㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 6
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6 加藤家を影響下に置いた高虎
家康は高虎の築城の才を認めただけではなく、豊臣恩顧の武将を家康方に調略した手腕を高く評価した。
そこで、1611年、熊本藩52万石藩主、加藤清正(1562-1611)が亡くなると、まだ10歳の嫡男、忠広の後見人に任じた。
家康は、高虎に父親代わりとなって、面倒を見るようにと強く厳しく言い渡した。
清正は秀吉の縁戚になる子飼いの重臣で、高虎は長く秀長の家臣だった。
豊臣家での序列は清正が遙か上であり、生前それほど親しい仲ではない。
忠広の父親代わりとなったことで熊本藩政に関っていく。
高虎は良い気分だったが、家康の意中を汲み取ると複雑だ。
まず、徳川家に忠誠心を持つ加藤家としなければならない。
清正は、秀吉死後、家康の養女と結婚し関ヶ原の戦い時には肥後に入っている。関ヶ原の戦いには参陣していないが、家康方東軍として肥後で黒田勢と共に西軍に属した諸将と戦った。
戦功で、秀吉時代に得た肥後半国から肥後国すべて肥後熊本藩52万石を得た。
破格の恩賞、家康養女との結婚で、清正および家中に家康への忠誠心が深まるはずだった。
ところが、藩政は清正の独裁で変わらない。
結婚によって送り込んだ家康家臣の力はうまく発揮できず、家康への忠誠心を持つが、豊臣恩顧の大名のままだった。
家康は、清正および重臣たちが豊臣家の存続を願っていると不満だった。
高虎は、徳川家に忠誠を誓う加藤家に変えなければならないが至難の業だ。
そこで、高虎は、熊本藩政を加藤家5人家老による合議制とする。
その5人は、
加藤与左衛門正次(清正のいとこ婿)。
清正の信頼厚い盟友的存在。
筆頭家老であり、豊臣家とのつながりは深い。
加藤右馬充正方(1580-1648)
父、可重は清正の信頼厚かった。
だが、父の死後、正方は後継とならず、娘婿が継いだ。
正方は納得できず、悶々としていた。
そんな時、高虎の力によって、家老に抜擢される。
加藤美作重次(1560-1613)。
1588年、熊本入りした清正に仕え、苦楽をともにし、全幅の信頼を得た。
1万6千石あまりまで与えられ、厚遇された。
並河金右衛門宗照(-1668)。
明智光秀に仕えた並河家だが、光秀死後、父、宗為とともに清正・忠広に仕え、忠広の信頼を得た。
後、土佐藩山内家、2千石家老となる。
下川又左衛門元宣(?‐1613)。
父、元全は清正の絶大の信頼を得ていた。
清正が朝鮮の役で出陣し朝鮮に在住している間、国元を任され、国家老を務めた。
元宣が後継となり、忠広の後見役1万石を得て、家老となる。
高虎が抜擢したのが加藤正方。
他は、清正の遺命である清正の家老衆であり、動かせず、忠広が引き継いだ。
それでも、藩政は家康の後ろ盾がある高虎が加藤正方と共に主導していく。
この間、加藤忠広と将軍秀忠の養女(蒲生秀行の娘) 崇法院との結婚を決めた。
崇法院は、家康の3女、振姫の娘であり、会津藩主、蒲生秀行の娘だ。
将軍の養女として嫁ぐ。
清正も家康養女と結婚しており、2代続いて将軍養女を迎えるのは、加藤家にとって非常に名誉なことと説いた。
家康系家臣団を引き連れての結婚だ。
同時に、高虎の娘、高松院と会津藩60万石藩主、蒲生忠郷(秀行の嫡男)(1602-1627)との結婚が決まる。
忠広の妻、崇法院と忠郷の妻、高松院は姉妹になる。
高松院の父、高虎は、忠広の後見にふさわしい立場になったのだ。
