㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲)3
㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲)3
3 高虎の伴侶、松の方(松寿院)
高虎は、老化が目立っていた秀吉の機嫌を損ねないよう忠臣を装っていたが、秀吉の大和大納言家に対する仕打ちや朝鮮の役などの政策に不満があった。
秀吉から高い評価を受け責められることはないと確信すると、以前から、尊敬していた家康との結びつきを深めていく。
1586年、秀吉に臣下の礼をとるために上洛した家康に出会い、深く感銘を受けたのが始まりだ。
秀長の屋敷が家康の宿所とされ、高虎が接待し、秀吉の元に案内した。
その間、家康を目の前でじっくり見つめ続け、途方も無い力量を感じたのだ。
秀長の死後は、主君は家康だと密かに決めた。
秀吉の死が近づいたと見極めると、家康を主君とし仕えたいと申し出た。
家康は何も言わないが、嬉しそうに頷いた。
1598年、秀吉が亡くなる。
秀吉死後の高虎の働きは、久の方も驚くほど、精力的だった。
家康の為に豊臣系武将の諜報活動を積極的に行い、彼らの動きを逐一家康に伝え、調略の進展状態も詳しく知らせ、成功させた。
時間があれば、家康の護衛役も務め、家康に従っていることを公然と見せ付け、家康の危機も救った。
豊臣系武将を多数調略し徳川方に寝返らせ、関ヶ原の戦いの東軍勝利に大きく貢献する。
関ヶ原の戦い勝利後、家康は破格の恩賞で応えた。
伊予板島8万石から大幅加増の伊予今治20万石藩主としたのだ。
高虎は居城を今治城とし、それまでの居城、大洲城を高吉に与えた。
1602年から、20万石藩主の居城としての今治城の築城を始め、心血注ぐ。
大洲城は、秀吉との葛藤を経て、家康へ傾いていくのを見守り続けた城だ。
家康への忠誠心を見せる為、秀吉時代のしがらみをすべて断ち切る思いを固めたのも大洲城だった。
秀長に仕えて燃えたように家康の元で思う存分に働くと決意させてくれた城だ。
高虎が心酔するほどに、家康は高虎の才を引き出し働く場を与え、充分な恩賞を与えた。
それからの高虎の決断は冷酷だった。
嫡男、高吉は高虎の元、東軍で果敢に戦ったが、実家の丹羽家は西軍に属したと改易だ。
改易大名の子、高吉は、家康側近の道を歩んでいる高虎の後継には不適だった。
高虎は、公吉に大洲城を譲ったが、藤堂家の嫡男からはずすと決めた。
まだ他言はしないが。
久の方は、敏感に高虎の心変わりを感じ、苦しくつらい日々となる。
久の方には子なく、帰るべき実家、一色家もない。
高吉の養母として正室の座を守り、わずかに残る一族を支えると覚悟を決めた。
秀保死後、秀吉は、高吉の生母の父、杉若無心と嫡男、杉若氏宗を直臣とした。
そして、西軍に属さざるを得なかった。
関ヶ原の戦いの敗北を知ると直ぐに東軍として戦いに参陣し、汚名を晴らすべく必死で戦ったが、罪は許されず改易だ。
高虎は、杉若家を用済みとし、見放したように冷淡だった。
久の方は、(高虎が)豊臣家を恩顧とする存在だとみなすと冷たく切り捨てる高虎を悲しく見る。
杉若一族を助けることができたはずだとの思いは消せない。
高虎が、だんだん遠のいていく。
それだけではなかった。
高吉の養母、久の方に、毛嫌いする豊臣家を感じるようなのだ。
愛はなくなったと悟る。
高虎の心変わりを静かに受け止めるが、秀長亡き後、予感もあった。
側に、女人を置くようになっていたからだ。
高虎は計算高い現実主義者だが、家康に認められ有頂天になっているロマンチストでもあった。
久の方と心が離れていく高虎に、新たな恋が始まっていた。
運命にもてあそばれ薄幸の身となった名門の姫を救い出す勇者、高虎。
姫を愛の力で、麗しく輝く女人に変貌させて幸せにするのだ。
高虎は、自分の役割に酔いしれ、心躍らせた。
その人は松の方。
松の方との出会いは久の方と似ている。
主家の滅亡、そして勝者の妻へ。
典型的な戦国の薄幸とされる女人の生き残る道だ。
1582年、松の方は但馬国佐須(兵庫県美方郡香美町)城主、長連久の次女に生まれる。
長連久は但馬・因幡 (鳥取県東部)守護、山名氏の重臣だった。
山名氏一族の垣屋氏が母だ。
山名氏一族は室町幕府下、一時期、全国66ヵ国中11ヵ国の守護となるほどの力を持った。
だが、秀長の但馬攻めが始まる頃には毛利勢の攻撃を受け但馬・因幡守護をかろうじて守っている状態だった。
当主、山名祐豊は、毛利氏に対抗する為、信長に臣従を表明することで、支援を受け、優勢に戦いを進め山名氏を守ろうとした。
ところが、信長の支援の兵は、期待したほどではなかった。
裏切られた思いの重臣らは、毛利勢には勝つことは難しく、信長の支援も当てにできないと判断した。
そこで、毛利家と和睦すべきだと決めてしまう。
山名祐豊は重臣の決議に従うしかなかった。
