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㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町) 4

㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町) 4


4 将軍になるべき家系、浜田藩主、越智松平家。

(やす)(とう)を継いだ康爵(やすたか)は、1836年、陸奥棚倉藩6万石藩主へと懲罰的国替えだ。

代わって上野館林藩から越智松平家、(なり)(あつ)が浜田藩6万1千石浜田藩主となり、浜田城に入る。


越智松平家は、(なり)(あつ)から4代遡る清武(1663-1724)から始まる。

清武は、3代将軍、家光の血筋を引く唯一の人となった時があった。

そのため、8代将軍を巡る熾烈な争いの主役となる。

だが、紀州藩主、吉宗が将軍となり、将軍争いに敗れる。


清武の父は、家光の3男、綱重(1644-1678)だ。

母は、綱重側室、お保良の方。

養母が、家光の姉、千姫。

正真正銘の将軍、家光の孫だった。


綱重は、二条家の姫と結婚するが、子に恵まれなかった。

そんなこともあり、千姫に仕えたお保良の方を愛し、家宣(1662-1712)と清武が生まれる。

正室を憚り二人とも養子に出され、綱重の子だと公にされることはなかったが。


1670年、綱重が、正室、隆崇院を亡くし、継室、紅玉院を迎えると決まる。

どちらも二条家の姫だが、紅玉院は養女で、実の親は中納言、綾小路俊景。

そのため、綱重は、正室に遠慮はなく、気軽に側室を迎えた。

だが、子は生まれない。

紅玉院との間にも子は生まれなかった。


結局、綱重の子は、お保良の方との間に生まれた二人だけだった。

やむなく、家宣を呼び戻し、嫡男とする。

嫡男が必要と呼び戻されたが、清武は養子に出されたままだった。

まだ、綱重は健在であり、嫡男さえいれば十分だった。


ところが、4代将軍、家綱に子なく、次の将軍は綱重だと皆が認めていた1678年、綱重34歳が亡くなる。

あっけない若すぎる死だった。

続く、1680年、将軍、家綱が亡くなる。


家綱の後に綱重が亡くなると問題はなかったが、亡くなる順番が違った。

本来、綱重が将軍になるはずだが、綱重の嫡男、家宣と綱重の弟(家光の末子)、綱吉との将軍争いが始まる。

幕閣に推されたのが綱吉。

水戸光圀(黄門)ら徳川御三家が推すのが家宣。


家綱は、後継を決めなかった。

綱重を後継と考えていたかどうかさえもわからない。

そんなこともあり、家光の孫、家宣と子の綱吉との熾烈な対決が始まった。

家宣は後継とみなされた綱重の嫡男であり血筋は、家宣のほうが上だ。

家綱が、綱重を後継と決めず、家宣の存在を認めていなければ、弟、綱吉(1646-1709)が将軍でもおかしくない。


後継争いは幕府を二分する大問題となり、政治力に優れた綱吉が勝利し、5代将軍になる。

家宣は、父が将軍になり、その後を受け継ぐのが当然と信じて育っていた。

父の死、綱吉の将軍就任はありえないことだった。

そこに陰謀を感じる。


綱吉の兄、綱重の嫡男であり、将軍家の家系上は明らかに、家宣が上だと、揺ぎない信念は変わらず、将軍、綱吉を認めることが出来ない。

綱吉も将軍になるべくしてなったと考え、家宣が将軍就任を邪魔したと憎んだ。

将軍就任直後、幕府内に、しこりが残った。

綱吉は権威を見せたく、家宣・弟、清武に冷たく当たり、家臣扱いする。


綱吉の治世が20年近く続いた。

だが、綱吉に子が育たないことが分かってくる。

ここで、冷たい待遇を耐えた家宣・清武を甥として認め相応の待遇とするよう望む声が強くなる。

水戸家が後ろ盾になり、綱吉に迫った。


やむなく1697年、綱吉は、清武に対面し、甥と認めた。

