㉝ 岡城(大分県竹田市大字竹田) 1
㉝ 岡城(大分県竹田市大字竹田) 1
標高325m、比高95mの天神山城に築かれた岡城。
築城域は、東西2500m、南北362m、総面積は23万4千㎡と巨大だ。
一目で圧倒されてしまう壮大な景観を持つ。
1185年、宇佐神宮の荘園を管理支配する緒方惟義は、平家方だった。
ところが裏切り源氏に従い、九州の武将を源氏方とすべく奮闘、功績を残した。
続いて源頼朝に追われた源義経を、迎え庇い、献上したいと岡城を築城した。
志半ばで、義経は殺され、緒方惟義は捕らえられ、流罪となる。
岡城は、源義経のための城だ。
時を経て南北朝の時代となり1334年、大友一族、志賀貞朝が城主となる
志賀貞朝は、後醍醐天皇を奉じ、南朝の拠点とすべく拡張し、城名を岡城とした。
以後、志賀氏が、岡城を任される。
そして又時を経て、戦国時代の城主、志賀親次は、島津氏侵攻に対峙していく。
島津氏は、強敵だが、屈せず、毅然として戦い抜いた。
島津氏に追い詰められた大友氏が頼った秀吉。
秀吉の援軍が到着するまで、志賀氏は守った。
秀吉は、戦いぶりを絶賛した。
だが、1593年、大友氏はあっけなく改易、岡城引き渡しを命じられた。
あまりに惨い秀吉の裁定と嘆いたが、どうすることもできず、秀吉に引き渡す。
■中川秀成と虎姫
秀吉が岡城を与えたのが、中川秀成。
翌、1594年、播磨国三木から国替えで岡城に入る。
中川秀成は予期しなかったことが次々起こり、混乱していた中で得た城だった。
中川家の嫡男は、兄、秀政(1568-1592)だった。
信長が優秀だと認めた御曹司だ。
ところが、中川家の期待を一身に受けていた秀政が朝鮮の役で24歳で亡くなる。
そこで秀吉は次男、中川秀成(1570-1612)22歳に家督を継ぐよう命じた。
秀成は、幼い時から次男として、嫡男の兄とは明らかに差をつけられて育った。その上、兄が信長の娘婿と決まったのだ。
家中は皆兄を仰ぎ見て、秀成は居ても居なくても良い存在だと軽く扱われた。
それでも、信長が亡くなり、秀成の父、清秀が、1583年、非業の死を遂げ、情勢は変わっていく。
父の死後、秀成は秀吉小姓となり側近くで仕えるようになる。
秀成は家中での存在が薄いこともあり、懸命に秀吉に仕え、気に入られた。
主君、秀吉の一挙主一動を見つめ学び、武将としての力をつけていく。
成長と共に父、清秀の死の経緯を知り、納得できず、秀吉の関与を疑う。
ただ、秀吉の柴田勢を壊滅させる戦略は理解できた。
秀吉の采配ぶりに感動することが多く、父の死はやむを得なかったと思う。
主君は秀吉であり偉大な名将だと心酔し、仕えることに喜びを感じる。
父の死後、1584年、秀成は秀吉から佐久間盛政(1554-1583)の娘、虎姫(1574-1610)との結婚を申し渡された。
その時は戸惑った。
佐久間盛政は父、清秀を討ち果たした悪人だと、家中の皆が憎んでいたからだ。
特に一族の多くを亡くした家老、熊田家にはどうしても許せない存在であり、家中は秀吉の命令は余りに惨いと騒いだ。
秀成も秀吉の意図を図りかねたが、秀吉の天下となった以上、かっての敵も含め、秀吉に忠誠を尽くすよう努めるのが務めと自然に受け入れる。
熊田家を実家とする母、やや姫が諭し、納得したのだ。
中川家、大坂屋敷で結婚式を挙げる。
秀成は、興味津々で名将の血筋を受け継ぐ虎姫を迎える。
虎姫の父、加賀金沢城主、佐久間盛政は、柴田勝家の妹を母とし、勝家第一の臣であり、賎ヶ岳の戦いの主力だった。
盛政は中川清秀を討ち取ったが、柴田勢は敗れ、捕らえられた。
秀吉は「殺すには惜しい武将だ。召抱える」と申し出たが、盛政は毅然として断わり、殺された。
価値ある敵将と見込まれて、許されるのは珍しくない。
その後の戦いの、重要な戦力となるからだ。
だが、佐久間盛政は、敗者として断罪された。
その娘、虎姫は、佐久間盛政の妹の嫁ぎ先、新庄直頼(1538-1613)の養女となり、佐久間姓を捨てるしかなかった。
