㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 8
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8 高虎の娘、高松院
久の方・松の方は凋落した実家から救い上げた姫のイメ-ジが付きまとい、なかなか高虎に言いたいことが言えなかった面があった。
だが、嫡男の母となり正室扱いとなった松の方の娘、高松院は娘として思うことを父、高虎や兄、高次に言うことができた。
そんな高松院の生き方は、興味深い。
高虎と松の方は、蒲生家を追い込み戻った傷心の高松院を優しく大切に迎えた。
そして、よく働いたと褒める。
結婚・死別を経験し、高松院は両親を冷めた目で見るようになっていた。
父、高虎は老いて昔の面影はなかったが、母には「蒲生家を守りたかった。夫を死に追いやったのは藤堂家だ」と厳しく言い放った。
そして、兄、高次が父以上に野心家になっているのを驚きながら恐ろしく見た。
もう藤堂家との係わり合いを避けたいと思う。
1630年、高虎が亡くなると高松院は、江戸から国元、津に戻る。
亡き父、夫の菩提を弔う暮らしに入ると決めたのだ。
だが、兄、高次は、美しく知性溢れる妹の出家を認めず、一身田専修寺堯朝との結婚を決める。
高松院も、出家が認められないのなら、藤堂家に役に立つ再婚をして、藤堂家を離れることは、うれしい。
再婚を納得する。
兄、高次は喜んだ。
藩主として威厳をもち高松院に頼んだが、兄でしかなく父の重みはなかったから。
専修寺(栃木県真岡市高田)は、親鸞上人が、1226年建立し、浄土真宗高田派の本山となった。
時を経て1470年頃、真慧上人が、伊勢の中心寺院として一身田専修寺(津市)を建立した。
その後、本山専修寺が戦乱により消失したため、歴代上人が一身田に居住するようになり本山になり代わる。
その為、一身田専修寺は高僧が続出し、天皇家の祈願所となり隆盛を続けた。
一身田専修寺住職、堯秀は宗教を統制下に置こうとする幕府に対し独立性を保つ姿勢を崩さなかった。
幕府とも津藩とも緊張関係が生まれた。
江戸幕府は絶対的存在になっていく。
1635年、堯秀は、残念だが幕府との円滑な関係を築くしかないと思い定める。
懐柔策が、堯秀の後継、堯朝と津藩主の姫、高松院との結婚だった。
藩主一門となり、津幡の意向を重んじることを受け入れた堯秀。
その時、幕府と協調すべきところは協調し従うが、納得できない時は、藤堂家が専修寺の庇護者として幕府との間を取り計らうことを願った。
高次が了解し結婚が決まった。
ところが、幕府は強権姿勢を崩さず統制下に置こうとし、1644年、独立性の強い堯秀が大僧正に昇任にすることに異議を唱えた。
堯朝が、江戸と津を往復し、関係修復を願い、申し立てをするが、思うようにはいかない。
高次のとりなしで、認められたが、その他の条件を出された。
翌1645年一身田専修寺は大火に見舞われ御影堂、客殿など諸堂が焼失する。
その翌年、江戸に出向き、専修寺の現状を訴え、幕府の力も借りたいと願う。
幕府は思うようには動かず、高次の支援も弱かった。
ここで心労の重なった堯朝は、幕府への抗議と将来の支援を祈願して自決する。
高松院はまたしても、結婚10年で夫を亡くした。
堯朝の考え・行動を熟知し、共感していた。
共に、一身田専修寺を守ろうとしたのに亡くしてしまった。
実家、藤堂家は何のためにあるのか腹立たしく、夫を死に追い込んだと申し訳なく、情けなく詫びた。
二人の夫は、幕府の圧力を遠因とし、亡くなった。
ここから、高松院37歳は、自らの力で一身田専修寺を守ると覚悟を決める。
蒲生家では思うように働けなかったが、経験を積み、不退転の決意で、見事な采配ぶりを魅せる。