そして、綱吉家老で隠居した牧野成貞(1634-1712)の養女との結婚を決める。

清武34歳の遅い結婚となる。

三河吉田藩8万石前藩主の養女が、妻になったのだ。

それだけでも、十分嬉しいと清武は喜んだ。


清武は、千姫の侍女から生まれている。

そのため、綱重は千姫を養母とし任せた。

二条家の姫を重んじたい千姫は困って、信頼する老女、松阪局に養育を任せた。松阪局は、実家、3百石取り越智家で育てることにした。

1662年生まれの清武は後ろ盾になるはずの千姫が1666年亡くなり運が悪かった。

それでも、家宣と近習にはたった一人の弟であることをよくよく伝え、大切にするようにと頼み亡くなった。


だが、将軍、綱吉となり清武は相応しい結婚相手もなく忘れられた存在となっていた。

そんな時、急に陽が当たった。

ようやく、甥として認められ、妻も決まった。

すると、待遇も改善されるべきだと求めるようになる。

1704年、綱吉は、我が子をあきらめ、兄、綱重の嫡男、家宣を後継とする。

将軍の座を争った甥、家宣を次期将軍とせざるを得なかった。

とても悔しい。


家宣が将軍後継となり江戸城西の丸に入る。

ここで、千姫の言葉を守り清武を引き立てる。

1707年、上野国館林2万4千石藩主となり、越智松平家となり、松平一門に名を連ね大名とした。

1709年、家宣が将軍に就任すると、清武は上野国館林5万4千石藩主になる。

この時、ようやく、清武は将軍の弟になったと喜びを噛みしめる。

まだまだ、出世の道が続くはずだ。

希望が出て、人生が面白くなる。


ところが、3年後の1712年、家宣(1662-1712)は亡くなった。

嫡男、家継(1709-1716)が7代将軍になる。

家継はわずか3歳だった。

ここで、養母となった家宣正室、近衛熙子(このえひろこ)が絶対的な力を持つ。

また、清武は、忘れられたかのようになってしまう。


4年後、1716年、病弱だった家継は7歳で亡くなる。

この時、家継と血筋が最も近い叔父になる清武は「八代将軍になるかもしれない」と胸高鳴らせた。

だが、次期将軍争いに、尾張家と紀伊家が絡んで来る。

御三家に名を連ねる大藩であり、幕閣・大奥とも親しく情報をふんだんに得ており、幕閣への対処の仕方も心得ている。


小藩主の清武は幕閣・大奥に直接働きかける財力はない。

正室の実家、牧野家に頼るしかない。

牧野家にも幕閣を動かす力はない。

清武の立場は悪すぎた。


清武を擁するはずの近衛熙子(このえひろこ)(1666-1741)が、家継の後継に家継の叔父、清武を推すことを嫌がったのが、致命的だった。

3百石取り家臣、越智家で育った清武(1663-1724)を義弟とは認めがたく、まして将軍になることは許せなかった。


しかも、近衛熙子(このえひろこ)にとって3歳も年上になる清武は扱いにくく、大奥での自分の立場も危うくなりそうな気もした。

しかも、清武の妻は、牧野氏だ。

近衛熙子(このえひろこ)は家宣を邪険に扱った綱吉を憎んでいた。

家宣は、綱吉に多くの進言をし、要望も多く出したが、ことごとく拒否された。

拒否したのは、側近の牧野成貞だった。

清武が将軍になれば綱吉側近、牧野氏の一族が御台所になり近衛熙子(このえひろこ)の上に立つのだ。

名門、近衛家出身の、近衛熙子(このえひろこ)には耐えられない屈辱だ。


家宣の遺言は「尾張藩主、徳川吉通(1689-1713)を家継成人までの中継ぎとしたい」だった。

近衛熙子(このえひろこ)は、その思いを重んじ尾張家を推したかった。

ところが、家宣が亡くなった翌年1713年9月15日に、徳川吉通も23歳で亡くなった。

後継の吉通の嫡男、五郎太も同じ年12月5日、わずか2歳で亡くなる。


ここで尾張藩嫡流は途絶え、吉通の弟、継友(1692-1731)が藩主となる。

