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④会津若松城(福島県会津若松市追手町1−1)

④ 会津若松城(福島県会津若松市追手町1−1)

会津若松市の象徴であり、市内が一望でき景観が素晴らしい名城。

多くの興味深い、また悲惨な物語が生まれる名城でもある。


1384年、三浦氏を実質引き継いだ蘆名氏が黒川城を築いたのが始まり。

この地の覇者となり、200年以上治めた。

三浦氏は鎌倉幕府成立に多大な貢献をし大勢力を持つ。

頼朝挙兵に馳せ参じた三浦義明は、時期が早く志半ばで討ち死にした。

子たちが引き継ぎ、大活躍、幕府開府となる。


そして、10男、()原義連(はらよしつら)が恩賞として会津を得て、その孫、光盛が領地の名を取り蘆名氏を称する。

だが、執権北条氏と並ぶ力を持ったために、落とし込められ、三浦氏は滅亡。

残ったのが佐原氏(蘆名氏)で嫡流となり、続く。


三浦氏(佐原氏・蘆名氏)の変遷を彩る女人。

源頼朝の父、義朝の側室となった三浦義明の娘。

二人の仲は睦まじく、義朝は三浦氏を重用する。

こうして、頼朝蜂起の時、重要な役割を果たすことになる。


頼朝は、三浦氏と北条氏を、幕府を支える両輪とする。

そこで三浦義明の嫡男、義澄の嫡男、義村の娘、矢部禅尼と北条家嫡男、執権、北条泰時との結婚を決めた。

次の執権となるはずの時氏が生まれるも、両雄並び立たず、両家は決裂し、戦う。


そして、三浦氏は滅亡する。

矢部禅尼は、離縁となり、父、義村のいとこ佐原盛連と再婚する。

一族の多くが北条氏に敗れ滅亡していく中、北条氏と戦ってはいけないと厳命、佐原盛連一族を守った。

矢部禅尼の孫が執権、時頼であり、矢部禅尼は、隠然とした力を持った。


佐原氏は、義明の子である義澄の弟、義連から始まる。

源義経を滅ぼした奥州での戦いに功があり、頼朝から会津を得た。

義連の子が、佐原盛連だ。

再婚後、矢部禅尼は、蘆名光盛を産み、佐原氏を継がせ、ここから、蘆名氏を名乗る。

次に生まれた光盛の弟、三浦盛時に滅亡した三浦氏の家名を継がせ再興した。


祖、三浦氏は滅びたが、北条氏と友好関係を続けた蘆名氏は、鎌倉幕府との縁は深く順調だった。

だが、時を経て、伊達政宗が出現する。

伊達政宗の侵攻に耐えられず、あえなく滅亡。


ここで、秀吉から会津を任されたのが蒲生氏。

そして、上杉氏が引き継いだ。

徳川幕府が開府されると、再び、蒲生氏が藩主となる。

次いで、1627年徳川幕府から与えられたのが加藤氏。


伊予松山藩主、加藤嘉明が43万石会津藩主として会津若松城(黒川城)に入った。

蒲生氏が築いた壮大な城があったが、1611年の会津地震により天守は倒壊していた。

改修の役目を持っての国替えだった。

嘉明死後、嫡男、加藤明成が会津若松城復興を完成させた。


だが、資金も情熱も使い切ったかのように藩主としての能力なしと幕府に見られ、1643が、加藤明成は改易。

3代将軍徳川家光の弟、保科正之が会津藩23万石藩主として会津若松城に入る。

以後、明治維新まで続く。


■千姫の「東慶寺の闘い」

加藤明成が改易となるきっかけは、東慶寺(神奈川県鎌倉市)の戦い。

東慶寺とはどのような寺か。

東慶寺は、本山を持たない独立した尼寺。

鎌倉幕府、執権、北条時宗の妻、覚山(かくさん)()が建立。

北条時宗は、蒙古が襲来(モンゴル帝国の侵攻、元寇)した戦い、1274年文永(ぶんえい)(えき)、1281年弘安(こうあん)(えき)で、苦戦しながらも、撃退した英雄だ。


