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㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町)2

㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町)2


2 生駒家の姫、山里の進んだ道 

秀吉が亡くなると、豊臣政権は揺らぎ、家康が主導する。

父、親正と堀家は秀吉恩顧との強いレッテルが貼られ、家康は動きを注目した。

一正は秀吉に格別の恩はなく、実力者家康に近づく。


1600年、上杉攻めから始まる天下分け目の関ヶ原の戦いが起きる。

親正はあまりに秀吉に恩があり、家康は優勢だと分かっていても動けなかった。

三成からの秀頼の名による参陣の申し出を断れず娘婿、大塚氏らを派遣し、西軍として丹後国田辺城攻めに加わらせた。


一正は迷うことなく家康方東軍に従い、上杉攻めに向かう。

途中、下野の小山で三成挙兵の報が入る。

家康の三成攻めの可否を問う評定にも力強く賛同し、反転西上し三成との決戦に向かう。

清洲城に入り、関ヶ原の前哨戦となった岐阜城攻撃にも加わり本戦に臨む。

関ヶ原では、家康本陣の前面に陣を敷き、奮戦した。

戦後、家康は褒め称え、「一正に功あり」と高松藩生駒家を加増の上、安堵し18万5千石とした。


堀家も上杉家と険悪な状態が続いていたことで、家康方に属し所領安堵だ。

堀家も生駒家も一見何も問題なく秀吉から家康への権力移行に従ったかに見えた。

だが家中は、豊臣政権が続き、家康が主導しているだけと思うものが多かった。

そのため、西軍に属し改易された諸将の窮状に納得できない寂しさがあった。


父、親正も堀家も、西軍に与し改易となった諸将に少しでも手を差し伸べたいと、召し抱え、家中に新参の武将を迎え入れる。

豊臣政権を担ってきた旧知の優秀な行政官僚達も、高禄で召し抱えた。

新参の家臣は、優秀ゆえに譜代の家臣と摩擦を起こしていく。


関ヶ原の戦いを契機に後を継いだ一正にはずっしりと重い藩政の舵取りとなる。

1603年、父、親正が亡くなり、一正が藩政のすべての責任を負うことになる。

父、親正の偉大さを思うばかりだが、難しい家臣団を抱え、生駒家を守り抜く決意だけは強く持つ。

家康は、生駒家中の家康への忠誠心を疑った。


徳川幕府が開かれ、幕府から外様大名つぶしの一環でもある冷たい命令が生駒家・堀家に出される。

天下普請など負担の重さにあえぐ。

それでも、控えめながら冷静に物事を判断する一正は家臣の信望も厚く、表だって内紛が起きることもなく、安定した藩政を続けた。


一正は妻、永福院や堀家との仲を重んじつつ、譜代の臣の筆頭に生駒将監を置き、領地の国人、讃岐衆を取り込み、新参の衆にも力を持たせ藩政を行う。

結果、秀吉の影響を大きく受けた幕府の嫌う人脈が主導する藩政となってしまう。

豊臣恩顧の大名と見なされるのは避けられなかった。


一正には山里・正俊・正信・盛之・正房そして娘と多くの子達がいた。

秀吉は生駒家を盤石にする良い結婚相手を決めると楽しそうに話す。

長女姫、山里は、山科(やましな)猪熊(いのくま)(のり)(とし)に嫁ぐ。

公家、教利は才知溢れた美男で有名な公家であり、一正も永福院も上々の結婚と喜んだ。

教利は四辻家の生まれだが、山科家に養子入りして継いだ。


信長と朝廷との交渉役だった山科家は、信長が亡くなり秀吉が実質後継となっても、秀吉を信長より一段低く見た対応をした。

その為、秀吉は、山科(やましな)(とき)(つね)の忠誠心を疑い、左遷を決めた。