新庄直頼は秀吉の譜代の臣だ。
虎姫は、新庄直頼の娘として結婚することになる。
秀成は、勇猛な武将、佐久間盛政に個人的恨みはなかった。
父を亡くし実家を失い、心細く生きた虎姫と自分の境遇は重なると感じた。
その思いは虎姫に通じた。
結婚後、共通の価値観、相手を思いやる心情を知り、仲睦まじく暮らす。
家中には虎姫を敵視する目があった。
その為、秀成は、中川家家臣として兄に仕え、密やかで控えめな結婚生活を送る。
ところが、兄の死で思いもしなかった播磨国三木6万6千石藩主になる。
運命の不思議と責任の重さを感じ、虎姫に信じられなくて、どうすればいいかわからない状態だと話す。
6歳年上の虎姫は、動じることなく、名君になると励ます。
母、やや姫も「秀政亡き今、中川家の将来は非常に不安定です。家中いかなる思いがあろうとも、今は秀吉殿の元、秀成を守り立てるよう。また、秀成の妻は虎姫です。秀成と同じように仕えるよう」と4家老家に厳しく命じる。
ここから虎姫は、藩主の妻として公の場に出るようになる。
秀吉は、隠居城、伏見城を築き、秀成・虎姫も城下の屋敷に住まう。
待望の長女が誕生するも夭折。
1594年、ようやく嫡男、中川久盛(1594-1653)が元気に誕生。
虎姫30歳、子の誕生をあきらめた時もあったが、ようやく役目を果たした安堵感で涙を溢れさす。
6歳も年上であり、家中が子の誕生を危ぶんでいたが、その重圧を跳ね返した。
やや姫も喜び虎姫を見舞い褒めた。
過去はどうであっても、今は可愛い嫁だ。
秀成は兄に代わり、朝鮮に出陣し、果敢に戦う。
兄の二の舞にならないよう慎重の上にも慎重に戦った。
秀吉は秀成の戦ぶりを褒めた。
こうして、秀吉側近の一人となり朝鮮に近い九州への国替えを命じられたのだ。
秀吉は秀成に国替え命じた時、幾つか候補地を挙げた。
秀成は、先輩、山口宗永に相談し、その勧めで、豊後国岡藩への国替えを願った。
太閤検地で豊後国を検地中だった山口宗永(1545-1600)とは、秀吉の小姓となって以来、何かと相談する信頼できる同僚で先輩だった。
秀吉の思いは豊後国岡藩だと、共に確信したこともある。
宗永は、山城国葛野郡(京都市)下山田で生まれ、綴喜郡宇治田原城主、山口秀景(-1583)に養子入りし継いだ。
山口秀景は、周防の覇者、大内氏の縁戚になる。
大内氏は、かって岡藩領地を含む豊後国を支配した大友氏と縁戚だった。
その縁もあり、山口宗永は豊後国検地を任された。
そして、秀成に岡藩の良さを語ったのだ。
秀吉は、了解し久盛の誕生を喜び、朝鮮での秀成の戦いは見事だったと、加増し岡藩7万石を与えた。
中川家中、総勢4千人を引きつれての国替えが始まる。
都から離れる寂しさはあったが、秀成は虎姫に「ようやく父・兄とは違う藩主としての力を見せる時が来た」と胸を弾ませて話した。
虎姫も「ねね様・茶々様に尽くし、伏見屋敷を守ります。存分に働いてください」と微笑む。
秀成は、国元に入り、旧領主、志賀氏の館を仮の住居とし、築城の陣頭指揮する。
虎姫と秀成は、伏見屋敷と国元、岡城と離れ離れとなる。
それでも秀成と虎姫は、お互いを信頼し、固く結ばれていた。
秀吉は、中川清秀の敵将、佐久間盛政の娘、虎姫と秀成を結婚させ武将としての器を試したが、秀成は、秀吉の期待に見事に応え、虎姫と睦まじかった。
その上、兄、秀政を亡くし動揺する中川家の内政もうまく収めることができた。
虎姫と秀成は、秀吉政権下で認められ岡藩を得たと、嬉しくうなづき合う。
中川家は源氏の流れであり、権力闘争の激しい摂津で戦い、勢力を保ち続いた。
その間、兄弟親子が相争うことも多くあった。
近しい縁戚との戦いでも、ゆえある戦いならばやむを得ないという考えだ。
戦いの後、根に持つことはない。
佐久間宗家は信長一番家老の家柄で、盛政の家系は信長弟、信行の家老だった。
織田家の譜代の重臣の家柄だ。
その後、悲運が続くが虎姫は岡藩主の妻に相応しい出身だと誇りを持ち続けた。
