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㉝ 岡城(大分県竹田市大字竹田) 2

㉝ 岡城(大分県竹田市大字竹田) 2


■秀成と虎姫の子たち

(ひで)(しげ)・虎姫は、父の死、兄の死を冷静に判断した。

すると、秀吉への絶対的忠誠心を持つことはできなくなっていた。

 そんな時の秀吉の死であり冷静に判断した。

すると、家康を高く評価せざるを得ない。


(ひで)(しげ)・虎姫は豊臣恩顧の大名であることは疑いのない事実であり、中川家を守る力量を試されるとひしひし感じる。

まず虎姫は伏見屋敷を離れず、伏見で政務を執る家康に忠誠心を見せると決めた。

すぐに、(ひで)(しげ)への家康方、東軍となるようにとの働きかけが、黒田如水(黒田官兵衛)からあった。

秀成の姉、糸姫のかっての嫁ぎ先、池田家からも強く申し入れがあった。

摂津国の国人、中川家には、黒田家も池田家も同郷の旧知の仲だ。


糸姫は、池田輝政の妻だったが、秀吉により離縁させられた。

そして、輝政は、家康の娘婿となった。

妻の座は奪われたが、池田家嫡男の母は糸姫であり、付き合いは続く。

糸姫は中川屋敷に戻り、虎姫と同じ屋敷に住み、親しい仲となっていく。

糸姫・虎姫は、共に中川家の外交を担う。


(ひで)(しげ)は、官兵衛に家康への臣従を約す。

だが、(ひで)(しげ)は、秀吉側近であったため石田三成・山口宗永と親しく行動を共にしており従わざるを得ない。

その為、秀頼の大坂城入りに従い、虎姫らも三成の指示で大坂屋敷に移る。

(ひで)(しげ)は、戦いや城普請では、加藤清正・黒田官兵衛に教えられることが多く、彼らへの親近感が強く、彼らとの縁でも、家康支持を決めていたが、表立っては動けなかった。


