㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町) 3
㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町) 3
3 生駒正俊と藤堂高虎の娘、円智院
秀吉は、嫡男、一正に「藤堂高虎は宇和島藩8万石と小藩だが、才知に溢れた武将であり将来有望だ」と言い、正俊と高虎の娘、円智院とを婚約させた。
一正は堀家との縁組みを望み、高虎とは相性も悪く不満だったが受け入れた。
秀吉亡き後、高虎は家康に従い、家康の身辺警護を務め、豊臣恩顧の大名を次々家康方とする調略を行った。
家康の天下取りに多大な貢献をして、家康のなくてはならない武将に変身した。
伊予今治藩20万石となり、生駒家を追い抜いた。
そして、家康も結婚を勧めたことで、秀吉が決めた生駒家嫡男、正俊と藤堂高虎の姫、円智院との結婚式が執り行なわれた。
一正も勢いのある高虎の娘との結婚を良縁と喜ぶしかなかった。
家康への感謝と忠誠心を込めて、1608年、永福院と嫡男、正俊と円智院らを生駒藩江戸藩邸詰めとし、参勤交代を始める。
早い時期での参勤であり、将軍、秀忠は喜んだ。
すぐに、藤堂家は伊勢津藩22万石とまた一段と加増出世し四国を離れた。
四国内の隣藩として両藩は手を携えるはずだった。
だが、高虎は、家康の忠臣となり出世していく。
次第に、高虎の態度は豹変し、高松藩政に干渉するようになる。
一正は高虎とせめぎ合い、生駒家の独立性を保つという重い務めが加わった。
高虎に押され気味だが、かっては同僚であり、言いたいことを言えた。
1610年、堀家の改易を聞く。
堀家の面々、家康の顔を浮かべ、生駒家の将来が心配になる。
そこで、山里の婿、生駒将監を主席家老とし一門衆の結束を固める。
江戸詰めとなった永福院に代わり、国元の奥を永福院の指示の元、側室、お夏の方が目を配り守る。
有力讃岐衆、山下氏(お夏の方の父)は、お夏の方を支え、家中をまとめ、藩政は安定していた。
一正は、堀家にはならない、とある程度自信があったが。
複雑な思いでまだ死にたくはなかったが、5月11日、55歳で亡くなった。
大坂の陣を控え、豊臣恩顧の大名・藩主が次々亡くなる先駆けだった。
正俊24歳で家督を継ぐ。
円智院が生駒家の奥の要となり、実家、藤堂家に相談することが増える。
正俊は父に似て慎重でおとなしい性格であり、父の藩政を引き継ぎ幕府への忠節を貫く。
高虎は幕府の代弁者でもあるかのように、正俊の後見人を気取りあれこれ幕府への対応を助言する存在となっていく。
正俊には、高虎は義父であり偉大な恐るべき大大名で、話すと萎縮してしまう。
体つきも大きく頑丈で、家康から特別に評価された高虎の干渉に逆らえない。
円智院も、生駒家の独立性を保つのもいいことだが、父、高虎を頼る正俊も好ましく思う。
大坂の陣が近づくと、高虎は豊臣家との決別を迫る。
だが、家中から大坂城入りする武将が続いた。
正俊の母、永福院は家中に尊ばれ影響力を持っていた。
永福院は幕府の堀家への仕打ちを恨み、幕府への抑えきれない怒りがあった。
永福院の思いに沿うかのように高虎の意に反して、弟、生駒正信らは大坂城入りし死ぬ。
正俊は、正信らの大坂城入りを止めることが出来なかった。
幕府の怒りがわかり身がすくむが、ひたすら幕府と藤堂家の顔色を見つつ、忠誠を尽くす。
正俊自身は大坂の陣で徳川方として激しく戦い高松藩を延命させる。
円智院は正俊の優しさが不安になっていく。
弟を引き止められなかったことに、高虎は激怒していたからだ。
正俊は、責任を追及されることもなく大坂の陣を無事乗り切ったと思う。
それは甘く希望的な思いで、幕府も高虎も、生駒家の限界を見ていた。
正俊の藩政では、幕府の意向に即した家中の統制は出来ないと断定したのだ。
隣藩で同い年の徳島藩主、蜂須賀至鎮は高松藩生駒家と同格の藩だった。
同郷でもあり、至鎮の父、家政は、一族の尾張生駒家のヒメ姫と結婚している。
生駒家と同じような経緯で徳川家に忠誠を誓ったが、家康の養女を妻にした。
嫡男も生まれ、夫婦仲も良く、外様だが余裕の安定した藩に変った。
