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㉜ 府内城(大分県大分市) 

㉜ 府内城(大分県大分市) 

  

古代、大分川の少し上流の上野丘陵に豊後国国司が政治を司る役所を築いた。

鎌倉から戦国時代、豊後・筑後守護、大友氏が守護館とし整え、府内と呼ばれた。

時が過ぎ、1593年、秀吉は、大友氏、大友義統を改易。

1594年、 武田一族、早川長政を代官として府内に入れた。

次いで、1597年、 石田三成の妹婿、福原直高に府内12万石を与えた。


福原直高は、新たに、府内の大分川河口付近、荷落(におち)荷揚(にあげ)に名を変更)に、秀吉の威光を示す堅固な近世城郭の築城を始め居城とする。

約2年の築城で、本丸・二の丸・三の丸まで築いた。

そして、関ヶ原の戦いとなり、西軍に属したと福原直高は改易。


福原直高は、秀吉に倒された播磨守護、赤松氏の一族。

秀吉に従い、小姓頭衆の1人となり、頭角を現し馬廻衆となる。

1587年、島津攻めの戦いで、手柄をたてた。

次いで、北野大茶湯の奉行を務める。

1592年、文禄の役には肥前国名護屋城の二の丸を守備した。

1593年、太閤蔵入地の播磨国三木郡(旧中川秀政領)の代官となる。


この頃、三成の妹婿となり、三成に献身的に仕える。

三成の後ろ盾を得て出世していく。

1594年、伏見城普請を担う。

但馬国豊岡城2万石を得て、翌年には1万石加増。

1597年、豊後国大分郡、速見郡、玖珠郡の3郡を加増され、併せて12万石にまでなる。


慶長の役で軍監として朝鮮に渡る。

そこで、蜂須賀家政、黒田長政、毛利高政、早川長政、竹中重隆の軍令違反を秀吉に厳しく報告し、文治派と武断派の決裂を決定的とする。

任務を忠実にこなしただけだが、状況の見極めが甘かった。

1598年、秀吉の死により、形見として国俊の太刀を賜り、秀頼に仕える。

秀吉の信頼は厚かったが、秀吉股肱の臣から憎まれた。


1599年、三成が失脚すると三成と同じ運命となり、府内を取り上げられる。

1600年、関ヶ原の戦いで西軍に属し、垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子らとともに大垣城の守備大将となる。

