㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 7
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7 蒲生家改易の道を創る高虎
高虎との直接の関係はない蒲生家。
娘婿、蒲生家に果たした高虎の大きな役目があったことを少し加えたい。
蒲生氏郷が治めた伊勢松坂と、32万石津藩主となる高虎の支配地とは近い。
信長に従い、蒲生家は、出世の階段をかけ上がった。
氏郷が信長に気に入られ信長の娘、冬姫の婿となり、信長一門となった。
信長死後、次の天下人を秀吉とみて支援し、妹、とら姫と養女、三の丸殿(信長の娘)を秀吉の側室として仕えさせた。
秀吉は、いたく感激した。
異例の出世を続け、蒲生氏郷は、秀吉から1590年に会津を与えられ、その後加増を含め会津若松92万石の藩主にまでなった。
だが、1595年、39歳で亡くなる。
秀吉は氏郷の嫡男、秀行がまだ12才と若く家督を継がせるのを渋った。
その時、前田利家・家康らが推し、関白、秀次が秀行の家督相続を認めた。
秀吉の了解を得なかったが、関白が認めたことで、秀吉も認めざるを得なかった。
秀吉の怒りは収まらない。
そこで、家康に責任を取らせようと、家康の娘、振姫と蒲生秀行の結婚を決める。
1598年結婚。
その直前、蒲生騒動と言われる重臣間での内紛が起きる。
蒲生家譜代の臣と氏郷が見込み厚遇した新参者との間に軋轢が起き爆発したのだ。
秀郷死後、氏郷が任命した新参になる筆頭家老、蒲生郷安が政務を独占し、異議を唱えた秀行付き小姓筆頭、亘理八右衛門を斬殺した。
これに激怒した譜代の家老、3万8千石二本松城主、町野繁仍らは、郷安を成敗すると兵を擁して立ち上がったのだ。
氏郷が任命した筆頭家老、蒲生郷安(?-1600)米沢城7万石を得ていた。
郷安は六角氏重臣、永原氏に繋がる家系、赤座氏を名としたが、氏郷に仕え高く評価され、蒲生の名を与えられた。
石田三成とも親しい。
蒲生郷可(?-1598)と弟、郷治。
郷可は京極氏重臣、上坂家に繋がる家系で浅井家に仕えたが厚遇されず浅井家滅亡後、氏郷に見いだされた。
氏郷への大恩を忘れないと数々の戦いで先陣を務め戦功を上げた。
そして、蒲生の名と中山城1万3千石を与えられた。
郷可亡き後、弟の郷治が後を継ぐ。
蒲生郷成(-1614)。子に蒲生郷喜、蒲生郷舎。
郷成は坂氏の出身で、伊勢を治めた関一族に繋がる。
蒲生家は近江蒲生(滋賀県蒲生郡日野町)を本拠とし、伊勢と近く関家との縁戚は古くから続いている。
氏郷は、一時、伊勢松阪を治め、その時、召し抱えた。
戦さも巧みで武功を挙げ続ける。
蒲生を名乗ることを許し、白石城主4万石を与えた。
彼らが新参者の主軸だ。
氏郷死後のまだ家中が安定しない時の内紛は良くないと蒲生郷成が押さえた。
だが、1598年、秀吉のもとに情報が入り、秀吉が裁定することになる。
秀吉は蒲生郷安の身柄を加藤清正に預ける処分を下した。
その後、郷安は小西行長に仕え蒲生家から去った。
蒲生秀行に対しては「統率不行き届き」だと、会津若松藩92万石から下野宇都宮14万石に減封し国替えにする。
秀吉は、家康への押さえの役目は、蒲生秀行では務まらない上杉家に任せると決めていた。
そして、家康に内紛の渦巻く蒲生家を任せると振姫との結婚を決めたのだ。
まもなく秀吉の死。
ここで蒲生家の内紛をおもしろく見ていた家康の登場となる。
秀吉に遺恨を持つ秀行に対し、振姫や付けた家臣を通じ、徳川家への協力を求め、会津藩への復帰を叶えると好条件を提示する。
秀行は気を強くし関ヶ原の戦いで東軍に属し、上杉勢押さえの役目を果たした。
1601年、秀行は、会津若松藩60万石藩主となり、返り咲く。
蒲生郷成4万5千石(守山城主)、
町野繁仍2万8千石(白河城主)、
岡重政2万石(津川城主)、
蒲生郷治1万石(長沼城主)、
玉井数馬助1万石(四本松城主)などが重臣に名を連ねる。