信長を信奉した山科(やましな)(とき)(つね)は、秀吉を天下人として崇めるのが遅かった。


山科家は、平安時代末期から続き、朝廷財政を仕切った公家の家柄だ。

だが、戦国時代になり、山科家も朝廷も税収を得ることが滞り、窮していく。

そこで、山科言継(1507-1579)、山科(やましな)(とき)(つね)親子は諸国の有力大名を巡り資金援助を申し込む。

信長は、山科言継、山科(やましな)(とき)(つね)親子を庇護し多額の資金で支え、良い関係を築いた。

秀吉も引き継いだが、言継死後引き継いだ山科(やましな)(とき)(つね)は、信長家臣、秀吉だとの思いが消せなかった。


秀吉は、山科(やましな)(とき)(つね)を退け、山科(やましな)猪熊(いのくま)(のり)(とし)を山科家当主にした。

生駒家、山里と結婚させ、秀吉を中心に置き公家朝廷をつなぐ山科家としたのだ。

だが、秀吉の死で事態は急転した。

家康は、秀吉に近い公家を冷遇し、追い出す。


山科言経は、失意の中でも家康との縁をつなぎ、時を待っていた。

家康も当然のことと、すぐに山科家当主に復帰させた。

山科家から追い出された教利は耐え難い屈辱の中で、家康の同意を得て猪熊家を起こした。

ここから、猪熊教利と名乗る。

山里も共に屈辱に耐え、猪熊家を守ろうとする。

この時点での家康の対応は、まだ緩かった。


猪熊(いのくま)(のり)(とし)は、文化教養に秀で、秀吉に庇護され、天皇側近として、文人特有の自由でおおらかなサロンを作っていた。

山科家の家名を取り上げられ、勢力が弱まっても、家康に対抗するかのように、派手な交際を続ける。

秀吉時代の華々しい過去が忘れられず、幕府の冷遇に抑えきれない不満が渦巻き、鬱憤晴らしもあり、京の話題の中心にいた頃のように数々の女人と浮き名を流す。


家康は、教利の家康憎しの思いをおもしろく見る。

幕府の朝廷工作は続き、狙い通り、教利は醜聞の嵐に包まれ評判を落としていく。

教利の気持ちを理解した天皇だが、1607年、幕府の要請で追放を命じる。

妻、山里は教利のすべてを理解し支えた。

それでも、父、一正のように幕府大事を貫いて欲しいと願ったが、教利の幕府への反抗的態度は直らない。


1609年、教利は、公家衆の不義密通の手引きをし、乱交を重ねたと、でっち上げられ、処刑だ。

まだまだ男女の愛に寛大な風潮があり、自由恋愛は当たり前だったが。

秀吉は朝廷公家を厚遇し、家康が主導する世となっても、京では秀吉に親近感を抱くものが大勢いた。

秀吉死後も変わらず、豊臣家を大切に思う人々が多くいたのだ。

家康は、自らの権威を見せつけ朝廷を押さえるために、猪熊教利を利用した。


この間の幕府の対応を見続けた妻、山里は、隠棲すべきだと決めた。

ただ教利の遺児、正幸(河内)は武将として生きたいと望み、そっと隠すように父に預けた。

そして、傷心の時、折々励まし力づけてくれた住吉大社の神職、津守国家と再婚する。

陰ながら、教利縁者を助けたい想いもあった。


猪熊家も神職の家柄であり、熱田神宮社家の尾張氏と土田氏は同族でもある。

だが、まもなく、津守国家と死別。

山里は正幸と暮らしたいと、摂津(大阪中部)を離れ高松に戻る。


正幸は生駒家で一門として元気に育っていた。

山里は、父、一正と母、永福院に優しく迎えられた。

二人は、今度こそ幸せになるようにと生駒将監(いこましょうげん)との再々婚を決める。

将監は山里の流転の半生を理解し敬いつつ妻として迎えた。

ここから、将監は藩主の婿となり、主席家老の道を歩む。

山里は将監の深い愛に落ち着きを取り戻す。


