㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町)1
㉘ 浜田城(島根県浜田市殿町)1
浜田城は石見国(島根県西部)の中心に築かれた。
日本海に突き出した本丸は、北の松原湾と南西に流れる浜田川によって三方が天然の外堀になり、東に築かれた堀は良港となった。
眼前の日本海の眺望も見事だ。
標高68mの丘陵上に築かれた堅固な城であり城下・海上から仰ぎ見る三階天守は領民を温かく、そして強く守る。
近世城郭の築城ラッシュが続いた後の築城で、円熟期に達した築城技術で築かれ、近世城郭のお手本のような良く出来た平山城となった。
1 秀吉直伝の堅固な名城、浜田城
浜田藩主の居城として築かれた浜田城。
幕府は、1619年、石見国の一部を浜田藩5万4千石として成立させた。
初代藩主は、古田重治だ。
伊勢松坂藩からの国替えで石見に来た。
秀吉から得た伊勢松坂藩を非常に気に入り、精魂込めて藩政を執ったのが、重治の兄、重勝。
1606年、兄の死で、重治が後継となった。
ところが、1615年、大坂の陣の後、本家、古田織部が豊臣家内通の罪で、罰せられた。
連座責任を取らされ、国替えを命じられた。
浜田藩には城郭がなかった。
幕府は、特別の配慮で、築城を認めると伝えた。
幕府が、築城を認めるのは、築城するようにとの指示だ。
古田重治は、かつて吉川家などが陣屋を置いた鴨山(後、亀山と名称変更)に居城を築くと決め幕府の了解を得る。
こうして、1620年から1623年の足かけ4年の歳月をかけて浜田城を築く。
古田家は、築城好きの秀吉に従い、築城経験は豊富だった。
外様大名に資金を使わせ余裕をなくさせる策と思いつつも、築城技術を駆使して築いた。
大坂の陣が終わるまでは、幕府は各大名に築城を勧めた。
関ヶ原の戦いの結果、全国的に国替えが行われ、居城のない大名が続出し、居城の整備に力を入れる必要があったからだ。
その築城技術は、信長・秀吉の望んだ近世城郭のために開発された築城技術でもあった。
西国大名の持つ高度な築城土木技術が家康の命じる天下普請で発揮される。
その高い築城技術で、豊臣包囲網が出来ていき、土木技術を全国の諸大名が習得していく。
幕府の安定化のために大きく寄与した。
だが、豊臣家が滅びると、城は必要がないと幕府は新たな築城を禁止した。
その中で、古田氏に築城を進めたのだ。
戦国時代、石見国は大内氏・尼子氏の二大勢力が争っていた。
そこに安芸広島から始まり中国地方を平定した毛利元就が現れ、大内氏・尼子氏を滅ぼした。
1566年、中国地方を平定した毛利元就は、石見支配を次男、吉川元春に任した。
吉川元春は英明な卓越した武将で、名君と称えられ石見は安定していた。
まもなく、毛利氏は秀吉に屈し、秀吉の天下となる。
それでも、石見を含む120万石を安堵され、吉川家が引き続き石見を支配する。
だが、1600年の関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍の総大将となり家康に敗北した。
毛利家は、石見を追われた。
毛利家が去ると、徳川直轄領となり津和野藩主、坂崎直盛が管理する。
石見銀山のある石見国は浜田藩・津和野藩・徳川直轄領に分かれ続くことになる。
その後、1619年、浜田藩初代藩主に決まったのが、古田家。
古田家は、美濃衆で美濃守護、土岐家に仕えた。
戦国時代、土岐家は斉藤道三に取って代わられ、次いで、美濃(岐阜県南部)は信長の支配下になり、古田家も信長に仕えるしかなかった。
古田家嫡流は、重安でその弟が古田重定。
分家、重定の子に、重然(古田織部)、重則、重続がいた。
当主、重安に男子が生まれなかった。
そこで、重然(1543-1615)が叔父、重安の養子となり、古田家を継ぐ。
重然は、文武に優れ、茶人、古田織部の名でも高名だ。
千利休の後を継ぎ秀吉の茶頭になった骨太の茶道の達人だった。
それだけでなく、武将としても抜群の力を持ち、名将と尊敬された。