夫婦仲はよく、1271年、嫡男、貞時誕生時には大喜びした。

感激し、幕府や諸宗を批判し死罪を命じた日蓮を、死罪を免じ流罪とする恩赦をしたほどだ。

そして、国難を乗り切った。

だが、時宗は過労からが続き、33歳で亡くなってしまう。


嫡男、貞時が引き継ぐ。

覚山(かくさん)()は、後見しつつ力を発揮、格式のある広大な東慶寺(神奈川県鎌倉市山ノ内)を建立し、夫の菩提を弔い、我が子の活躍、幕府の安寧を祈る。

同時に、自らの菩提寺とし、女人救済のため、女人を守る政策を行なうよう命じた。


貞時の妻、覚海円成から後醍醐天皇の皇女、用堂尼等々格式ある女人が住職となる。

高名な縁切寺として続く。

徳川幕府も満徳寺(群馬県)と共に、東慶寺を重んじ、歴史は続いていく。


1615年、大坂城炎上の中で、豊臣秀頼の妻、千姫は大坂城から脱出した。

豊臣家は滅亡する。

死を覚悟した茶々・秀頼から家臣侍女を守るように願われての決断だった。

茶々・秀頼に仕えた侍女たちを引き連れ、将軍の父、秀忠・御台所の母、お江が待つ江戸城に戻る。


千姫は、連れて逃げた者たちの行く末を決めていく。

残された者たちにふさわしい生きる道を示す、責任があると決めていた。

茶々の妹でもあるお江が、逃げてきた者たちの意向を聞き、茶々に仕えた苦労に報いる価値ある仕事・結婚相手を見つけてくれた。


皆それぞれの道に進んだ。

残るのは、秀頼のたった一人の忘れ形見、奈阿姫(1609-1645)の命を守り、秀頼に恥じない行く末を決めることだけとなる。

千姫の子ではなく、ともに暮らすことはなかったし、江戸にも別々に来ている。

それでも、なんとしても守る覚悟をしている。

奈阿姫を我が子として守り抜くと、江戸城に呼ぶ。


まだ6歳の幼い奈阿姫なのに、きちんと千姫に挨拶し、どんな命令でも受け入れる覚悟をしていた。

戦禍の中を必死で逃げ惑ったけなげな奈阿姫を抱きしめた。

奈阿姫はつぶらな瞳で、千姫をじっと見つめ、哀しい経験を言うことはなかった。

奈阿姫は立場がわかっており、雰囲気が読める賢さを持っていた。


千姫は、言葉をかけながら、ますます守らなければという思いを強くする。

奈阿姫の命が守られるよう家康に直訴する。

千姫の苦労や功を知る家康は、願いを受け入れ、豊臣家の血筋を残すことなく生涯独身であることを条件に助命する。


次に落ち着き先を決めなくてはならない。

秀忠、お江と話しあい、薦められたのが、女人救済の寺として有名な鎌倉の東慶寺に、奈阿姫を預けることだった。

千姫も賛成だ。


ここで、もうひと押しと、家康に「生涯独身で生きるしかない奈阿姫を励まして欲しい」と懇請した。

家康も奈阿姫を哀れに思い「何か望むものはあるか」と聞いてくれた。

そこで奈阿姫(天秀)は「(修行すれば女から離縁出来る)東慶寺法が末永く続くことのみ望みます」と願った。


できすぎた話であり、千姫がお膳立てしたことだが、家康はこの願いを聞き届けた。

こうして、徳川幕府公認の縁切寺、東慶寺として、改めて認められた。

家康のお墨付が後にものを言うことは、このときは誰も知らなかった。

千姫から奈阿姫(天秀)へ、奈阿姫(天秀)から東慶寺への価値ある贈り物だった。


その後も千姫は奈阿姫を励まし続け、東慶寺を庇護し、潤沢な寄進をする。

1634年千姫寄進による仏殿が建立。

家光により自害させられた弟、忠長の屋敷が解体されると、その屋敷を客殿と方丈、大門等として東慶寺に移築する。


移築は、千姫が家光に頼み、了解を得て、責任もって取り仕切る。

千姫は家光の姉として身内で一番の発言力を持っており、動作のないことだった。

具体的な差配は春日局が群を抜いた権力を持っており、任せた。

春日局は、忠長が好きだったし深い思い入れを持っており、大胆に完ぺきに移築させた。

こうして東慶寺は、豪壮・華麗な徳川家ゆかりの寺となる。


1627年、伊予松山藩主、加藤家は、会津若松藩主、蒲生家と入れ代わり、会津若松藩主となる。

違いは蒲生家が60万石だったが、加藤家は40万石になったということだ。


会津藩は、92万石で藩主、蒲生氏郷だった。

氏郷は、1592年、大大名の居城として会津若松城の築城を始めた。

会津若松城は、92万石藩主の居城として築かれたのだ。

その後、藩主は入れ替わり、蒲生家は60万石で戻る。

そして、加藤家に引き渡し去った。


会津若松城は天災の被害を受け、老朽化が進む中で、修理する力がないまま去った。

幕府は加藤家に城の改修をさせようと、国替えした。

蒲生家、92万石の城として築城された城を引き継いだのは、40万石の藩主となった加藤嘉明(1563-1631)だ。