もちろん大坂城入りする家臣もいたが、未然に防ぐか、隠す力があり、幕府も見て見ぬふりをした。
ときに、正俊は、至鎮と話すときがあり、藤堂家を介するよりは幕府の直接の目付の方が、わかり合えると失敗に気づく。
藤堂高虎は幕府の忠臣であることに気負いすぎて、幕府以上に藩政に事細かく介入し、厳しく締め付ける。
関ヶ原の戦い直後に、家康に直接、徳川ゆかりの姫との結婚を願うべきだったと悔やむ。
1621年、正俊は生駒家の行く末を憂い、高虎の干渉を押さえることが出来ず悪夢にうなされ「藤堂家から妻を迎えるべきでなかった」と虚ろな視線でつぶやき、35歳で死ぬ。
そんな正俊を円智院は寂しく見た。
父、一正が亡くなり、嫡男、高俊が生まれると、正俊は国元に仕える女人を置くようになった。
正俊は、高虎が嫌いだったのだ。
正俊が亡くなり、嫡男、高俊10歳が後継となる。
ここで、正式に藤堂高虎が外祖父として後見人を命じられる。
高虎は幕府の意向に沿って外様大名つぶしが出来る大名となっていた。
秀吉時代の8万石から津藩32万石へと大出世するのは、家康の思いを先読みできる力があり、外様大名の再編に力を発揮したからでもある。
1611年、熊本52万石藩主、加藤清正亡き後の嫡男、忠広10歳の後見人となり、高虎は、家中の内紛を大きくしていく。
1613年、長女、高松院の婿、蒲生忠郷11歳の後見人となる。
忠郷の父、陸奥会津60万石藩主、蒲生秀行が1612年、亡くなり、母、家康の三女、振姫が後見するが、家中に内紛を興す。
そこで、江戸城に戻った振姫に代わり、義父として藤堂高虎が乗り込んだ。
蒲生家家中の内紛をより激しくし、1627年、秀行死後、会津藩は改易だ。
同年幕府は秀行の弟、忠知に家名を引き継がせ伊予松山藩24万石藩主とする。
代わって松山藩主となった蒲生忠知も慣れない地で藩政に苦しみ、内紛を起こす。
蒲生家に変わり陸奥会津40万石藩主となったのが伊予松山20万石藩主、加藤嘉明。
高虎の意向での国替えだったが、幕府は良い考えと賛同した。
国替えに抵抗した加藤嘉明だったが、受け入れざるを得ず、莫大な引っ越し費用と、慣れない地での藩政に四苦八苦することになる。
そして、高虎は、加藤家会津藩内にあった内紛の種を大きくした。
高虎の死後になるが、結局、3家とも、藩政の落ち度を責められる。
そして、藩主の能力を問われ、理由がいくつも上げられ、幕府主導の改易となる。
高虎は132万石を幕府にもたらす。
正俊が亡くなった時は、まだ3家とも改易されていないが、円智院は、父、高虎の考えが分かるようになっていた。
背筋が凍るばかりだ。
高虎は高俊を後見し、高松藩政の改革を強く進めると闘志を燃やした。
高松藩政は主席家老、生駒将監が圧倒的力を持っていた。
初代藩主親正の弟、近清の家系で前々藩主、一正が全幅の信頼を置き娘婿にした。前藩主、正俊との仲も良く国元の仕置きを任されていた。
高虎には「意のままに動かず、自分勝手に藩政を牛耳っている」と腹立たしい。
そこで、生駒家家臣の内から気心の知れた者を探す。
将来を見込みすでに、娘を生駒家重臣、前野小助と結婚させていた。
高虎の考えを良く理解し実現を目指すと確約した小助の兄、前野助左衛門と石崎若狭を大抜擢し、江戸詰家老とする。
二人は豊臣秀次筆頭家老、前野長康の一族で、関白の政治を担った実績があった。
前野家は加賀国守護、富樫氏の子孫とされる。
尾張川並衆であり生駒家とは縁戚だ。
前野長康が秀次に連座して処罰された時、前野長康の優秀さを知る親正は、同情もあり一族を召し抱えた。
石崎家は前野家改易後、田中吉政に仕えたが1620年、田中家も改易だ。
そこで、一正が召し抱えた。
尾張を離れて長く経っており、彼らは新参の武将とみなされる。
一正を受け継いだ正俊は、二人を信頼し重用した。
それでも高禄での召し抱えに譜代の臣から反発もあった。
正俊死後、二人とも能力が発揮できず、くさっていた。
そこで、高虎の娘婿、前野小助の取次で、高虎は2人と高松藩政を話し合い、意気投合し、支援を約したのだ。
