもありけりゆふ立の 空よりひろき 武蔵野の原
武蔵野の地を愛した道灌の心意気だ。
道灌は刺客に槍で刺された。
その時、刺客は
かかる時さこそ命の惜しからめ と言った。
道灌は致命傷に少しもひるまず
かねてなき身と思い知らずば と詠んだ。
前々から死の覚悟がなければ、命が惜しいかもしれない。
だが、私は、戦に明け暮れ、いつでも死ぬ覚悟ができている。
それゆえ、こんなときでも命は惜しくないのだ。
苦しい死の瞬間も、自分の美意識を大切に、武将として生きた。
それでも、死の間際、道灌は、「当方滅亡」と叫んだ。
これで、扇谷上杉家は終わった。と言ったのだ。
その通りになる。
あまりにもかっこよすぎる人生だった。
道灌の急死以降、大田家は、勢力をなくし、苦しく厳しい状況の中続いた。
そして、中興の祖、お勝の方が現れた。
自力で家康の側室となり、実力を発揮し懐刀となり、駿府城の奥を任され、絶大な力を持つ。
勝の方が、大田家の復権を図る。
兄、太田重正の子、資宗を養子とし、秀忠に仕えさせた。
資宗は、お勝の方の後ろ盾で順調に出世する。
こうして、家光から幕府の要職を与えられる。
家光の意向に添い、成果を上げ、ついには大名となる。
大田家は、遠江国掛川藩5万石藩主となり、明治を迎える。
お勝の方は、英雄、道灌として、後世に伝わるよう、懸命に図った。
そのためもあり、出来すぎた逸話が残ることになる。
江戸城の女主になることを夢見たお勝の方だが、夢を果たすまでにはならなかった。
それでも、自身の逸話も多く創り、家康の側にお勝の方あり、彼女を通せば家康が動くとまで、言われるほどの実力者となった。