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㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町)1

㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町)1


1587年、生駒親正が、城下町が繁栄し領民が誇れる親しみある城にすると勢い込んで、瀬戸内に面した海城、高松城の築城を決めた。

秀吉股肱の臣、生駒親正が、讃岐一国を得て奮い立った時だ。

親正は、秀吉天下の威光を領民に見せる居城を築城したかった。

領民が驚き歓喜する新しい城造り、近世城郭の構想を練り自信を持って決めた。


1588年築城開始、3年後の1590年に完成。

地名を高松と改めた。

三重の堀に囲まれ、内堀には島のように本丸や二の丸、三の丸を築く。

外曲輪外側には海水を引き込み広い堀を巡らし、東西には舟入(船着場)も造る。


本丸周りに二の丸・三の丸・桜の馬場、西の丸を時計回りに築いた輪郭式平城。

北側に広がる瀬戸内海を航行する人々は、瀬戸内海に浮かぶ島の上に建つ高松城を「讃州讃岐の高松様の城が見えます波の上」と謡い、美しさを堪能する。


1 生駒一正と堀秀政の妹、永福院

讃岐高松藩17万6千石を得た生駒親正が築いた居城、高松城。

緊張の中にも堂々と讃岐入りする。

生駒家の治世は、僅か54年だが、生駒氏4代が近世讃岐の大筋を創り上げた。

親正は城を愛し、讃岐高松を愛し、文武両道の武将として名君と慕われる。


生駒家と言う名字から、思い浮かべるのが信長の愛した生駒の方だ。

生駒家は平安時代初期、藤原北家全盛を築いた藤原(ふじわら)冬嗣(ふゆつぐ)の2男、良房(よしふさ)の子孫が大和国生駒に移り住み名とした。

応仁の乱が始まると戦禍に見舞われた大和国に見切りを付けた生駒家広が尾張国小折(江南市小折)の地に移住する。


そこで武家でありながらも木曽川水運を担う川並衆として灰・油の商いや馬借(運搬業)で巨大な冨を築いた。

同時に、織田家に仕える。

嫡男、豊政が受け継ぎ、次に家宗が受け継ぐ。

家宗の子が、家長と生駒の方。


木曽川の上流、美濃国可児を領する土田家とも縁が深い。

通婚が続く間柄で、生駒の方は斎藤氏に仕えた土田弥平次に嫁ぐ。

土田家嫡男ではなく次男だ。

二人の仲は良かったが、斎藤家の内紛で道三に従い戦った夫、弥平次は、1556年戦死した。

傷心の生駒の方は、実家に呼ばれ戻る。


土田家は、信長の母、土田御前が生まれた歴史ある美濃の有力国人だ。

土田御前は、一族自慢の才知溢れた美貌の持ち主で、信秀の後妻に望まれた。

生駒の方の夫、弥平次の叔母になる。


土田家と織田家も通婚が続く仲だったが、信秀の妻となる土田御前は、一族の誇りだった。

土田家では皆が嬉しそうに土田御前のあれこれを自慢した。

生駒の方も土田御前や織田家の素晴らしさを何度も聞いた。

当時の力関係では、土田御前は玉の輿に乗ったのだ。


もちろん、土田氏は信秀にとって必要な武将で、軍事力を含め大きな力を持っており、必要な結婚だった。

生駒の方にとって、信長は良く話題になる身近な主君だった。

短い結婚生活だったが、土田氏・織田氏をよく知り学んだ。


実家に戻った生駒の方に信長に仕える話が持ち上がっていた。

弥平次の死を聞いた土田御前が、生駒の方を信長に仕えさせたいと申し出たのだ。

すごい良縁だと驚き感謝し、父、家宗は周到に準備した。

そして、生駒の方と信長の出会いの場が創られた。

信長23歳は濃姫と結婚して8年、父、続いて道三を亡くし不安定な立場となり、家中をまとめるのに苦心惨憺だった。


信長は活気溢れた生駒屋敷を訪れ、生駒の方に出会う。

喧騒に中にあでやかに咲く華、生駒の方に目が留まる。

生駒の方はこの時を逃さず、全身全霊を賭けてぶつかり、信長の心をつかむ。

生駒の方は信長より6歳年上の29歳で出産経験もある人生経験豊富な女人だ。

周囲の期待に応えて、憧れの主君の心を射止め、会心の笑みを浮かべた。

1557年から仕え翌年には信長2男、信雄が誕生した。


父、家宗は出戻りの娘が主君、信長に愛されたことに感激し、信長のために一身を投げ打って資金提供し仕える。