信長は山名祐豊の優柔不断な動きを、裏切りだと怒った。
たとえ討ち死にしても信長の援軍を待つべきなのだ。
そこで、秀吉は秀長に、山名家居城、有子山城総攻撃を命じた。
窮地に陥った祐豊は1580年、秀吉の軍勢に囲まれる中、有子山城で亡くなる。
城は落ち、秀吉は側近、前野長康に与えた。
中国攻めに弾みを付けた秀吉は、続いて1581年、因幡鳥取城を攻め落とし宮部継潤(1528-1599)に与える。
宮部継潤は旧浅井氏重臣であり、高虎もよく知っている秀吉側近だ。
浅井攻めの重要拠点となる宮部(長浜市宮部町)城主だった。
どうしても味方にしたい秀吉は懸命に調略し甥、秀次を人質とし養子入りさせた。
宮部継潤は秀吉の誠意に納得し、調略を受け入れた。
ここで、秀吉は万全の体制で浅井攻略を進めることが出来、浅井家を滅亡させた。
秀吉には恩ある武将だ。
鳥取城を落とし、山陰攻めは一段落したと、秀吉は秀長の軍勢を山陽方面に転じさせる。
鳥取城を宮部継潤に与え、山陰方面の守りを任す。
その時、降伏し秀吉に従った長連久ら山名家の一族・重臣も、宮部継潤に与え、秀吉勢として鳥取城を守るよう命じた。
継潤は、毛利勢をにらみ山陰を押さえ、鳥取城を天下人、秀吉の城だと公然と示し、豊臣家の旗印を掲げる。
そして、周辺国人衆と協調路線を取りつつ、鳥取を治める。
秀吉の盟友でもある名将だ。
1596年、継潤68歳は隠居し、嫡男、長房(1581-1635)に家督を譲る。
そして、前から愛しく思っていた松の方(1582-1648)14歳と結婚する。
54歳もの年の差婚だ。
松の方との出会いは、1581年、鳥取城入りした継潤が、長氏一族を丁重に重臣として迎え入れ、鳥取支配に活用し、始まる。
この時、松の方は生まれていなかった。
まもなく1582年、生まれたのが長連久の次女、松の方。
松の方の誕生を祝して以来、折々、成長を見守った。
次第に、愛しくてならなくなり、老いらくの恋となった。
松の方は山名家の滅亡を知らず、宮部家の重臣として育ち、母から山名氏の変遷を教えられるが、遠い昔の話だった。
今は宮部家が主君であり、主君、宮部継潤に可愛がられ、妻に望まれ、年は離れているが、十分栄誉だと思い喜んで結婚し、夫婦仲も良い。
2年後、1598年、秀吉が亡くなった。
継潤は盟友を亡くし気落ちし翌年、1599年4月20日、亡くなる。
その時、愛する松の方を託したのが、高虎だった。
高虎は、宮部家を家康の味方とするべく、宮部家大坂屋敷を再々訪れていた。
そこで、松の方を紹介され、気品に満ちた、たおやかな美しさに見惚れた。
その頃、松の方は、愛する継潤の病の重さに、動転し、沈んでいた。
高虎は、そんな様子を見て、あまりに年の離れた勝者の妻となり薄幸の暮らしをしていると深く同情した。
松の方に会いたくて、また足を運ぶことが続いた。
きりっと背筋の伸びた座姿から、けなげに生きるしなやかさを感じ、守りたいと魅せられていく。
継潤の死後、大坂中之島屋敷に呼び寄せる。
まもなく関ヶ原の戦い。
松の方は、東軍、藤堂高虎に仕える女人として、西軍の人質となるが、顔色一つ変えることなく、静かに、高虎の帰りを待った。
関が原の戦い後1600年、高虎は、伊予今治20万石藩主となり、高虎の留守を立派に守った松の方の功を認め、薄幸の姫を救う大義に納得し側室として迎える。
松の方は主家、山名家の滅亡はつらくても鳥取城主の妻の座を納得して受け入れ、愛されて幸せだった。
薄幸の人生とは思っていない。
それでも、想像を超えた時代の移り変わりで、20万石藩主の側室となるのは、一族を含めて将来を考えると恵まれていると謹んで受ける。
高虎は大坂城内で高虎の身代わりになり人質として閉じ込められていた薄幸の美女を救ったと、この上ない満足感で松の方を強く抱きしめていた。
こうして、1602年、高次(1602-1676)が誕生する。
「でかした。でかした。嫡男とし、藤堂家を名誉ある家系にして残す」と高虎46歳、歓喜の声を上げながら松の方に宣言する。
高虎の潤んだ目を見つめ松の方も、思いもしなかった嫡男の母になる喜びに震え、高虎にめぐり合った幸運を噛みしめる。
高吉は、松の方そして生まれた高次に思いもしなかった不運を感じる。
不安が満ちてくるが、秀長が命じた高虎の嫡男が、高吉だ。
その命令は覆せないとの思いを、抱き続ける。
高虎は、今治城築城の準備を進めていたが、高次の誕生で我が子、嫡男、高次のための築城になった。
心地よい潮風の中で、幸せを満喫しながら張り切って築城。
1604年に完成。
普請奉行は渡辺了だ。
三重の堀に海水を引き入れ、船で海から堀へ入ることができる縄張りだ。
海上交通の要所、今治の名に恥じない海を最大限に活かした城だ。
日本三大水城の一つとされる。
本丸・二の丸・三の丸が内堀内にあり二の丸が藩主屋敷だ。
中堀内に重臣の屋敷。
外堀内を侍屋敷とした。
城門が9ヵ所、櫓が20と広大で堅固な堂々とした城だった。