関ヶ原の戦いでは、家臣を西軍方丹後田辺城攻めに派遣せざるを得なかった。ただ、(ひで)(しげ)は動かなかった。

精一杯の家康臣従への意思表示だった。

そして、関ヶ原の東軍勝利の報を聞くと、急遽、東軍の旗を上げる。

国元では、重臣、田原紹(しょう)(にん)と宗像掃部が「大友義統勢に合流します」と、(ひで)(しげ)にいとまごいをして去っていた。


大友家当主、(よし)(むね)は石田三成から大友氏再興を保障され共に戦うと決めたのだ。

西軍に呼応して旧臣を呼び集め戦いを始めた。

大友義(よし)(むね)が朝鮮の役での失態で改易された後、(ひで)(しげ)は秀吉から大友家重臣、田原紹(しょう)(にん)と宗像掃部を与力として預かった。


田原紹(しょう)(にん)の母方は、大友一族で家老の家柄だ。

宗像掃部は、(よし)(むね)の重臣だった。

二人は、岡藩領を良く知っており、新領主、(ひで)(しげ)の為に良く協力した。

(ひで)(しげ)も信頼し、中川家重臣として迎えた。


田原紹(しょう)(にん)と宗像掃部が西軍、大友義(よし)(むね)勢に加わり、(ひで)(しげ)も西軍と看做されるのは明らかだ。

やはり、加藤清正・黒田如水(黒田官兵衛)は、中川氏を攻めるよう家康の命令を受けたと知らせてきた。

(ひで)(しげ)は、あわてて家康・黒田如水(黒田官兵衛)に弁明の使者を送り、加藤清正に人質を出し、潔白を証明するが、答えはない。


それでも、(ひで)(しげ)の真意がわかっていた黒田如水(黒田官兵衛)・加藤清正は、家康に対し周囲に西軍が多く手一杯だと釈明し、中川攻めを後回しにしてくれた。

その配慮に感謝し(ひで)(しげ)は、疑いを晴らすため東軍として戦い成果を上げると決意。

どう戦えばばよいか思案していた時、田原紹(しょう)(にん)が許しを求め戻ってきた。


田原紹(しょう)(にん)が、船奉行、柴山勘兵衛重成(柴山両賀重祐の娘婿養子)を頼り逃げてきたのだ。

大友義(よし)(むね)が黒田官兵衛に降伏し田原紹(しょう)(にん)は居り場をなくしたためだった。

ここで、(ひで)(しげ)は、臼杵城攻略を決めた。

西軍に属したと看做された臼杵城(大分県臼杵市)太田一吉を攻め落とすのだ。


(ひで)(しげ)は、田原紹(しょう)(にん)に、臼杵城攻めに先陣切ることで再び召抱えたいと伝えた。

田原紹(しょう)(にん)は多くの一族郎党を抱え、地形に詳しく勝てる自信があり承諾する。

そして、戦いの先陣切って、臼杵城に突撃する。

城主、太田一吉は関ヶ原の戦いで病気と称して動かず、嫡男、太田一成を西軍に派遣し、甥、太田政成を東軍に派遣し、家名の存続に腐心していた。

黒田如水(黒田官兵衛)と親しく、その誘いで家康に臣従する約束はしていたが。

石田三成と親しかったゆえ、自らは動けなかった。

(ひで)(しげ)と同じ状態だった。


国元では、黒田如水(官兵衛)が九州を平定する勢いで、周辺に攻め込む体制を作っていく。

中川家への侵攻も決めていた。

家康臣従の意志は示していたが、優柔不断だった太田一吉も、攻め込まれそうになる。


太田一吉も慌てるが、すぐに、官兵衛に降伏した。

官兵衛ならうまく家康に取り次いでくれ、処罰は軽いはずだと考えていた。

そこに、中川勢が攻めてきたのだ。

驚き、どうすべきか悩み、官兵衛に取次ぎを懇請する。

官兵衛も太田一吉の考えはよく分かっており、(ひで)(しげ)に攻撃中止を命じた。


(ひで)(しげ)は、官兵衛が中川家を守るとは信じていない。

味方を表明していたのに兵を送ると脅してきた事実は許せない。

官兵衛は、(ひで)(しげ)より太田一吉と親しい。

このままでは、太田一吉の味方になり、中川家は潰されると確信した。


官兵衛ではなく家康に忠誠心を見せなければ改易だと覚悟を決めた。

官兵衛の命令に動じることなく、進撃する。

太田一吉は6万5千石臼杵城主であり、三成との親しい縁で秀吉直轄領10万石の代官でもあり、(ひで)(しげ)より経済力でも軍事力でも上だった。

太田一吉が受けて立ち、戦ってくれることを祈った。


太田一吉は、ゆえなき戦いで戦いたくなかった。

だが、一方的に襲われたのだ、降伏するのをためらった。

(ひで)(しげ)より軍事力では勝っている自信があり戦いに応じてしまう。

