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㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町)3

㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町)3


3 石見浜田藩と密貿易

石見浜田は、古来、海外貿易が盛んだ。

平安時代、石見の国司として赴任し、浜田御神本(みかもと)に在地し浜田を支配したのが、御神本(みかもと)氏(後、益田氏を名乗る)。

御神本(みかもと)氏(益田氏)は、藤原北家を始祖とし関白、藤原忠平の子孫になる。


国兼の代から在地し、有力在庁官人として分家を作りつつ浜田一の大勢力を創り上げる。

源平の争いでは源氏に与して戦い、一の谷の合戦・壇の浦の戦いで戦功をあげ、その功で、戦後、石見国全域に勢力を伸ばした。

当主は、国兼から兼実・兼栄・兼高・兼季と続く。

兼高の代で本拠を益田に移し、浜田を二男、兼定に分け与えた。

兼定は周布郷の地頭となり、周布(すふ)氏を称し、浜田を支配する。


時代を経て、1425年、暴風雨で遭難した朝鮮船があり、生き残った朝鮮官人、張乙夫ら10人が長浜(浜田市)へ漂着した。

事情を聞いた周布(すふ)氏当主、兼仲は、助けるよう指示、一ヵ月ほどもてなし休養させ、対馬に送る。

対馬で早田左衛門太郎に預け、無事、朝鮮本国に送り届ける。

今までも時には漂流する異邦人がおり助け、国元へ戻すルートがあった。


すると、朝鮮国王から、お礼の品々が送られてきた。

兼仲は、それらの品々があまりにも珍しく日本では高価な品々だった。

驚き目覚める。

以来、周布(すふ)氏は、理由をつけては朝鮮に船を遣わし単独貿易を始めた。

室町幕府末期、周布氏は朝鮮と49回(1447-1502)の交易をした記録が残る。

日常のこととなっていた。


輸入品は、紬・綿布(繊維製品)・虎皮・豹皮(皮製品)人参・松子(しょうし)(薬用種)・清蜜(蜂蜜)など。

輸出品は、刀剣・朱腕・(ろく)(しつ)蝋燭(ろうそく)など。

幕府のお墨付きのない周布(すふ)氏独自の貿易であり、朝鮮国も公には認めず、限界があった。


それでも、周布(すふ)氏にとってあまりにも利益がある交易だった。

拡大したく、表の貿易だけではなく、裏での倭寇(わこう)的行為も行なっていく。

こうして、大陸貿易による莫大な利益を得て、周布(すふ)氏は豊かになる。

浜田は豊かな経済力を持ち栄え、宗家、益田氏は石見筆頭の勢力を保持した。


倭寇(わこう)とは、朝鮮半島、東アジア諸地域などで活動した海賊。

暴力的行為で金品を奪うのではなく、密貿易を行う貿易商人の事を言う。

この頃、領主、周布(すふ)氏が倭寇の頭領だったのだ。


時代を経て戦国時代になると、益田氏・周布(すふ)氏は、独自勢力を保てず、守護、大内氏に従うことになる。

大内氏滅亡後、毛利氏の配下に入る。

後に周布(すふ)氏は、毛利氏一門、長州藩家老となり長州藩政を率いる事になる。


幕末には周布(すふ)政之助が生まれる。

政之助は、周布(すふ)氏の歴史を脈々と受け継ぎ開明的思想を持ち、長州藩革新政権を率いた。

吉田松陰・高杉晋作・桂小五郎ら幕末のスターの庇護者となる英傑だ。

志半ばで倒れるが。

周布(すふ)氏の歴史が脈々と受け継がれ、長州藩で開明的思想が花開いた。


石見浜田は、徳川幕府により石見浜田藩となるが、折あれば海外に飛び出すとの思いは脈々と続いていた。

しかも、浜田の地で周布(すふ)氏が始めた密貿易は、密やかに続いていた。


伊勢松阪の貿易商、角屋七郎兵衛の対外貿易による成功も、浜田ではよく知られていた。

角屋七郎兵衛は、1631年、奉書船(老中の書いた貿易許可証)を得て、安南(ベトナム北部など)に渡り商品を仕入れ、日本に持ち帰り莫大な富を得ていた。


古田家は伊勢松坂藩から浜田藩に国替えとなった。

その際、浜田城築城普請と城下町づくりと、その後の藩財政の為に、多くの商人が必要だと伊勢松坂から呼び集めた。

商人を含め多くの息の掛かった人物が集まった。

以来、浜田と伊勢松坂の人的交流は盛んだ。


松阪には本居宣(もとおりのり)(なが)(1730-1801) の塾があった。

本居宣(もとおりのり)(なが)は、1760年から約40年間、医者で生計を立てながら、日本古典を講義し、幅広い知識を教授した。

伊勢国松坂商人の生まれだが、国文学者として名を成し一時期、望まれて紀州藩に仕えた。

だが性に合わず、学びたい人、慕ってくる人々に教えるのを好み、在野の研究者で満足した。

現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し35年をかけ『古事記伝』44巻を執筆する。

紀州藩から将軍、吉宗が誕生し紀州藩は人気があり、講義を望む人は多かった。


幕政を率いた(やす)(よし)は、学問好きで本居宣(もとおりのり)(なが)に深く傾倒し、藩士にも学ばせた。

それだけではなく、1639年の鎖国令後も手厚い庇護を受けた角屋家など、商都、伊勢松坂の隆盛や紀州藩の動向などの情報を得て、学んだ。


また、加賀藩の密貿易で巨万の富を成したとされる銭屋五兵衛(1774-1852)の持ち船も、浜田外ノ浦へ数度寄港し、種々の情報をもたらしていた。

銭屋五兵衛は、加賀藩家老、奥村氏と結び、加賀藩の暗黙の了解の下に、蝦夷地でロシアと、樺太では現地人と、香港・アモイで中国などと幅広く交易し、金沢藩に莫大な利益を献上していた。