年老いた堯秀が、再び住職となり高松院が支える形を取り、難問を解決していく。
母、松の方と兄、高次に強く働きかけ、伽藍の再興と専修寺への広大な土地の寄進と庇護、後継者選びと矢継ぎ早に願う。
藤堂家に尽くし、益をもたらしており、便宜を図るべきだと、訴えた。
不退転の決意は、母・弟を動かし、一身田専修寺は再建が決まる。
次に、1648年、関白、鷹司信尚の孫(花山院定好に嫁いだ娘の子)堯円を後継として迎える。
和子姫に仕える藤堂家関係者が動いた。
ここまで、高松院に申し訳なさのあった母、松の方は、よく協力してくれた。
この年、亡くなる。
1652年、夫の七回忌に銅鐘(梵鐘)を津の釜屋町在住の辻越後守重種と一族の氏種に鋳造させた。
名工の誇る梵鐘が今に残る。
専修寺は、藤堂家に庇護されていることを、見せつけ、信者を安心させる。
1658年、高松院は堯円上人を歴史ある専修寺を引き継ぐにふさわしく育てる。そして、高次の娘、糸姫との結婚を決める。
ここで、藩主との強い結びつきが再度生まれ、専修寺の復興が本格的に始まる。
津藩から寺領を2倍にする土地が寄進され、同宇の再建が始まる。
一身田専修寺を万全にしたと微笑み1660年、高松院は、夫の元に旅立つ。
1619年の最初の結婚から1627年の死別まで蒲生忠郷との落ち着いた暮らしを続けた。
その間、熊本藩加藤家54万石・松山藩(会津から国替え)蒲生家24万石・会津藩加藤家(松山から国替え)40万石を幕府主導で徐々に改易へと向かう道筋作りに貢献した。
後には、後悔することばかりとなるが。
高虎の外様大名への対応は直接介入を避け家中に内紛を起こすよう仕向け、重臣同士を対立させる。
不遇を感じている重臣にそっと肩入れし力を与え、より上位で仕切っている重臣を蹴落とす作戦だ。
高松院の存在が光り、作戦は、成功した。
高松院は、津藩32万石が譜代格で安定するため貢献したと兄に誇った。
その功があると、思う存分一身田専修寺の復興の為に、兄に寄進を願った。
そして、実現した。
高松院は、時代に逆らうことなく、流れの中で生きただけだ。
それでも、どうにか自分らしく生き、幸せな人生だったと、伝え亡くなった。
高虎には、折々仕える女人が他にもいた。
多くの子が欲しかったこともある。
生まれたのは姫ばかりだったが。
幾人かは、生母に縁ある家臣に嫁ぎ、藤堂家の名で威勢を張ることはない。
高虎には、理路整然とした組織作りが頭にあり、実現する才能があった。
その才で、藤堂家を大きくした。
我が子の生母であっても、理由なく藤堂の家系に入ることを拒否した。
その中に、一時の愛で終わり、公式には認めなかった娘、圓智院がいる。
圓智院は、高虎が名護屋に在したときに、氏家家ゆかりの娘との間に生まれた。
秀吉が祝い、生駒正俊(1586-1621)との結婚を決めた。
その後、氏家家は、西軍に属し改易された。
高虎は氏家家との付き合いに一線を引き、圓智院を隠す。
徳川幕府が成立し、高虎は状況を見つつ、家康に圓智院と生駒正俊の婚約をどうすべきか、お伺いを立てる。
家康は、結婚は約束事だと了解した。
父、生駒一正を亡くし、後継となった讃岐高松18万5千石藩主、生駒正俊に1610年、圓智院を高虎養女との名目で嫁がせる。
生駒家は豊臣恩顧と見なされて、幕府は忠誠心に問題ありと決めつけていた。
高虎は、家康の意向を推し量り、幕府に忠誠を誓う生駒家とするために、眞部源左衛門と氏家庄介(1590-1600)を付家臣として送り込む。
1611年、生駒正俊と圓智院の間に嫡男、高俊が生まれ順調な結婚生活だった。
しかし、譜代の重臣と高虎系の家臣団との軋轢が続き、幕府の外様いじめとも思える手伝い普請の要請が続き、正俊は心労が続く。
そして、1621年、35歳で亡くなる。
ここでまた高虎は一歩踏み込んで、孫、高俊の後見人となり、藩政を厳しく見守ることになる。