近衛熙子(このえひろこ)は、継友が気にいらない。

「将軍に相応しい血筋であり、能力がある」と横柄な態度なのだ。

近衛熙子(このえひろこ)を尊敬し推されたいと願うべきなのに自力で将軍になると頭を下げない。

正室は、兄、近衛家熙(いえひろ)の娘、安己(あこ)(ぎみ)だ。

継友を将軍にしたく必死の兄と姪の力が増すのは間違いない。

大奥に君臨している近衛熙子(このえひろこ)は、今の立場が脅かされると恐怖した。


比べて、紀州藩主、徳川吉宗(1684-1751)は、近衛熙子(このえひろこ)を畏敬の念の篭った目で見る。

いつも変わりなく、丁重な言葉遣い、立場をよくわきまえている姿に感心する。

しかも器量の深さ大きさが感じられる思慮深さがある。

将軍の器だ。


正室、理子(まさこ)女王(じょおう)(1691-1710)は、伏見宮貞致親王の王女だが、1710年、亡くなった。

吉宗を次期将軍に推しても、近衛熙子(このえひろこ)の地位を脅かす女人はいない。

近衛熙子(このえひろこ)が気に入る女人を吉宗に配せばいい。

心を決めた近衛熙子(このえひろこ)は、紀州藩主、吉宗を将軍に推し、押し切る。

継友そして、清武に次ぐ三番手で、予想外だった吉宗が8代将軍に抜擢された。


清武は、幕府老中の支持を得られず、大奥での勢力争いに敗れた。

かすかな望みを持ち続けたが、やはり夢で終わったとがっくりだ。

将軍になった吉宗も清武をライバルと見なし優遇することはなかった。

1724年、清武は失意の内に亡くなり養子、武雄が後を継ぐ。


清武は将軍を巡る争いから、水戸家・尾張家と縁を深めた。

たとえ将軍になれなくても、徳川一門として名誉ある待遇がされることを望んだ。

1716年、吉宗が将軍になるも、待遇は変わらない。

1724年、嫡男が亡くなり、清武には、後継もいなくなった。


そこで、越智松平家が末永く続くためには、尾張家・水戸家を頼るしかないと決めた。

尾張藩支藩、高須藩3万石藩主、松平義行(1656-1715)の嫡男、武雄(1702-1728)を婿養子に迎えたいと願い、養子にした。

尾張家・水戸家から藩主を迎え後ろ盾になることを願い舘林藩は続くと安堵する。


高須藩は、尾張藩に後継が生まれない時、藩主となる家柄だ。

だが、尾張藩主、(つな)(のぶ)に子が生まれすぎて、反対に、高須藩に養子の受け入れを迫った。

やむなく、高須藩は(つな)(のぶ)15男、松平義孝を藩主に迎え入れた。

すると、高須藩嫡男、武雄が、居り場をなくしてしまった。

そこで、清武が養子に望んだのだ。

尾張藩は喜び、武雄を支える。


1724年、清武は亡くなった。

すると1728年、後継、武雄が、またしても男子なく亡くなった。

やむなく、養子を迎える。

水戸藩初代藩主、徳川頼房(家康の末子)の8男、頼泰の血筋から迎えた。

頼泰の子、頼福の長男、頼明の2男、武元(たけちか)(1714 -1779)だ。


武元(たけちか)は、優秀で1746年、老中になり、続いて老中首座となる。

亡くなる1779年まで延べ32年もの長い間、幕政を率いた。

武元(たけちか)以後、武寛・(なり)(あつ)と続く。

尾張家・水戸家に支えられ、越智松平家は安泰だった。


(なり)(あつ)に男子が生まれず、長女、良姫の婿養子に、将軍家斉の20男、斉良(1819 -1839)を迎え、後継にすると決める。

(なり)(あつ)は、将軍の子の父となることが決まる。

1836年、幕府の祝儀7千石を加え、舘林藩から浜田藩6万1千石に国替えとなった。


越智松平家、(なり)(あつ)は、浜田城に入城する。

浜田藩は親藩となり、将軍の子が藩主となった。

 千姫が創った道を歩んだ越智松平家は名誉ある浜田藩主となったが、幕末の動乱が近づいていた


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