薩摩藩の密貿易は、知らない者がいないほどだった。

幕府は、薩摩藩が琉球と貿易をすることを認めていたからだ。

交易の金額や内容を制限する取り決めを作ってはいたが。

琉球を薩摩の支配地とし、そこから得た収入が薩摩藩から幕府に還元されていた。


薩摩藩の交易を認めた以上、琉球で行われる諸外国との密貿易を真っ向から非難することはむつかしかった。

その為、幕府の追及は表面的で手ぬるかった。

長州藩や浜田藩など薩摩船の寄港を認めた藩は、薩摩藩がもたらす密輸入品の売りさばきに協力し利益を得ている。

 

(やす)(よし)の次が、娘婿養子、康定。

次ぎも娘婿養子、(やす)(とう)と続き、密貿易の情報は詳細にもたらされた。

浜田藩主となった松平周防守康(やす)(とう) (1780-1841)は、幕府の許可を得ない貿易は他の藩でも行われており、注意深く行えば、表ざたになることはないと考えた。


(やす)(よし)以降、浜田藩主は幕府の要職を占めており、(やす)(とう)は老中となり、鎖国の時代とはいえ諸外国の情報に詳しく、諸外国をよく分析していた。

しかも、引っ越しが続き、莫大な費用負担があった。

幕政に重きをなすことで権力を得たが出費も多い。

密貿易に比重を置かざるを得ない藩財政となっていた。


1830年から続く、石見浜田藩で行われた大掛かりな密貿易の首謀者は、今津屋八(いまずやはち)()衛門(もん)

松原浦(浜田市松原町)で御用回船問屋を営んでいた。

今津屋八(いまずやはち)()衛門(もん)の父、清助は、当時としては巨大な船を作り藩ご用達の任を果たしていた。


ところが巨大船ゆえ操船が難しく嵐で難破漂流した。

清助はオランダ船に助けられ生き残り南洋を廻って帰って来る。

その間、海外の状況をじっくり見た。

今津屋八(いまずやはち)()衛門(もん)は父から詳しく聞き「密貿易に危険は少ない。出来る」と自信を持つ。


松原湾内は、浜田藩最大の物流拠点で、瀬戸内海と北陸を結ぶ西廻り航路の中継点でもあり海外からの物資は高値で取引され、需要に追いつかないほどだった。

浜田藩の財政は窮乏し、立て直す方策もなく、藩財政を潤す富を生む密貿易を望む声は大だ。


そこに、今津屋八(いまずやはち)()衛門(もん)が現れたのだ。

浜田藩国家老、岡田頼母。

続く重臣、松井図書。

松浦湾を取り仕切る佐野主膳。

頼母の腹心、橋本三兵衛。

と揃って、それぞれの立場で今津屋八(いまずやはち)()衛門(もん)の話に耳を傾ける。

その大胆さと自信、藩への忠誠心にうなづいた。


こうして竹島((うつ)(りょう)(とう))を中継地点として、朝鮮、中国、南洋で交易が始まる。

その経済力を背景に藩主、(やす)(とう)は異例の出世を遂げ、1834年、老中首座となる。

藩校、長善館を創設し、柿木山の植林、たたら産業の保護、石見半紙の専売制など、産業文化にも力を尽くし、浜田藩は大きく伸びる。


栄華の時は短く1836年、(やす)(とう)は竹島を仲介所とする李氏朝鮮・清との密貿易を幕府密偵、間宮林蔵に暴かれる。

ここで、(やす)(とう)は老中を罷免され、蟄居謹慎を命じられ、藩主の座を降りる。

竹島事件だ。

関係者は死罪。

父、(やす)(とう)を受け継ぎ藩主になったのが、康爵(やすたか)

陸奥棚倉藩へ懲罰的な国替えとなる。


(やす)(とう)の出世を妬み、蹴落とそうと企み、後釜に座ろうとする老中、水野忠邦の策にはまってしまったのだ。

密貿易は公然の秘密となって居たが、(やす)(とう)が慎重に藩との関わりを避ければ方法はあった。

だが、老中首座の権力を握った(やす)(とう)のおごりと油断があった。


(やす)(とう)を蹴落としたい水野忠邦が、間宮林蔵を使い証拠をつかませた。

幕府密偵、間宮林蔵は、水野忠邦の考えを理解し、密接に結びついていた。

こうしてで(やす)(とう)を蹴落とした水野忠邦は、1939年に念願の老中首座となり、天保の改革に着手し、強権政治を断行する。


浜田と密貿易は切っても切れない長い歴史があり、密貿易は浜田を潤し幕府中枢の権力争いをも左右した。

一時期、浜田藩が大きく国政に関与したことを示す、事件だった。


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