城造りが好きで、名城を築くのを誇りとしていた。

近世城郭を普及させたのは秀吉であり、築城技術は、非常に優れていた。

加藤嘉明は秀吉の信頼厚く、数多くの築城普請に関わった。

比べて、家康配下の東国大名は、経験が少なく、近世城郭の築城技術が遅れていた。


加藤嘉明は、秀吉の天下取りに貢献し、(しず)(たけ)七本槍の一人として名将の誉れも高い。

関が原の戦いでは東軍に付き、家康から四国松山藩20万石を与えられ、藩主となった。

築いた居城、松山城は、嘉明が武将としてのすべての知恵と資金をつぎ込んだ名城となる。

松山城が完成し、成し遂げた喜びに浸っていた時、国替えを命じられた。


幕府は40万石に加増したことで、会津若松城の改修資金ができると考えた。

だが、松山を愛し、松山城を終の居城だと考えていた、嘉明には喜びはなかった。

大藩の引っ越しには家臣たちを含め膨大な費用がかかる。

しかも会津若松城は、広大な城郭でありながら、惨憺たる状況だった。


加藤嘉明は、国替えの目的が城の修復だと重々承知しており、固辞するが所詮幕府の意向に逆らえない。

松山城築城は秀吉時代の貯えがあり、思う存分に築けたが、すでに蓄えは使い果たしていた。結局、なんの準備もできないまま、国替えに応じ、家臣団ともども、会津若松城に入る。


会津若松城は、秀吉の威光を東国に示した大城郭だった。

だが朽ちて、天守が崩れたままの状況だった。

加藤嘉明には、耐えられなくなる。

100万石居城として築かれた大城郭を40万石の力で、必死になって修復していく。

1631年、改修半ばで嘉明は亡くなり、嫡男、明成が引き継いだ。


知恵を振り絞っても、莫大な費用がかかった。

費用は、足りなくなる。

足らない費用は領民から取り立てざるを得ない。

しかし、藩主の過酷な税の取立てに領民は激しく抵抗した。


名君、嘉明に従い結束を誇った重臣の意見も分かれ、明成(1592-1661)では家中をまとめきれない。

家老、(ほり)主文(もんど)は明成に城の修復は止め、緊縮財政とするよう強く進言した。

だが、明成は、父の遺志でもあり、幕府に加藤家の力を見せつける改修を成し遂げるとの決意を変えず、反対に、(ほり)主文(もんど)を不忠者と責めた。


1639年、(ほり)主文(もんど)から家老職を取り上げた。

身の危険を感じた(ほり)主文(もんど)は、家族、親類縁者、家臣を連れて鎌倉へ逃げた。

明成は、許さず、(ほり)主文(もんど)らを討つと追手を差し向けた。

(ほり)主文(もんど)は、妻らを東慶寺の奈阿姫(天秀)に託し、身軽になって高野山へ向かった。


豊臣恩顧の武将にとって、東慶寺の奈阿姫(天秀)の名は知れ渡っており、(ほり)主文(もんど)は一目散に東慶寺を目指したのだ。

一方、明成も、東慶寺に(ほり)主文(もんど)の妻らが居ることがすぐわかる。

そして、奈阿姫(天秀)に(ほり)主文(もんど)の妻ら主従を差し出すように願う。


奈阿姫(天秀)は、頑として明成の要求には屈しない。

そして、事の次第を千姫に一報した。

千姫は家康のお墨付を後ろ盾に、弟、家光に事の次第を話す。

家光は、姉、千姫ととても仲が良く全面的に支持した。


家光に庇護された(ほり)主文(もんど)の妻ら主従に対し、40万石大名、明成は渋々引き下がる。

奈阿姫(天秀)には太刀打ちできない。

それでも、明成は、高野山から(ほり)主文(もんど)兄弟を連れ戻し、処刑することはできた。


しかし、ことはそれだけでは、収まらない。

家光は、大老、酒井忠勝を呼び協議させた。

その結果、加藤家に幕府に逆らう不穏な動きがあり、明成の藩主としての統治能力に問題ありとの裁定となる。


このことを伝えられ明成は、幕府の意図を知る。

1643年、所領の返還を幕府に申し出た。

加藤家会津藩は改易となり、明成の嫡男、明友が石見吉永藩1万石を得ての再興となる。

こうして千姫親子は「東慶寺の闘い」に勝利にした。


加藤家は極悪非道な藩主だと、改易は人々の拍手喝采を浴びて支持された。

千姫親子の後詰となった幕府の計略にかかり、豊臣恩顧の外様大名が、また一人消えた。

待ちわびていたのは、家光だ。

弟、保科正之を会津藩23万石藩主とし、すぐに預ける。

秀吉の威光を示す会津若松城なのに、徳川の城として続き、悲しい幕末を迎えることになる。


 千姫・奈阿姫は、豊臣家と縁ある身でありながら、豊臣恩顧の大名潰しに加担し辛かった。だが、幕府の安泰が、東慶寺の力の源であり、その力を支えに、縁切り寺の役目を果たすと覚悟を決めた結果だ。


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