父、盛政の弟、安政・勝政は、秀吉に許され家臣となり、価値ある武将として仕えている。
佐久間家復権は実現している。
秀成も、同じ考えで、嫡男が元服する時、久盛を名乗らせている。
義父、佐久間盛政から取った名だ。
秀成が佐久間家を尊敬し、虎姫を慈しんだ結果で、虎姫は嬉しそうに微笑んだ。
秀成は、嫡男を得て、愛する虎姫に認められる夫でありたいと、藩政に掛ける思いを話す。
摂津・播磨と都近くに生まれ育った経験を活かし、都にも負けない領民が豊かに暮らせる城と城下を創るのだと。
虎姫は、京屋敷で、秀吉・ねねに仕え良い関係を築き、中川家・佐久間家に繋がる人脈との付き合いを深め、中川家に尽くすと決めた。
意を理解し実行力のある丸山籐左衛門を奉行とし、城と城下町づくりを始める。
秀吉が築いた聚楽第、伏見城を倣い、京都風の町造りとし、東西五条、南北五条の町並みを作るという壮大な岡藩の城下町作りが始まる。
城下町に、播州、摂津の商家を移していく。
また、岡城は周囲に山丘や谷が錯綜して城と城下町が離れているように見える。
それではいけないと、城と城下町の一体化を進める。
城は領民が身近に崇められる象徴でなければならないからだ。
天神社のある山を切り開き、さらに岡村(西の丸付近)まで城下と城を繋げ、一体感を持たせる普請も始める。
多種多様で広大な石垣を築き、城下町まで繋いでいく。
安土城の石垣作りで名を馳せ高い技術を持つ石工、穴太衆を呼び寄せる。
穴太伊豆を石引奉行とし、権限と財源を与え、縄張、普請を任せる。
築城には、堺商人で岡藩士となった柴山両賀が多大な金銭支援をし力を奮った。
柴山両賀は将軍、足利義昭の側近だったが、義昭が信長と対立し追放となると浪人となった。
やむなく、堺に移り、船を持ち、交易に従事した。
秀吉は交易を重視しており、目の付け所がよかった。
商いは飛躍的に伸び、名護屋城築城が始まると、益々繁盛し財をなした。
中川家とも商取引をしている。
柴山両賀は、朝鮮の役での中川家の不運、その後の秀成の戦いぶりを知っていた。
岡城築城にかける並々ならない意気込みと、優秀な家臣を求めていることを知り、運命を感じた。
そこで、莫大な財を持って、秀成の元に参上し、召抱えられたのだ。
秀成は、岡城完成の使命と運命を感じた。
1596年、秀成のすべてをかけて築いた、岡城が完成。
秀成は、領内の統治に細心の気配りをしながら、支配体制を固めていく。
大友氏が長く治めていた地であり、領民は旧主への思いが強いからだ。
大友氏を改易した秀吉、新藩主、秀成に対し反発があった。
検地は、山口宗永が終えていたが、年貢を具体的に決める為、旧臣を登用。
旧体制下の庄屋・名主を積極的に呼び集め藩政への思いを伝える。
こうして、年貢明細を作ろうとした。
だが、皆すんなりとは応じない。
島津勢との戦いで古帳簿は焼かれた。
大友氏改易の際の混乱で紛失した。
とか理由をつけては手持ちの資料を提出するのを拒むものが続出した。
歴戦の勇士であり、岡藩を力で勝ち取り名君たらんと必死で努力する秀成だ。
引き下がれない。
片ヶ瀬に陣を張り、領内の不穏な動きに睨みを効かせつつ、自ら先頭となって城下町の建設を始める。
ここで大友氏旧臣だが隠棲していた下片ヶ瀬の由布九郎左衛門を見つける。
行政手腕と人望の厚さを聞いており、召し抱えたかった。
由布九郎左衛門を呼び出し、対面し、話し合う。
まず、庄屋に任命し権限を与え、要望を最大限聞くと説得した。
由布九郎左衛門は、了解し働き始める。
由布九郎左衛門は領民の意見を聞きつつ、藩主、中川氏に対する反感を払拭する事に努め成果を挙げていく。
秀成は、由布九郎左衛門を重用し、権限を与えていく。
秀成は協力するならば、以前の地位を保全し、後悔させないと言明し、新たな登用を始め、旧臣を配下に置いていく。
一方、抵抗を続ける村には、張りつけ柱を立て、年貢帖を提出しない村は磔に処すと恫喝。
こうして、領内すべての年貢を掌握。
まもなく、秀吉が亡くなる。