高虎は冷静に高松藩18万5千石を見続け、このままでは幕府への忠誠心は育たないと見切りをつけていた。
高松藩は雄藩の大名だが、津藩の支藩扱いをしつつ家臣団の陣容も藤堂家中心に構成する。
江戸詰筆頭家老を正俊の弟、生駒正房(左門)とし、呼び寄せ取り込み、将監から引き離す。
国元へは、藤堂家から西島八兵衛らを派遣し、力を持たせる。
円智院と高虎の親子関係は希薄だった。
高虎には男子がなかったため、当時の主君、秀長は自分の子、高吉(実は養子とした丹羽長秀の子)を養子に出すと申し渡した。
ここで、高吉は高虎の嫡男となる。
高虎は主君の子を養子とし、秀長の第一の重臣となり思う存分力を発揮していく。
秀長が亡くなり、後継も直ぐに亡くなり、秀長の和泉・紀伊・大和100万石大和大納言家は改易となる。
高虎は秀吉の決定に唇を噛みしめたが、秀吉から望まれ直臣となる。
主君とは思えないままで仕えたが、秀吉は病に陥った。
その頃から家康に近づいた。
高虎は秀吉に仕える頃から側室を置き始めた。
丹羽家が123万石から12万石へ格下げされ嫡男、高吉の意味が薄れたからだ。
名護屋城に呼んだのが、秀吉の側近くに仕える美濃衆、氏家氏の娘。
気品ある仕草が気に入り側に置く。
そして、円智院が生まれる。
秀吉も喜び、氏家家と生駒家の親しい関係もあり、秀吉が円智院と正俊の結婚を決めた。
だが、高虎は、家康に仕え始めると、家康が不快感を持つ女人を遠ざけた。
円智院母子も氏家家で育てられる。
円智院親子は忘れられた存在だった。
ところが、氏家家は西軍として改易された。
円智院を引き取らざるを得なくなる。
こうして、円智院は高虎の養女扱いで育つ。
我が娘であることは明白であり、円智院は高虎の資質を受け継いでおり、姫として大事に育てられ、結婚する。
円智院は、自分の生まれ、母の実家もよく知っての上で結婚している。
家康に絶対忠誠で大幅加増された高虎と改易大名の娘を母とする円智院とは相容れないと分相応を思い控えめだった。
円智院はいつも高虎から見張られているような気がしていた。
それでも娘として育てられた恩を深く感じており、生駒家でも、父、高虎の意向に沿って、正俊の意向も組み入れながら、バランスをとって、奥の要となった。
高虎が付けた眞部源左衛門と幼いときからの守り役、氏家庄介を伴い、生駒家に入ったときは感激だった。
円智院がずっと夢見てきた独立の日だった。
自分の居場所を見つけ、自分らしい暮らしが始まると嬉しかった。
新鮮で楽しい結婚生活だった。
夫、正俊の優しさも好きだし、我が子、高俊や姫達にも愛情を注いだ。
実家、藤堂家を頼りつつも、正俊の意向を大切にしたかった。
正俊は、藤堂家を嫌ったが。
正俊が亡くなると、子たちの結婚相手を高虎が決めていく。
円智院は、姫達を徳川ゆかりの雄藩に嫁がせたいと願った。
だが、高虎は円智院の意向を無視し、長女の結婚相手を藤堂一門の藤堂内匠家1万石の高義とした。
藤堂内匠家は津藩の家老にしか過ぎない
次女、天正院の相手は、円智院の意向を受けたとの大義で、山崎6万8千石藩主、池田輝澄とする。
輝澄は家康の次女、督姫の子であり、家康の孫である徳川ゆかりの藩だ。
だが、池田輝政の四男で、分家して山崎藩を起こした小藩でしかない。
池田家は家康の娘、督姫が健在なときは日の出の勢いだったが、督姫が亡くなると、次第に鳥取藩と岡山藩に集約されていく。
それ以外は家康の孫であっても外様藩、池田家でしかなく、能力なしと見なされれば粛正の対象だった。
山崎藩は、1637年に始まったお家騒動で1640年に改易だ。
この過程は高松藩生駒家と全く同じ道筋で同じ日に改易となる。
三女の相手は、藤堂家分家の伊賀名張1万5千石藩主、長正だ。
円智院は父に裏切られたと思い知る。
高松藩17万3千石藩主の正室の姫としてはあまりにも格下の結婚相手ばかりだ。
相応の徳川家に縁ある大名に嫁がせたかった。
無念の思いと、高松藩の行く末に不安が増す。
円智院には、高俊を守る大きな役目があり、それを第一とした。
たとえ父に逆らえず、我慢の暮らしとなっても。
信頼する氏家庄介の発言力が弱まり、高虎の言うがままの眞部源左衛門の発言力が増していく。