西軍主力が敗北し、大垣城内でも裏切りが続くが、三成に尽くし、本丸に立て籠もって抵抗した。

だが、城兵が離散し戦えず、和議を結び開城。

出家して蟄居謹慎と言われ開城したが、三成との関係の深さを責められ許されず切腹だ。


1601年、東軍で戦った竹中重利が3万5千石(2万石)で入城する。

ここで、城の大改修が始まる。

天守、諸櫓、山里曲輪、内堀を普請し、続いて 外堀を築く。

1607年、 笠和口、堀川口、塩九升口の各門を築くと、現在の形状となる大改修がおおむね、終了。

府内城と呼ばれる。


竹中重利は、軍師、竹中半兵衛のいとこ(父親が兄弟)だ。

竹中半兵衛の妹と結婚しており、義弟でもある。

竹中半兵衛に仕えていたが、半兵衛死後、秀吉直臣となる。

実質、竹中家を背負うことになり、秀吉に忠誠を尽くす。

豊後国国東郡高田で1万3千石を得て、大名となる。

その上、朝鮮の役では、軍目付に抜擢される。


また、秀次にも仕え、信頼され、弟、重定の娘、お長の方を養女格で、秀次に仕えさせる。

お長の方は、竹中家を背負い、一心に秀次に仕えた。

そして、愛され、側室となり、土丸を生む。

軍師、半兵衛にはとてもかなわないが、秀次の男子の実家として、重定は、竹中家最高の時を迎える。


だが、その時はあまりに短く、秀次が謀反の罪に問われた時、連座を疑われる。

この時、家康が庇い助けられた。

家康の庇護で竹中家があると深く恩にきて、以後、家康と親しい関係を築き、嫡男、重義を秀忠に仕えさせた。


秀吉死後の天下分け目の戦いでは、家康に従う意志を持ちながらも、三成との縁を切ることはできず、西軍に属さざるを得ず、丹後田辺城攻めに加わった。

それでも、親しかった黒田官兵衛に誘われ、国元で東軍として戦った。

その功を認められ、天下分け目の戦いで生き残り、所領安堵で逃げ切った。

1615年、53歳で亡くなる。


後を継いだのは、重義。

竹中半兵衛の孫でもある。

幼い頃から、将軍、秀忠に仕え、忠義を認められていた重義は、1623年、秀忠のいとこ、松平忠直を預けられる。


秀忠が、越前国北ノ庄(福井)藩主、忠直の不行状を許さず、隠居を命じ、配流先を府内城に決めたのだ。

将軍、秀忠の兄、秀康の嫡男であり、大藩の藩主であった忠直だ。

一定の配慮が必要な難しい役目だった。


重義は張り切る。

将軍の甥で、名誉も力もあった大藩の藩主を預けるに足るとみなされたのだから。

忠直には5千石の隠居料が与えられ、重義の裁量に任せられる。

竹中重義は、細心の注意で、忠直が満足できる環境を整え、思い通りに過ごせるよう、調度品・従者などを整える。

そして、煮えたぎる怒りに溢れていた忠直に誠心誠意尽くす。

次第に忠直は落ち着いていく。


一時、秀忠は忠直派との戦いも覚悟したが、うまく抑えた重義の働きを褒めた。

その功で、1629年、長崎奉行に任じる。

長崎奉行は、多くの金が動く、面白い仕事だった。

重義も、多額の利益を得る。


同時に、キリシタン弾圧の役目も負う。

秀忠の為、幕府の為に、多くの拷問法を考案する。

そして、キリシタンを殉教や棄教に追い込む過酷な拷問を続ける。

信徒にとって屈辱的な「踏絵」を初めて行った。

長崎の人々にとって、許容できないほど惨い拷問だった。


1632年、秀忠が亡くなり、家光が完全に権力を握る。

家光と秀忠の折り合いは悪かった。

家光は、秀忠の政策を一掃し、家光らしい将軍としての治世目指す。

そこで、鎖国令を出す。


秀忠に近かった長崎奉行、竹中重義を替え、秀忠色を一掃させると決めた。

自ら定めた鎖国令の効果を高めるためだ。

すると、重義の汚職・不正・密貿易などなど、糾弾する罪状が次々出てくる。

そこには、松井松平家から嫁いだ重義の妻の存在が見え隠れする。

妻の父、松平康重は、家康の子と言われ、家康に絶対忠誠を誓い、異例の出世を成し遂げた。

義父として、竹中家の詳細を掴むことは容易かった。

秀忠より家光に仕えることに喜びを見出しており、長崎奉行の行状をよく調べた。

その結果は重義にむごいものとなった。


1633年、重義は、長崎奉行職を罷免、厳罰に処された。

1634年、嫡男、源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪だ。

こうして、嫡流ではない竹中家分家だが、竹中家唯一の大名だった重義の家系はなくなる。


嫡流である竹中半兵衛の家系は、旗本として残る。

故郷、不破郡岩手で6千石の大身旗本として続く。

秀吉軍師として一斉風靡した半兵衛の家系としては寂しいが。


この間、竹中家を守るため、核になった女人が、半兵衛の妹。

年が離れた半兵衛を真近かに見ることは少なかったが、英雄の輝きを見ている。

兄の死を嘆いていた時、兄の家臣に過ぎない、いとこ、重利との結婚が決まる。

重利が、竹中家を率いることになったのだ。


驚きの秀吉の采配だった。

嫡流の姫として竹中家を率いる大義となり、重利を嫡流とした。

それでも兄の遺児、重門の親代わりとなりいずれ宗家を引き渡すと決め育てる。竹中家を引き継いだ自負を持って、半兵衛の重臣でしかなかった重利が、荷が

重いと泣き言をいうのを半兵衛の妹として支えた。

竹中家の奥の要となった。


嫡男、重義が生まれ、竹中家を率いるのは誰が見ても、重利となった。

重利は、半兵衛の妹婿として竹中家を率いた。

徳川の世に生き残った我が子、重義の出世は早すぎたぐらいだった。

これほどの栄華があっていいのかと思うほど贅沢な暮らしで、幸せを謳歌した。


どこかでこのまま続くことはないとの思いで、重義に竹中家の歴史を話した。

半兵衛は英傑だったが、竹中家は甲斐武田氏の支流で斎藤家重臣に過ぎない。

それでも、秀吉に引き立てられ半兵衛は思う存分働き、竹中家は厚遇されたと。

半兵衛死後、重利は半兵衛に少しでも近づこうと必死になって仕えたこと。

気負いすぎもあったが、お長の方に救われ、権力を得たこと。

家康に勧められ重義は秀忠に仕えたが、豊臣家から離れたのが早く秀忠に気に入られたこと。

そして府内藩が安堵され、長崎奉行に抜擢されたこと。


重義もうなづいたが、長崎奉行はやりがいのある役目で没頭した。

そして、奈落の底に突き落とされた。

覚悟していたが、やはり最後は惨い。


天国から、竹中家は、豊臣恩顧ゆえの外様であり、宗家が家名を保ち存続しただけで、良しと思う。

これが竹中家の通る道だったのだと。


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