そして将監の娘を養女とし、次に父の養女とし櫛笥隆致(くしげたかちか)の子、園池宗(そのいけむね)(とも)との結婚を決める。

先々夫、教利に縁ある後水尾天皇妃で9人の皇子皇女を授かる櫛笥隆子の弟だ。

生駒親正が豊臣政権の重鎮として、京の公家との深い交友があった為でもある。

京都公家との深い縁が、生駒家安堵に繋がると信じた。


櫛笥隆子の子が後西天皇。

幕府の影響を受けない独自の天皇を目指したが、在位8年で幕府との軋轢の中で退位させられた。

陸奥国仙台藩3代藩主、伊達綱宗の母は櫛笥隆子の妹、貝姫だ。

幕府は伊達家の朝廷への介入を嫌い警戒し、綱宗は若くして隠居させられた。

生駒家は猪熊家続いて園池家と一線を引くべき、幕府の嫌う人脈を懲りずに大切にした。


二男、正信(甚助)は秀頼の小姓となり側近く仕えた。

一正は、徳川の世では豊臣家とは一線を引くべきだと、大坂城から引き離した。

正信を取り戻し「一門筆頭として東讃岐を治めて、高松藩政に尽くすように」と分知し、豊臣秀頼との縁を切るよう取り図った。

だが、正信は、秀頼と連絡を取り合い、後の大坂の陣で大坂城入りする。

大坂の陣の敗北後、切腹する。


他の大名でも、身内が大坂城入りした例はよくあった。

正信を、うまく隠し藩内で処理するか、個人的裏切り者として見せしめのように処刑すればよかったができなかった。

周知のこととなり、幕府は生駒家の裏切りだとみなした。


次女姫は、永福院の甥(堀秀政の4男)いとこ、近藤政成と結婚する。

結婚後まもなく1606年、永福院の甥、秀治が亡くなる。

嫡男、忠俊10歳が後を継ぐがあまりに若く、内紛が起きていく。

忠俊の後見は、秀治の後見の筆頭家老、堀直政が引き継ぐが1608年、死亡。

直政の後を継いだのは秀治の妹を妻とする嫡男、直清(1573-1641)。


直政には長沢松平家、近清の娘と結婚した2男、直寄(1577-1639)がいた。

近清の娘は、土井利勝に嫁いでおり、姉妹の婿、利勝と直寄も義兄弟になる。

近清死後、長沢松平家を支えているのは土井利勝だ。

土井利勝の後ろ盾で、強気の直寄は忠俊の後見を申し出る。

利勝の幕府内での力は揺るぎなく、忠俊を支える堀家中も、力ある直寄を後見として受け入れる。


忠俊は直清を頼りにし幕府とも、豊臣家とも良い関係を築くつもりだった。

だが、直寄は、豊臣家との縁を切り幕府への忠誠心を見せるよう迫る。

直清と直寄の藩政への思いが違い対立した。

幕府が介入する。

幕府の裁定で直清は改易だ。

直寄は1万石の減封、すぐに元通りになるが。


後見人同士の争いのはずが、藩主、堀忠俊の責任とされた。

1610年、越後藩30万石は改易。

土井利勝の思い通り、大坂の陣を前に、豊臣恩顧の雄藩が小大名へと再編された。

次女姫は、経緯に納得できなかったが、近藤政成と離縁し実家に戻り、六角氏縁戚、佐々木高和と再婚する。

一正は、堀家との縁を遠くし、生駒家を守ろうとした。


三男、入谷盛之は一族の入谷外記の養子となり、高松藩重臣で続く。

生駒一門ではあるが、主家とは一歩引き、徳川家に忠誠を尽くす。


四男、正房(左門)は末子だが、母は讃岐国人、山下氏の娘お夏の方だ。

一門筆頭の家老となるも、反幕府派と見なされ、生駒騒動の首謀者となる。


一正は、家康に忠誠を誓いつつも、豊臣家の存続を願う家臣の声も聞く。

長女、山里を筆頭に、生駒家中は幕府の冷たい仕打ちに不満を持っており、忠誠心は薄かった。


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