いつものごとく生駒家では新参の重臣、前野助左衛門と石崎若狭を重要視し意見をよく聞き、譜代の筆頭家老、生駒将監を冷たくあしらい対立を生み出す。
1624年、藤堂家中から土木技術に秀でた西嶋八兵衛を呼び、水利の悪い讃岐の干害対策を任せる。
生駒家中は西嶋八兵衛の指示で水利新田開発に取り組む事になる。
この間、前野助左衛門と石崎若狭を家老に昇格させ、権限を持たせ一層の対立を起こす。
この後、高虎は亡くなるが、生駒家を仕切った生駒将監も亡くなり嫡男、帯刀が継ぐ。
生駒帯刀は、父ほどの力はなかった。
家中に押さえが効かず、譜代と新参の対立は激しくなる。
双方が幕府に訴える家中紛争となる。
幕府は双方に罪を認め、特に藩主の資質に問題ありと裁定した。
ここで、あっけなく、讃岐高松藩、生駒家は改易となる。
生駒家に実質干渉したのは兄、高次だった。
圓智院は、兄が家中をかき混ぜ対立させ改易させたと責めた。
讃岐生駒家の存続のために力を尽くすはずの兄の冷たい仕打ちを理解できず怒る。
夫を亡くしても、藤堂家には戻ることを拒否した。
高俊に堪忍料として与えられた流罪地、出羽国に共に行く。
我が子、生駒高俊と共に矢島藩1万石藩主の母として生涯を送る。
他に、藤堂忠季に嫁ぐ姫がいる。
一門家老家ではなく虎高の養父、藤堂忠高の一族だ。
重臣ではない。
また、岡部桂賢に嫁ぐ姫がいる。
藤堂家家臣の岡部家に嫁いだ。
2人は、藤堂家一門重臣として続く。
また、前野小助自性に嫁がせた姫がいる。
前野小助自性は、三成に仕えていたが、その死後、生駒家に仕え、讃岐高松藩主、生駒家の藩政を主導する家老となる。
譜代の臣として忠義を貫き、幕府に従わず、内紛を興した首謀者とされ、生駒家は改易となる。
高虎が仕組んだ生駒家改易の主役級の人物だ。
高虎の娘は刺客となり、役目を果たした。
高虎の用意周到さの現れだ。
前野小助自性は、改易の前、亡くなった。
高虎は、織田家(織田信清娘)・近衛家(多羅尾氏娘)に繋がる女人を養女とし、藤堂高刑・小堀政一と結婚させ、藤堂家の家格を高めている。
小堀政一(1579-1647)は浅井長政の親戚であり、高虎と同僚になる秀長の家老だった。
政一の美意識は素晴しく、文化教養に飛びぬけた才を発揮する芸術家であり、作庭・御殿内部のしつらえなどに力を奮う高虎の良き相棒だった。
高虎は、母方、多賀家を受け継ぎ、多羅尾氏に縁あるであり賀嘉晴の娘を高虎養女として小堀政一に嫁がせた。
その後、亡くなると、お秀(三沢局)(1611-1656)と再婚させた。
お秀(三沢局)は高虎のいとこ、藤堂良政(叔母の子)の養女になる。
藤堂良政の父は藤堂嘉房(嘉晴の弟)で浅井家、信長、秀吉と仕えた。
高虎は、良政に一門家老、藤堂玄蕃家を起こさせた。
お秀(三沢局)の権威付けのためでもある。
もちろん実家、三沢氏・実父、三沢為毘も名門であり、継室にふさわしい家柄だ。
お秀(三沢局)は、高虎の一門家老の一族となり、小堀家に嫁ぎ家綱の乳母に選ばれたのだ。
藤堂家・小堀家の共同作戦だ。
将軍の乳母は旗本系の乳母が選ばれるのがほとんどで、そうでなければ幾つもの権威付けをしたはずだ。
お秀(三沢局)は、将軍御台所、お江の縁者となり四代将軍、家綱の乳母として、家綱の厚い信頼を得ることになる。
もちろん、お秀(三沢局)は、非常に優秀で乳母としてよい仕事をしたからだが。
生駒家の改易は、絵に書いたように筋書き通りに仕上がった。
加藤家・蒲生家との女縁をうまく活用し、姫たちがそれぞれすごい働きをしたことで、高虎は、藤堂家を32万石にまで押し上げ、高次に繋げ安泰にした。
高虎の縁戚は難しすぎ、推定が多くなる。
ただ、慎重で用心深い高虎であり、納得できる血筋でないと、要人としないのは確かだ。




