㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲)5
㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲)5
5 高虎と高次と高吉
高虎は、養子養女で家督を継いだ父母の嫡男として藤堂家を継いだ。
その頃の藤堂家の家臣は多くなかった。
そこで、母の縁のある浅井家・多賀家を頼り、その後は、久の方の親族、高吉の母方の親族など受け入れて、出世街道を走り続けた。
家康が幕府を開き平和の時代が来ると、身内重視に切り替え家中を固めていく。
重視したのは織田家・浅井家・多賀家・三井家・多羅尾家・藤堂家など故郷に通じる家系だ。
そこで、高虎は、藩政を担わせる六家を創り藤堂の名を与えた。
この時点では、高次・高吉の母の実家は重視しなかった。
藤堂家の要職にはつけなかった。
藤堂仁右衛門家1万石。
高虎の甥、高刑(1577-1615)から始まる。
信長の姉、犬山殿の娘を養女とし、妹の子、高刑との結婚で興した。
高虎の姉が、藤堂家家老、鈴木弥右衛門と結婚し生まれたのが、藤堂高刑だ。
織田家に繋がる。
藤堂家を遡れば佐々木源氏の嫡流、六角氏の庶流となり信長の母、土田御前と同じ一族だ。
そこで土田御前の娘、犬山殿(信長の姉)と信清の間に生まれた娘を養女とした。
信清の嫡男は、信益。
信益の娘、お佐井の方は尾張藩主、義直の後妻となり藤堂家は尾張家に繋がる。
藤堂出雲家7千石。
異母弟、高清(1585-1640)から始まる。
母は、宮崎一郎左衛門の娘。
虎高の69歳の子で、冬の陣での活躍は見事だった。
夏の陣でも活躍するが、高虎の命令に従わなかったと蟄居、その後許される。
高虎は、武将として力を認めた。
藤堂内匠家3千石。
異母弟、正高(1588-1629)から始まる。
虎高の72歳の子である。
1596年、幼い時から秀忠に仕えさせていた。
徳川家と藤堂家をつなぐ役目を担い、価値ある働きをした。
藤堂数馬家。
母方の縁戚、多羅尾光誠から始まる。
多羅尾家は近衛家に繋がる重要な家柄だ。
藤堂新七郎家5千石。
母の実家、多賀氏の良勝から始まる。
高虎のいとこだ。
高虎の親友だった。
藤堂采女家。
秀長の重臣であり同僚だった豊後、佐伯惟定から始まる。
津藩内政に力を発揮した服部元則を娘婿養子とし続く。
服部家は、父方の三井家と縁戚だ。
高虎の母は、浅井家の養女であり、藤堂家と浅井家は多賀家を通じて縁戚だ。
二代将軍秀忠の妻は、浅井氏お江であり、浅井家と藤堂家は縁戚だと積極的に表明する。
浅井氏庶流に浅井吉政(-1583)がいた。
吉政の父、亮親が浅井家滅亡時に捕らえられ処刑され、叔父、盛政に育てられた。
吉政の子、賢政が、盛政の娘婿養子となり家督を継ぎ、一族で高虎に仕える。
賢政は藤堂の名を与えられ一門となる。
しかし期待した待遇を得られず1631年、一族と藤堂家を去り前田家に仕える。
浅井長政の養子となった井頼(1571-1661)も一時期、高虎に仕えた。
だが望む待遇ではなく大坂の陣で大坂城入りし茶々に従い戦い、戦後、京極家に仕える。
高虎は、お江と親戚であることを強調する為に、浅井家との結びつきを深めた。そこで、多くの家臣を召抱えた。
形だけの家臣もおり、秀忠・お江が亡くなると、高次は冷たく選抜していく。
高虎の妹、華徳院(1580-)は山岡一族で藤堂家に仕えた直則に嫁ぐ。
山岡家は近江甲賀山岡荘を発祥の地とし、将軍足利義昭から山城半国守護を任された由緒ある家柄だ。
だが、義昭の失脚と共に光秀から織田信雄そして秀吉に仕えた後、高虎に仕えた。
山岡直則死後、妹、華徳院は、渡辺守(-1618)と再婚する。
高虎は関ヶ原の戦いの後、西軍で戦った渡辺了(1562-1640)を2万石の高禄で迎えた。
浅井長政から阿閉貞征と主君を同じくし、共に仕えた同僚であり、近江浅井郡速水庄で生まれた同族ゆえだ。
その了の子、守を、妹、華徳院の再婚相手とし、豊臣家を過去の事とするよう命じ、一族に取り込んだ。
だが、渡辺了は満足できる待遇ではないと藤堂家を去る。
高虎は怒り、他家への仕官をさせない措置をとり、不遇のまま死ぬことになる。
1616年、久の方が亡くなった。
高虎は関心を持たなかった。
それでも、久の方の願いに沿って、荒廃している四天王寺の現状を知ると改修し、1619年、菩提寺として整備されるよう寄進した。