兄、家長は、織田家に仕えていたが、後に、信雄に仕え側近となる。

だが、生駒の方は1566年に亡くなった。

1582年には信長も亡くなり、秀吉の時代が来る。


信雄は一時伊勢を領し百万石を超える大名となり生駒家長も共に栄光を味わう。

だが、秀吉と対立し、改易。

改易時、家長は、信雄から叔父として頼られる事もなく、秀吉から直臣への誘いもなかった。


まもなく、信雄は許され一から出直した形で嫡男、秀雄が越前亀山5万石、信雄が大和国内に1万8千石を与えられ、秀吉に仕える。

家長は浪人していたが、信雄が許されると仕えたかったが、織田家譜代の家臣がひしめいており、頼ることは出来ず、呼ばれることもない。

ここで、秀吉に召し抱えられる。

優遇はされないが。


生駒の方の口添えで、秀吉は信長仕官への道が開けたと後世伝えられるが、秀吉の生駒家への扱いを見ると感謝しているとは思えない。

信忠の家系は織田家嫡流としてそれなりの処遇がされており、美濃衆が付き従っている。

家康嫡男、信康に嫁いだ徳姫も織田家を引き継ぐ重要な人物となっている。

この2人の母、生駒の方の実家として生駒家が重んじられることはない。

二人の母は、別人だ。


秀吉死後、秀吉に評価されなかった家長は迷うことなく家康に近づき、東軍として戦う。

但し、自前の軍勢を多数持つほどの力はなく、福島正則勢に従っての参戦だ。

それでも、家康は目に留め、尾張藩に仕えるよう求めた。


家長は故郷で力を発揮できる場を与えられ、大喜びで懸命に尾張藩に尽くす。

嫡男、利豊が引き継ぎ、尾張藩家老家4千石として続く。

娘、ヒメの夫は、同郷の川並衆だった蜂須賀家政だ。

秀吉が決めた結婚であり、二人の仲は睦まじく、生まれた子は、徳島藩主となる。

そこで、妹、ヒメが、次男(利豊の弟)の兄、善長を招き徳島藩家老とし続く。


生駒家は、生駒の方の美貌に家運を賭けて信長の心をつかみ成功したが、信長からは経済力は認められても、武将としてはそれほど評価されなかった。

生駒の方の功により、武家の面目を保つが、信長・秀吉では花は開かなかった。

家康の時代になり徳川家、蜂須賀家で価値ある役目を担うことができた。

尾張藩家老として父祖の地を守り、徳島藩でも重きをなした。


高松藩主、生駒親正は、生駒の方の生駒家嫡流ではない。

別系統の土田御前の兄、生駒親(ちか)(しげ)から始まる土田生駒家の家系になる。

生駒親正の父、(ちか)(しげ)は、土田御前の兄だが、土田政久と名乗っていた。

生駒家広の娘と結婚し、生駒親正が生まれた。


土田家は近江の六角氏庶流、佐々木山内氏(宇田源氏)から始まった。

土田秀定が土岐氏(明智氏)に招かれ美濃国可児郡土田に移り、土田城を築き名とした。

秀定は明智城(可児郡長山)主、土岐(明智)氏の娘婿となり仕える。

生まれた秀久が生駒家広の娘と結婚し、嫡男、泰久・政久(生駒親重)・土田御前が生まれる。

生駒家広の娘は秀久と離縁し、生駒親重を連れて実家に戻る。


実家に戻ると、生駒親重は母の弟、豊政の養子となり、生駒親重と名乗り生駒家で育つ。

土田家は生駒家より家格が上であり、自然と嫡男待遇になる。

1556年、斎藤家の内紛で、道三側に付いた土田家は道三の嫡男、義龍に滅ぼされ本家は断絶する。

生駒の方の先夫が戦死した時だ。


実家を亡くした土田御前は、義龍と織田家は連携すべきだと考え信長の弟、信行を擁して織田家の家督を奪おうと策するが、敗れた。

土田御前は信長と険悪になり、関係修復を狙う。

そこで生駒の方を信長に仕えさせ、実家、土田家の再興を目指したのだ。


土田御前は、織田家を受け継がせたかった大切な宝、信行を失うが、親重に美濃国可児郡の土田城を与えることが出来た。

信長は親重を側近としていく。

生駒親重が生駒家の名のままで土田家を引き継ぐことになるが、土田御前の思いが実現し、納得だ。


こうして、複雑でややこしいが、土田家が生駒家となる。

高松藩生駒家は信長の母、土田御前の実家でもあるのだ。

信長は、母、土田御前と一時の諍いはあったが、親子関係は続いた。

血縁はあるが、織田家譜代の重臣でもない土田家を大切にしたのは母を想う故だ。