佐賀関(大分県大分市佐賀関)の戦いが始まった。

(ひで)(しげ)筆頭家老、中川平右衛門尉長祐・田原紹(しょう)(にん)・柴山両賀ら重臣が多数戦死する激戦が始まる。

戦死負傷者が多数続出したが、中川家の存亡がかかっていると、ひるまず、猛烈に戦った。


太田一吉は、殺気迫る(ひで)(しげ)を討ち倒せない。

中川勢も攻め落とせない。

時勢を見て、官兵衛に従うことを表明しており、許されると信じた太田一吉は降伏するとの意思を伝えてきた。

この申し出を待っていた(ひで)(しげ)は官兵衛に「臼杵城を受け取って欲しい」と東軍として戦ったことを誇らしげに伝え願う。

官兵衛は、複雑な思いながらも城を受け取り、(ひで)(しげ)は勝利した。


こうして、(ひで)(しげ)は徳川家康からの疑いを晴らし、本領を安堵。

太田一吉は改易。

紙一重の差で、幸運・不運があった。

黒田如水(黒田官兵衛)が、この機に乗じて、九州を我が領地とする野望に燃え、従った武将が多く、混乱したのだ。

官兵衛は家康にその野望を追及され、身を固くして口をつぐんだ。


(ひで)(しげ)は、所領安堵されたが、それでも、積極的には家康支持を表明せず、重臣が大友氏を支援したとみられており、西軍関与の疑いを払拭しきれない。

そこで、虎姫と糸姫の出番となる。

池田輝政に潔白を強く表明し、家康に伝えるよう願った。

これらの動きがあって、岡藩の西軍関与は追求されなくなる。


その後も、虎姫は、伏見屋敷にあって、家康に認められ再興した佐久間一族や織田家に縁のある尾張衆に繋がる大名家とのつきあいをこなす。

(ひで)(しげ)は、豊臣恩顧の烙印が押されており、あまり表には出ず、岡藩の内政を固めることを主に、藩主としての力量を示すことに比重を置く。


(ひで)(しげ)と虎姫は「できるだけ早く、久盛に家督を引き継がせ隠居する」と決め、豊臣色を薄めつつ、力を合わせて家康に仕え、岡藩を守っていく。

2人の絆はますます深まった。

長女、稍々は夭折し。

嫡男、久盛は元気で成長している。

続いて、次女、小石が生まれるもまた夭折。落ち込んだ。

そして、スケ姫が元気に生まれた。歓喜の涙を流す。

ここから家康の時代になり、小吉・大蔵と生まれる夭折。

子をあきらめる。


虎姫(1574-1610)は、国元へは行かず、岡藩の京・大坂屋敷に住み続けた。

当初は、秀吉の命令であり人質だったが、家康の時代となっても、変わらず、家康に忠誠を尽くす証として人質で有り続けた。

そして、人質であることを、有効活用する。


長い間に培った人脈は、天下分け目の戦い後の岡藩安堵の為に、価値があった。

家康への忠誠心が認められていく。

久盛・スケ姫が成長し、二人に良き結婚相手を見つけることで、中川家の安泰を図る。

今では、正々堂々と、佐久間家に縁ある人との繋がりを強めていた。

佐久間家を引き継ぐ一人として父母の思いを後世に残す責任を果たしたい。

そして、徳川家とのつながりを深めたい。


同時に、岡藩にとって大切な人たちへの恩も返したい。

山口家への思い入れが深かった。

(ひで)(しげ)(1570-1612)は、岡藩主となることを勧めてくれた山口宗永(1545-1600)を父とも思い信頼した。

だが、西軍に属し、加賀国大聖寺城主として前田勢と戦い戦死。

山口家は、改易だ。


同族の山口重勝(1547-1595)は、尾張寺部(名古屋市南区)城主だった。

秀吉に仕え、次いで、秀次の家老となり、秀次事件に連座して自害した。

重勝は、いとこ、重政(重勝の兄の子)を養子に迎え後継とした。


重政(1565-1635)は、追放された信長筆頭家老、佐久間信盛に最後まで従った忠臣だった。

次いで、信盛の嫡男、正勝に従い織田信雄に仕えた。

信雄が改易となっても最後まで従った。

その忠臣ぶりを認めた徳川秀忠に召抱えられ旗本となっていた。


そこで、虎姫(1564-1610)は、佐久間家縁者として山口重政と付き合った。

山口重勝(1547-1595)の娘は、水野分(わけ)(なが)に嫁いでいた。

尾張国小河(知多郡東浦町緒川)水野家と尾張国愛知郡御器所(ごきそ)(名古屋市昭和区御器所)佐久間本家は、近隣の有力国人で競合したが、縁戚も続き、深く長い縁もあった。