1613年、下川元宣・加藤重次が相次いで亡くなる。
崇法院の結婚の取り次ぎをしていた阿部正之・朝比奈正重らが幕府目付として肥後に入る。
2人に代わり、藩政に関る。
ここで、加藤家家老衆の中で家康・高虎の指示に従う家老衆が多数派を占めた。
そこで、高虎は、幕府目付と加藤右馬充正方に、家中に慎重に目を光らかすよう、命じる。
大阪の陣で、加藤家からの大坂城入りを防ぐためだ。
すべきことをやり遂げ、高虎は加藤家から身を引く。
強者、高虎が去ると、忠広派と反忠広(徳川方)の内紛が激しくなっていく。
高虎は思うように、豊臣恩顧の大名から幕府に忠誠を誓う大名に変えようとした。
あまりに強引な藩政への関わり方に加藤家中から反発を受けていた。
そのような状況に、家康も高虎も納得だ。
面白く見ていく。
そして1614年、幕府目付が中心となり、忠広13歳と崇法院14歳の結婚式が執り行われる。
すぐに、大坂の陣となる。
内紛状態をかかえたまま、豊臣家を滅亡させるための戦いが始まり、家康に従う。
大坂の陣の後始末を終えた時点で、1618年、熊本藩での内紛が表沙汰になる。
清正が信頼した家老、加藤正次と高虎が推した家老、加藤正方の勢力争いだ。
正方派の下津宗秀が加藤正次を幕府に訴えた。
加藤正次が、大坂の陣で豊臣家に味方し、忠広生母、正応院の父、玉目丹波守と共に幕府を裏切ったと申し立てたのだ。
待っていたように、将軍、秀忠の裁定により、正方派が正しいとなる。
正次派が敗訴し、配流となり、加藤家から去った。
忠広17歳は幼少ゆえと、咎められない。
だが、側近や父、清正が信頼した一族・母の一族らを失った。
幕府目付が根回しし高虎の意を受けた正方派が訴えたのだ、負けるはずはない。
忠広は加藤家を破滅をねらう幕府の動きに、どうにもならない憤りを感じる。
忠広が信頼していた正次派。
父、加藤清正・生母、正応院を信奉する忠臣ばかりだ。
幕府への怒りが煮えたぎっていく。
すると、正室、崇法院とは疎遠になっていく。
忠広の側には正応院の姪、法乗院しげが、側室として仕えるようになっていた。
忠広の生母、正応院(-1651)は玉目丹波守の娘。
玉目氏は肥後阿蘇大宮司家家臣で、南郷高畑城主だった。
正応院は玉目(熊本県山都町)で生まれた。
清正が熊本藩主になると、玉目家は清正に従い、仕え、取り立てられていく。
玉目家が清正の重臣となると、正応院も清正に仕えるようになる。
そして、忠広が生まれる。
清正は玉目家をますます重んじた。
玉目一族は、清正から忠広が引き継がれると、ますます力を増す。
正方派には、清正の妻、清浄院と忠広の妻、崇法院という強力な味方がいた。
清浄院は家康の母お大の方の弟、水野忠重の娘であり家康養女として嫁いでいる。
崇法院は家康三女、振姫の娘であり、秀忠養女として嫁いでいる。
両者には徳川家の家臣が結婚以来付き従っている。
加えて、幕府目付が控えている。
高虎が去っても、去ったからこそ、正方派は家康養女の後ろ盾でますます強くなっていった。
加藤家譜代の臣の追い出し策は、高虎が練っていた。
大坂の陣があり、訴える時期を慎重にしていただけで答えは決まっていた。
加藤与左衛門正次らを追い払い、加藤正方らで重臣勢を固めた。
高虎を尊敬する加藤正方を筆頭家老とし、幕府主導の藩政が堂々と行われる。
正応院は1607年には、江戸詰めとなり以後も江戸で暮らしていた。
そして、父、玉目丹波守は、会津藩に配流となることを知る。
蒲生忠郷に預けられ、会津藩で亡くなる。
幕府の余りに冷淡な裁きに、ただ情けなく耐えるしかなかった。
高虎に加藤家を蹂躙されていく悔しさとむなしさで胸に詰まる。