親重の嫡男、親正も信長に仕え、猛将だと気に入られていた。

母は一族、曽根氏の女人だ。

親正と秀吉の運命の出会いは1570年、浅井長政の裏切りに端を発した金ケ崎の戦いだ。

信長は窮地に追い込まれ、信長を逃がすため殿(しんがり)を申し出た秀吉に、信長が付けた5人の猛将の一人が親正だ。

親正は絶体絶命の危機の中で秀吉を守り奮闘し、逃げ切った。


命拾いした秀吉は親正に恩に感じ、信長に願い、親正は秀吉の与力となる。

生死を共にし生き残った縁で、親正と秀吉は強く結びついた。

信長の死に際しても明智家との強い縁があったが、秀吉に忠誠を尽くす。

弔い合戦、山崎の戦いでも突撃し戦功を上げ、秀吉はますます信頼し次々出世させていく。


まず、秀吉は、親正に近江国高島郡2万3千5百石を与えた。

その後も戦果を挙げ加増され讃岐高松を得たのだ。

後に、堀尾吉晴・中村一氏とともに「三中老」の一人となるほどに信任された。


親正の嫡男が、一正だ。

母は生駒一族の高木氏になる。

信長が「親正を秀吉に取られた。代わりに、一正を預かる」と笑い可愛がった。

そして、信長に寵愛され、とんとん拍子で出世している堀秀政の妹、永福院と一正の結婚を決めた。

ここから、一正に父とは別の織田家重臣の道が開けていく。


堀家は藤原北家、利仁流を受け継ぐ斉藤氏を祖とし、美濃斎藤家に仕えた。

信長は妻、濃姫の実家に繋がる美濃衆を厚遇し、その縁もあり堀家を取り立てた。

堀秀政は容姿があまりにも信長の好みで、信長は気に入り側近くに置く。

才溢れた知謀の将でもあった。


素晴らしい義兄を持った一正は怖いものなしとなる。

信長の縁戚であり斎藤家・明智家を受け継ぐ武将だと将来が輝いていた。

堀秀政と共に重臣の道を確実に歩んでいく。

だが、信長は1582年、殺される。

忠誠を尽くした主君を亡くし生きる希望さえなくすが、父に呼ばれ秀吉に仕える。


一方、父、親正は常に秀吉の側近くにおり秀吉政権の一翼を堂々と担っていた。

信長から秀吉の時代に移り、ますます生駒家は伸び、順風満帆だった。

一正は父に隠れるように秀吉に従い、生駒家を守る良くできた2代目となる。

かって信長に従い満ち溢れていた覇気がなくなり寂しい時もあるが。

結婚によって、父、親正と堀秀政とが秀吉と深く結び付き、秀吉重臣としての今があると自負しつつ、遠慮がちに従う。


親正や堀秀政は信長の死を冷静に受け止め乗り越えた。

だが、一正は信長に心酔し、信長の死はあまりに衝撃的で立ち直れない。

信長への忠誠心を競った親友、堀秀政との違いにまた落ち込む。

秀政妹、永福院との仲は良く、励まされるが。

永福院は、信長に縁ある生駒家らしく信長の遺志を継ぐと決めていた。

一正を励ましつつ、側で家政を仕切る。

妻に促され、どうにか威厳を保ち家中も一正に従った。


堀秀政は一正より優秀で、先を見る目があった。

信長の側近くに森蘭丸が仕えるようになると、信長の側近から少しずつ離れ織田家重臣の道を歩み始めていた。

秀吉の軍監を命じられ、秀吉の側近く仕え、信長との取り次ぎを担った。

そこで、秀吉の采配ぶりに感銘を受け、信奉していく。

ついには、秀吉を目指し、秀吉のすべてを学び取ると意欲を燃やした。


そんな時、信長が殺された。

堀秀政は、中国攻めの最中の秀吉の陣にいた。

そのまま、秀吉に従い弔い合戦に参陣し戦い、勇猛な武将として存在感を示した。

秀吉から高く評価され、信長から秀吉に乗り換え、順調に出世していく。

すべてに運がよかった。


おかげで、義兄弟、一正の地位も高まり、高松藩を与えられる一因となる。

だが1590年、秀政が亡くなる。

一正には2歳年上のかけがえのない義兄だった。

37歳というあまりに早い死に、一正と妻、永福院の衝撃は大きかった。

秀政の嫡男、秀治14歳が後を継ぐ。


秀吉は秀政の残した業績を高く評価し、秀治に越後春日山45万石を与えた。

与力大名の村上氏9万石・溝口氏6万石を含めてだが。

しかし、堀家の秀吉政権での立場は弱まっていく。

永福院は、堀家を守り、元気にしたく、一正と共に支える。

1598年、秀吉は亡くなる。


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