水野家は、家康の母、お大の方の実家であり、家康の一門となっている。

その中での結婚だ。

二人の間に、水野元綱(1601—1665)が生まれた。


そこで、スケ姫と水野元綱との結婚が、外様大名として分相応であり、徳川家との縁を深めることになると判断する。

三河新城藩(しんしろはん)(愛知県新城市)1万石藩主となる水野元綱とスケ姫の結婚を願い、実現させた。


水野家との繋がりが出来ると、いよいよ、家康ゆかりの姫を嫡男、久盛に迎える為に動く。

スケ姫の結婚もこのためだ。

狙いは、岡藩主となる久盛に家康の養女を迎えることだ。

これしか、岡藩安泰に繋がる道はないと確信していた。


家康は、異父弟妹の子らを養女とし結婚させている。

スケ姫や縁者をたどると、土佐20万石藩主、山内忠義と結婚した阿姫の妹姫、紀為君が久盛に、似合いだった。

迎えるべき姫が見つかり、胸が高鳴った。


松平定勝の母、お大の方と娘婿、水野元綱の父、分長の父、忠分は、姉弟だ。

中川久盛は、紀為君のまたいとこでもあるのだ。

妹婿、水野元綱と紀為君がまたいとこだから。


家康異父弟、伊勢桑名藩主 松平定勝3女、紀為君と久盛の結婚に向けて力を集中する。

池田家・水野家・縁ある旗本家を総動員し、結婚に向けての取り次ぎを頼む。

こうして、結婚が決まる。

嫡男、久清は、家康の娘(養女)婿となる。


子を生むには高齢となった虎姫だが、2人では少ない。

佐久間家との縁をつなげたい強い想いがあり、まだまだ子がほしい。

だが、次男・3男と生まれたが、夭折。

悲しくて情けなくて、どうすればいいか悩むが、授かる限り生むと決意。


すると奇跡が起きたように4男、佐久間勝成(内記)を授かる。

1610年、虎姫は、末っ子、五男、内記勝成を生む。

虎姫の必死の願い通り元気に生まれた。

7人の子宝を得て、育ったのは3人だけだったが。


中川家安泰の為に懸命に働いた虎姫は、体力が落ちていた。

それでも、人生最後の仕上げとなると心に秘めていた決意を話す。

「生まれてくる子に佐久間姓を名乗らせ中川家重臣として取り立てて欲しい」と。

(ひで)(しげ)は虎姫の手を握り締め約束した。

虎姫は、内記勝成を生んだ翌日、伏見屋敷で亡くなる。


虎姫の身体には出産は重すぎた。

誕生を喜び、最後の願いをすると、(ひで)(しげ)と最後まで愛し合い睦まじく過ごせたことが幸せだったと言い残す。

秀成との間に七人の子を産み、46歳で亡くなる。

(ひで)(しげ)は、中川家の後継に代々佐久間の久の名を継がせると虎姫にそっとつぶやく。

(ひで)(しげ)にとっていくら褒めても褒めつくせないほど素晴しい才のある伴侶だった。


この間、家康が伏見を去り、外様大名の江戸詰めが当然となっていた。

虎姫は出産後、江戸行きを決めていたが、亡くなり実現できなかった。

その為、中川家は豊臣寄りだと看做された。

家康と豊臣家の間は、亀裂が深まっていく。

(ひで)(しげ)も、中川家を守るため、何をすべきか思い悩む。

唯一の希望は、久盛と家康娘とが結婚し、江戸詰めとすることだった。


ようやく、久盛は、結婚し家康の娘婿となり、江戸に住まう。

(ひで)(しげ)は、すべきことは終わったと、安堵する。

久盛に「何が起ころうとも幕府第一の姿勢を貫くように」ときつく命じる。

虎姫の死から2年後、1612年、中川秀(ひで)(しげ)(1570-1612)。

(ひで)(しげ)の母、やや姫(1546-1612)

が続けて亡くなる。

大坂の陣を前に、豊臣系大名藩主が数多く亡くなっていく時だった。

(ひで)(しげ)も豊臣家の存続を願っており、幕府の意向に沿う悲劇だった。


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