分家を継いだ重然の弟、重則も、兄に従い信長・秀吉に仕えた。
重則嫡男、重勝(1560-1606)も少年の頃から秀吉一筋に仕え、子飼いの武将となった。
重勝を気に入った秀吉は、本家、重然(織部)とは別に重勝に古田家分家を起こさせた。
そして、近江国日野に領地を与えた。
1595年には伊勢松坂藩3万5千石、初代藩主にまで引き立てた。
松阪に入った重勝は、秀吉流城造りに携った豊富な経験を生かし、松阪城の大改修を行ない、秀吉から褒められた。
関ヶ原の戦いでは、東軍に属し戦功もあり、家康から加増され伊勢松坂藩5万5千石藩主と加増の上、安堵された。
1606年、重勝が亡くなる。
嫡男、重恒(1603-1648)はまだ3歳だった。
家中で協議し嫡男、重恒が成長するまで、重勝の弟、重治(1578-1625)を藩主とすると決め、幕府も了承した。
1614年、大坂の陣が起きる。
豊臣恩顧の大名、重治だが、秀頼の頼みを聞かず大坂方に与する事なく、家康勢として大坂城を攻撃した。
幕府は豊臣家に味方する外様大名を徹底的に取り締まろうとしており、重治も古田家を守る為、家康に忠誠を尽くした。
重治は、細心の注意を払い、幕府の厳しい目をかわしたが、本家が網に引っかかった。
夏の陣の直後、叔父、古田家嫡流、重然の豊臣家内通が暴かれ、1615年7月6日、幕府は重然に切腹を命じた。
この結果、古田重治一族にも厳しい目が向けられ、大坂に近い松阪は紀州藩領となり、古田家は遠い西国、浜田に移らされた。
重治は徳川家に忠誠を尽くし、恩ある豊臣家を滅亡に追い込んだ結果が、西国行きだったと、情けなく虚しかった。
それでも、秀吉から学んだ名将としての技量を見せると、精一杯の力を込めて浜田城を築城し、浜田藩政に取り組む。
重治、自慢の城が完成するが、徳川幕府は、身分不相応な堅固な城と見た。
徳川幕府が安定した時代での築城とわきまえ、軍事的機能より、城下の人々に力強い領主の存在を示すための象徴としての城でなければならなかった。
重治も、平和時の近世城郭を築いたつもりだった。
それでも、幕府から見れば、三方を天然の外堀に囲まれた守りの固い堅固すぎる城だった。
重恒が成長した1623年、重治は約束通り、甥、古田重恒に家督を引き渡す。
浜田藩2代藩主、重恒の妻は、重治の娘。
だが、重恒には、子が生まれなかった。
養子を迎えるしかない。
重恒は、徳川家ゆかりの養子を迎えるのが第一とは思う。
それでも、一族の誇りだった重然(織部)の不運を思うと、古田重然ゆかりの養子を迎えたかった。
幕府は喜ばない。
後継者を決めかねる重恒に対し、家中は焦った。
早く決めないと幕府の目が厳しい。
後継者を選び幕府に届け出、将軍にお目見えさせて始めて次期藩主となれるのだ。
早く手続きを踏まないと浜田藩安泰に繫がらない。
それどころか、後継なしと改易にもなる。
重恒の悩む心を理解せず、幕府に近い家老衆が後継者を決めようと画策する。
重恒は怒り、家老を処罰。
待っていたように、内紛をおこしたと、幕府は決めつけ、藩主としての能力なしとする。
以後、幕府は養子を認めず、後継ぎを決められないまま重恒は死去。
後継者なしとされ改易だ。
将軍、秀忠の茶の湯の指南役でもあった古田重然(織部)だが、秀吉の茶道指南役でもあったし、利休を受け継ぐ天下の茶人であり、高名な文人だった。
豊臣色を消し去りたい幕府にとって厄介な存在だったのだ。
そこで、豊臣家に通じたと処罰し、茶の湯を通じて幅広い交友関係を持った古田重然(織部)の影響力を消し去ろうとした。
重恒は、古田重然(織部)と通じるところが多かった。
そこで、幕府は内紛の形で養子を認めず改易させた。
秀吉恩顧の外様大名に幕府は冷たい。
以後、毛利家への抑えの為、浜田藩は譜代大名が治めることになる。
浜田城は、幕府の威光を山陰に見せつけるために築かれた城だった。
古田家は、幕府に浜田城を贈呈するために藩主になった。
浜田城が完成すると用済みと消し去られた。




