㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町) 2
㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町) 2
2 松平氏一門、松井松平家、浜田藩主に
1648年、古田家改易の後、隣国の三次藩主(広島県三次市)浅野長治と津和野藩主(島根県鹿足郡津和野町)亀井茲政が管理した。
だが、管理を任せた直轄領では、統治があいまいで、中途半端な状態となる。
幕府は、浜田藩主をだれにするか焦った。
翌1649年、満を持して決めたのが、譜代の松井松平家、康映。
播磨山崎藩からの国替えで浜田藩5万石藩主となり浜田城に入る。
石見浜田はかっての西国の雄、長州藩毛利氏、外様藩の津和野藩に接している。
その為、毛利家への抑えが出来る藩主でなければならず、後任に難航したが、譜代大名、松平康映に決めた。
松井松平家、康映は毛利家への抑えという重大な役目を背負い浜田城に入った。
康映の父、康重は、家康の子と噂されていた。
康重を預けられ父とされたのが、家康家臣、松井(松平)康親。
預かった松井(松平)康親は、特別厚遇され、松平一門の女人との結婚が決まる。
ここで、松平一門となる。
そのうえで、松平一門家、松井(松平)家を興すことを許された。
我が子を預けた恩に報いる為、家康は康親は異例の大出世をさせたと皆が言う。
康重は特別厚遇され、それほどの功績はなくても、松平一門ということで和泉岸和田藩5万石大名にまでなる。
時が過ぎ家康も亡く、康重も亡くなり1640年、嫡男、康映が25歳で引き継ぐ。
庇護者が亡くなり康映は、岸和田藩を取り上げられ、まず播磨山崎藩に国替え。
次いで、石見浜田藩に国替えとなった。
石高はそのままで、より西国への国替えだから、栄転ではない。
父の威光がなくなったと思い知らされた。
そんな侘しさの中で浜田に移る。
康映は、自力で力を発揮しなければ、松井松平家に未来はないと覚悟を決める。
能力を試されるが、幕府の意向に沿い譜代の浜田藩だと誇りをもって踏ん張る。
毛利への抑えの役目を果たし、治安維持も問題なく果たし力を見せた。
藩主は、康映の嫡男、康官。康官の嫡男、康員と順当に続く。
ところが、康員に後継なく家督をめぐり一族内に対立が起きる。
康員は弟を養子にしたが家督を引き継ぐ前に亡くなった。
すると1709年、分家した旗本、松平康郷が暗躍し幕府の支持を得て後継の道を創る。
我が子、康豊を藩主にしたのだ。
お家騒動で家中は二分され混乱し、天災も起き、藩財政は苦境に陥った。
康豊は苦しい藩財政の中で藩主になり、出発点は厳しく、必死で藩政の舵を取る。
幕閣中枢にいる旗本の父、康郷に支えられ、藩財政を立て直していく。
そんな時、1716年、紀州藩主、吉宗が、思いがけず将軍となった。
吉宗は、張り切って幕府の重臣を大きく入れ替える。
康豊は、運がよかった。
父と相談、康豊は実家と共に吉宗の新しい時代に乗ろうと決めた。
1719年生まれの康豊嫡男、康福を吉宗に仕えさせた。
幼いうちから吉宗に仕え、認められ、新しい時代の波に乗り、康豊は浜田藩を再生盤石にしていく。
26年間、藩主の座を守る。
康福は、成長し幕政に参与し、幕閣の一員となる。
康福17歳で父が亡くなり、家督を継ぐ。
父の教えに従い、浜田藩主として吉宗に仕え、幕府の重職を次々こなしていく。
吉宗嫡男、家重に付きとなる。
家重が将軍になると、嫡男、家治付きとなり、側近となる。
家治が、次期将軍として西の丸に入ると西の丸老中にまでなった。
1762年、将軍になると老中になり、幕政を率いる。
吉宗・家重・家治と3将軍の側近く仕え、家治からは特に深く信頼された。
そこで、康福は、同い年の田沼意次と出会い、意気投合する。
田沼意次と盟友となり、幕政を共に担う仲となる。
意次の経済政策に賛同し、庇護者にもなった。
そして、幕政改革を共に推し進め、幕府を主導していく。