松の方は、津の寒松院の高虎の側に堂々と葬られる。
明らかに差をつけた。
寒松院は高虎の法名を取り、高次が建立した藤堂家の菩提寺だ。
もともと、藤堂家は上野に上屋敷があった。
1622年、天海大僧正が江戸の鬼門(東北)上野の台地に東照宮、寛永寺の建立を願った。
この地を将軍から拝領していた高虎は、天海大僧正が上野に寛永寺の建立を考えていると聞くと、即座に屋敷地を献上した。
こうして、1625年、寛永寺創立となる。
天台宗、東の総本山として、徳川家の菩提寺となり将軍6人が眠る。
高虎は替地に、寒松院を建立するが、東照宮の別当寺として建立した。
そして、藤堂家の菩提寺にしたいと願う。
家康との縁を末代も守りたかったからだ。
ここで、藤堂家上屋敷は上野から神田和泉町(東京都千代田区)に移る。
高虎が亡くなると高次が、国元にも藤堂家の菩提寺、寒松院(津市)を建立し祀る。
高虎が望んだかどうかはわからないが、この地で共に眠るのが松の方だ。
大坂の陣の後、高虎は加増され32万石になる。
高吉は実家、丹羽家の浮き沈みを、しっかりと学んでいる。
兄、長重は秀吉時代123万石から4万石へと減らされ、12万石へ戻した。
続く家康時代は西軍に属して改易それから1万石へ次いで10万7千石へと盛り返した。
逆境にもめげず頑張り抜いた兄を尊敬していた。
兄のように生きたいと思いつつも、どうにもならない状況にいらだつばかりだ。
1616年、久の方は死の前、独立化や加増はあきらめ今治2万石で満足するよう諭した。
高虎とは様々な軋轢があったが、一応父子関係は保ち、高吉の思いに理解を示していた。
そこで、最後に、高虎に高吉を大名としてはっきりと明文化し、幕府の許可を得てほしいと願った。
だが、高虎は、何も幕府に働きかけることなく1630年、亡くなってしまう。
後継、高次は、高吉の存在に恐怖し、危険視していた。
高吉は朝鮮の役・関ヶ原の戦い・大坂の陣と武功を上げ続けており、伊予今治では名君と慕われている。
しかも豊臣系とみられる優秀な家臣を率い、このままでは、存在を脅かされると感じた。
高虎の死後、血気迫る高次の高吉への攻撃が始まる。
1632年、幕府の命令だと、伊勢2万石への移封を命じ、今治城を取り上げた。
次いで1636年、高次の命令だと、伊賀名張2万石に移した。
高吉は、久の方・高虎が今治藩として独立大名化する意向だったと訴えるが。
高次が、久の方・高虎の思いを無視したことが許せない。
せめて、今治藩を支藩とし、高吉に任して欲しいと訴えるが、これも拒否だ。
高次・松の方の決意にどうすることも出来ず、家臣・家族を守る為に身を切られる思いで今治を去り、次々移る。
それでも、高次は追い打ちをかけ、高吉の次男以下3人に5千石を分知するよう命じる。こうして、名張藤堂(宮内)家は1万5千石となり、家老並みに押さえられてしまう。
高次はようやく安心する。
この間、高次は高吉を支持する渡辺了ら重臣を追い出した。
高虎は、松の方を愛したが、子が生まれる自信を持つと、多くの子が欲しくなり、若く近しい女人を側に置く。
強靭な身体ゆえ、子が生まれ、楽しい時を過ごした。
ただ、生まれたのは姫ばかりだった。
松の方は、訪れが少なくなり、美しくハツラツとした女人との愛の逢瀬を続ける高虎を見つづけることになる。
ようやく落ち着いて二人の憩いの時を持てる状況になったのに、戻らない高虎をと寂しく見守る。
ところが高虎は、1623年頃から、目を患い次第に失明していく。
看護できるのは高虎のすべてを知る松の方しかいない。
松の方にすべてを預けるしかなくなる。
松の方は、高虎が戻ってきた幸運に感謝し、高次を出来うる限り側に呼ぶ。
高次は高虎の側近くに控え、津藩のあるべき姿を学ぶつつ、父の名で思うように藩政を執っていく。
母を通して父から自然な権力の委譲を成し遂げ、藤堂家を率いていく。
家中すべてが、高吉より高次が、藩主に相応しいと認めるほどになっていく。
松の方は、7年間、献身的に看護し、最期を看取る。
そして、藤堂家を完璧な形で高次に引き継がせた満足感に酔いしれる。
高虎は、身内重視を貫き、松の方の縁者をそれほど引き立てることはなかった。
松の方はそれが不満だった。
高虎の死で、恐れるものはなくなった。
思う存分、身内を重臣とし、高次とともに藤堂藩政を執っていく。
高吉は我が身の不運と、高次の幸運を、嘆きながら受け入れ従うしかなかった。




