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㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 4

㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 4


4 久の方と松の方

久の方と松の方が並び立つことになった。

久の方は、高虎の見る目、価値判断は優れていると感心している。

高虎の決断、藤堂家のため家康に忠誠を尽くすとの決意を受け入れるしかない。

その為に松の方を認めるしかないとあきらめる。


久の方は36歳と子を産む時が過ぎ、時代の流れを受け止める覚悟ができた。

騒々しい京より大屋が気に入り、次いで、大洲城に移り、風光明媚でとても気に入っていた。

ただ高虎と心が離れていくのが辛かった。

高吉への愛ゆえだった。

高吉を嫡男として遇しない高虎、将来が不安でふさぐ高吉があまりに可哀想で高虎を許せなかったのだ。


高吉は、遠く過ぎ去った幼い頃を思い出し、ため息をつく。

養父、秀長に可愛がられ、秀長が父であると誇りだった。

だが高虎に養子に出され、まもなく秀長は亡くなった。

つらく情けない日々だった。


それでも高虎に可愛がられ、養母、久の方との愛情で悲しみは癒された。

久の方は高吉の武将としての才能を見いだし、藤堂家を引き継ぐための帝王学を熱心に教えてくれた。

養母以上の、実の母以上のかけがえのない存在だった。


久の方は、高吉に有能な近習を付け藤堂家嫡男として誰もが認める存在とした。

だが、大和大納言家がなくなり、1598年、秀吉が亡くなると歯車が狂った。

高虎は家康の信頼を得ることがすべてとなり、嫡男は家康ゆかりの姫を妻に迎えるべきだと、高吉に妻と離縁するよう申し渡した。


高吉も久の方もあまりに理不尽な命令と納得できなかったが、受け入れざるを得ない。

1595年、秀吉の養女格となった溝口秀勝の7女と結婚したが、わずか5年の結婚生活で離縁する。


高虎は、家康への忠誠心を示す為、秀吉の配した高吉の妻を離縁させた。

ところが、西軍に属した丹羽家が改易された。

丹羽家との深い縁は藤堂家にふさわしくない。

高虎は、高吉の廃嫡を考え始める。

高吉も久の方も家康縁の女人との再婚がすぐ決まると待ったが、決まらない。

ここでも歯車が狂ったことを感じる。


高吉は離縁に反対だったが、父の命令は絶対だった。

久の方から耐えるよう言われ、あきらめた。

妻は、離縁に反対した高吉に感謝し、離縁を受け入れた。

身代わりに侍女、慶法院を残し、去った。

高吉は、再婚はない何のための離縁だったのか、高虎への不信感が募るばかりだ。

次第に、元妻と重なる慶法院への愛が深まっていく。


今治城築城が完成すると、高虎は高次を嫡男とし高吉を廃嫡するとの考えを久の方に伝えた。

久の方は怒り、受け入れられないと拒否したが、高虎は応えなかった。

ここで、久の方と高虎の関係は壊れ切れた。

以後、高虎は、久の方と私的な仲睦まじさはなくなる。

対外的にも、久の方は形式的な正室になり、松の方が実質の妻となる。


1605年、外様大名である藤堂家は、率先して、幕府の居城、江戸城に、人質として妻子を送る。

嫡男の母子として松の方と高次は江戸詰となる。

本来、久の方が養母であり江戸に行くはずが、高虎は望まず松の方を正室扱いだ。


続いて松の方との間に、二男、高重。

長女、高松院。

と三人の子が生まれる。


1608年、高虎は、津藩主になり、今治から移る。

領地は伊賀10万石・伊勢八郡10万石・伊予2万石の計22万石での栄転だ。

加増はわずかでも京にも故郷にも近く思い切り働ける地への国替えだ。

豊臣恩顧と見なされる高虎にとって、破格の厚遇だ。

高虎は豊臣包囲網の城普請を主導しなければならない役目で、とても忙しい。

伊賀上野城・伊勢津城・丹波篠山城・膳所城・江戸城・二条城と関わる城は目白押しだ。


津藩に国替えを打診されたとき、高虎は高吉の分家独立の含みを持たせて今治にも領地を願い、認められた。

その前、高虎の考えを変えることは出来ないと悟った久の方が「高吉にも相応の分与をして独立大名として欲しい」と願っていたからだ。

その思いを実現させ、高吉は、伊予2万石を得て今治城を居城とする。


1595年から領地とし築城を始めた大洲城だったが、1608年、手を離れた。

久の方・高吉にはとてもつらく寂しい別れだった。

高吉は、秀吉・秀長が認めた嫡男としての誇りがあり今治2万石では不満だ。

それでも、久の方は「時代は変わったのです。小藩になったとしても、独立大名として力を奮い、幕府の覚えを良くするべきです」と強く言い、諭した。

だが、高虎は、幕府に分家独立を申し立てることはせず、藤堂家支藩として、今治2万石を任せただけだった。


正室並の力を得た松の方は一族を呼び集める。

兄、長連房(-1631)を子達の守り役とし、江戸で高虎に仕えさせた。

1606年に1千5百石を得て重臣にはなるが、藤堂一族優先の高虎とは相容れず紆余曲折がある。

高虎の母方、多賀氏に通じる前夫の縁者、宮部長之が、藤堂家重臣となるように願ったが、同じだった。

1630年12月、高虎が亡くなると、高次は、長連房の家系を5千石の重臣とし、母の思いに応えた。


松の方は、江戸詰めとなり以後、国元に戻ることはない。

江戸の藤堂家上屋敷(千代田区)で奥を束ねる体制が出来ていく。

松の方の江戸での暮らしは、久の方に気兼ねすることのない恵まれた暮らしだ。

次男、高重が幼くして亡くなる不幸があり、高次にもしものことがあればと悩む時もあった。

それでも、幾多の嵐を超えてきた度胸もあり、高次は無事育つと信じ開き直り、嫡男生母として藤堂家正室だと振る舞った。

高虎はとても忙しく、ゆっくりくつろぐ時はなかったが。


高虎は家康に巡り会い、秀長に出合ったときのような畏敬の念を持った。

秀吉の死を待っていたように、秀吉死後は、憑かれたように家康のために働いた。

嫡男、高次が生まれると、藤堂家を後生まで安泰として残したい意欲に燃え働き続けた。

「高次殿の為にも健康で長生きされますように」と松の方は、高虎にそこまで頑張らなくても良いと言う。

焦ることはない、松の方をもっと愛おしみ、側にいて欲しいと思う。


1608年、津城が完成すると、久の方が入り、正室として藤堂家の奥を仕切る。

久の方は、松の方の存在を嫌い無視した。

名門の雰囲気を漂わせ思い切りおしゃれに暮らし、楽しんだ。

高虎を気にすることもなく、先祖の菩提を弔いつつ、高吉との交流を楽しむ。

高虎には頭の痛い母子だった。


高吉に嫡男としての待遇を求め続け、高吉の為に生きた晩年だった。

だが、思いを果たすことは出来ず、久の方は豊臣家を引きずる女人とみられた。それでも、存在感を発揮し、いつかは高吉を独立大名にと望み続けた。

だが、存在を抹殺されるかのように、1616年、50歳で急死する。


久の方は、一色家の菩提寺、曹洞宗の塔世山四天王寺(津市)に葬られることを望んだ、

推古天皇の勅願で聖徳太子建立と伝えられる由緒ある曹洞宗四天王寺だ。

信長の母、土田御前も眠る。

葬儀は質素に行われ希望通りに埋葬された。


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