幕政に参与する時間を確保する為、国替えを希望し、1759年、江戸に近い下総国古河藩主になる。
下総国古河藩主は本多家だった。
徳川四天王の一人、本多忠勝の嫡流である本多忠敞が藩主だった。
だが、不運に見舞われた。
美濃郡上藩主、金森頼錦は、領内で起きた百姓一揆(郡上騒動)を抑えられず、幕府は改易した。
金森氏の親戚、西丸若年寄、本多忠央の対応に不備があったゆえだと、連座して改易される。
すると、本多本家、忠敞も連座し石見藩に国替えとなったのだ。
本多家の左遷に便乗し、康福が下総国古河藩主となった。
そこには田沼意次や康福の暗躍もあった。
3年後の1762年、康福は、国替えで三河岡崎藩主となる。
大坂城代となり、三河岡崎藩主が便利だったのだ。
この間、本多家は、故郷に近い藩を望み続けた。
康福は、浜田藩の価値を再確認し、戻りたくなっていた。
両社の思惑が一致し、1769年、康福は、本多家の希望通り岡崎藩国替えを決め、自ら石見藩主となる。
老中として加増され、石見浜田藩5万5千4百石藩主としての国入りだ。
本多家は、希望が通り、岡崎藩に戻り、感謝した。
康福は、10年間、本多家が治めた浜田藩に加増の上戻り、満足だ。
田沼意次と息の合ったコンビで幕政改革を成し遂げ、1781年に老中首座となり、幕閣の頂点に達する。
1785年には、加増され、浜田藩は6万400石となる。
この間、康福は娘と意次の嫡男とを結婚させる。
そして、意次の子を養子とした水野忠友と固い絆を結ぶ。
田沼意次・康福・水野忠友は手を携え、老中となり幕府に迫る難事に立ち向かう。
康福には男子が生まれず三人の姫が生まれた。
長女は、分家の旗本、松平康定と結婚。
娘婿養子とし家督を継がせる。
次女は、田沼意次の嫡男、意知と結婚。
三女は、大給松平家、松平乗保(1748-1826)と結婚。
乗保は、康福が幕閣での後継とすべく目をかけていた。
美濃岩村藩(岐阜県)3万石藩主を引き継いでおり、老中とする。
3人共、分相応かそれ以下の家格だったが、能力を認め引き立てた。
康福は田沼意次を存分に働かせることを政治信条とし、自らの覇権を目指すことはなかった。
控えめに生きたつもりだったが、康福の栄華は長くは続かなかった。
1784年、期待の婿、意知が暗殺されたのだ。
反対勢力の姑息なやり方だと嘆くが、意次と共に急速に求心力をなくしていく。
1786年、将軍、家治が亡くなると、田沼意次は、完全に失脚した。
康福は必死で意次を守ろうとした。
だが、幕閣の主流は、新将軍、家斉の信を得た松平定信に移っていく。
1788年5月、康福も失脚。
そして7月、意次が亡くなる。
後を追うように、1789年3月、康福も亡くなる。
意次の盟友だったと誇り、栄華を極めたと、さっぱりした満足の死だった。
死の前、屋敷が火事となり、大切にしていた鶴を避難させるよう命じたが、一羽取り残され焼死する。
責任者が、ひれ伏すると「あの鶴は千年目だったのだろう」と軽く受け流し咎めなかった。
太っ腹で物事に動じないユーモアがある藩主だった。
浜田藩を愛し、その価値を認め、幕政を率いた名君だ。
康福は、田沼意次と共に行き詰った幕府の財政を立て直した。
意次は重商主義を取り、いずれ、外国との貿易を拡大し幕府の利益を増やすことが幕政改革に必要不可欠だとした。
康福は、意次の考えの実現のために後ろ盾となった。
意次は、採掘が伸びなくなっていた金銀の鉱山を、埋蔵量が豊富な銅へと切り替え活用するべきだと動いた。
そして、鉱山開発から流通システムの構築を図り、効率の良い経営を目指した。
付加価値の高い俵物(中にフカヒレや干しアワビなど高級食材を入れた)など高級品を作り、販売額を増やす。
等々、産業育成成長の政策は多方面に広がっている。
康福は、外国貿易の拡大を浜田藩にも当てはめたいと考えた。
「対外貿易は価値があり、常に考えなければならない施策だ」と。
志半ばで、敗れ、思うほどには実現できなかったが。