譜代の臣が、町野繁仍・岡重政だ。
譜代と新参の重臣をバランスよく配したつもりだった。
それでも、会津若松藩の新参家臣と譜代家臣との軋轢は収まることなく続いた。
新参の家臣は幕府を後ろ盾に持つ振姫に近づき覇権を持ち続けようとする。
家康が新参家臣の後ろ盾になったのでもある。
1609年、蒲生郷成と岡重政の確執から再び内紛が起きる。
譜代の臣を信頼する秀行は郷成派を退ける。
高虎は伊勢入りを終え、新たな重臣を必要としていた。
伊勢と縁のある蒲生郷成・郷喜・郷舎を家康や幕府の要請もあり迎え入れた。
ここから、高虎と蒲生家の深い関係ができてくる。
熊本藩主、加藤忠広の後見・結婚。
会津藩主、蒲生忠郷の後見・結婚。
と続き、両家の改易・衰退へと続く道が創られていく。
秀行は、92万石の城を60万石で維持する難しさに戸惑い、力不足を嘆いた。
しかも、天変地異が相次ぎ城下や会津若松城の被害は、大きかった。
修復出来ないと悩み、動揺する領民に藩主として力強く藩政を執るとは言えない。
解決策が見いだせず、藩主失格だと立ち上がれず、1612年、30歳で亡くなる。
10歳の嫡男、忠郷(1602-1627)が、引き継ぐ。
後見する母、振姫の親政が始まる。
だがまた、振姫を支える徳川系家臣と譜代の重臣との間で対立が始まる。
1613年、振姫は忠郷を守る為に家老、岡重政の排除が必要と家康に訴え、成功するが、振姫も江戸に戻らされた。
ここで、満を持して、家康は忠郷の後見を高虎に任せた。
家康が推し忠郷と高虎の娘、高松院(1609-1660)の結婚を決めてからだ。
振姫を引き継いだ高虎は、すべきことがよくわかっていた。
まず、藩政の舵取りの策を、蒲生郷成・郷喜・郷舎に自ら伝授し、会津に戻す。
途中、郷成は亡くなるが。
郷成の遺領を郷喜が3万石、郷舎は三春城1万5千石として受け継ぐ。
幕府目付と共に郷喜・郷舎らが会津藩政を執るが1616年、再び譜代の家老、町野幸和と対立する。
忠郷は蒲生家の意地を見せ、譜代の臣を信頼し郷喜・郷舎を退ける。
だが、幕府は蒲生家・忠郷に見切りを付けた。
蒲生家中に不穏な情勢が続く中、高松院は、会津に嫁いだ。
加藤家重臣、玉目丹波守を蒲生家で預かったことで、加藤家の内紛を知る。
蒲生家の内紛も感じていく。
加藤家・蒲生家に大きな影響力を与える父、高虎の偉大さも思い知らされる。
忠郷と高松院の結婚は、幕府に忠誠を尽くす蒲生家として生き残る為の願いのこもった結婚だ。
高松院も教えられており、役目を果たしたい。
だが、譜代衆は、押し付けられた結婚だと嫌う。
振姫に代わる幕府からの強い楔が、高松院のはずだった。
幼いながらも、結婚に夢を持ち、嫁いだが、幕府の刺客にすぎなかった。
高虎は忠郷の義父として家中に重きをなし、藩政を主導するがどこか冷めていた。
高松院の幸せを願う思いもあるが、家康の意図に沿うことが一番だ。
忠郷は譜代の臣と共に藩政を執りたいが、高虎らの思うままで出番はない。
譜代の臣の不満がたまっていき、繊細な性格の忠郷も思い詰める。
1627年、結婚後、8年、忠郷25歳は、悶々とした日々の中で亡くなる。
この時、高松院18歳。
子を生むことなかったが、夫婦仲はよく忠郷の満たされない思いを共有した。
父、高虎が家中紛争を大きくし忠郷を追い込んでいくのを、ただ見ていただけで、忠郷を助ける事は出来なかった。
責任を感じ、虚しさが残る。
忠郷の弟、忠知が伊予松山藩24万石と格下げになるが、家督を引き継ぐことを認められ、一応区切りが付いた。
戻りたくない思いもあるが、藤堂家江戸屋敷に戻る。
蒲生家は、1634年、忠知の死で、後継なしと決めつけられ、改易。
92万石までになった蒲生家だが、1634年、断絶滅亡した。
そこには高虎の英知が隠されている。
高虎は、加藤家・蒲生家をつぶす道を創り、100万石近くを幕府に献上した。
美しい景観の中に、穏やかに美しく佇む大洲城で、高虎は野望の夢をはぐくんだ。




