㉖ 広島城(広島市中区基町)1
㉖ 広島城(広島市中区基町)1
広島城は、毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城
毛利氏の居城、吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した広大で堅固な山城だった。
山陰・山陽を結ぶ要所でもある。
そのため、軍事力を強化し、領土の拡張に邁進し、中国から近畿・四国・九州にまで、領土を広げた毛利元就には価値ある居城だった。
だが、元就の孫、輝元の時代、秀吉に従い、秀吉が天下を掌握する頃になると、戦うための城である意味が小さくなる。
権力の象徴として、城下町の中心として整備し、政務・商業の振興が主目的となる「近世城郭」の必要性が大になる。
中国地方9か国112万石(小早川ら一族を含めると150万石以上)の大大名、毛利氏には、山間部の山城、吉田郡山城では広大な領地を治めきれない。
近世城郭に生まれ変わることも出来ない。
そこで、海上交易路である瀬戸内の水運を活かし、城下町を形成するために、広大な平野のある海沿いの地、広島に居城の築城を決めた。
その後、西軍総大将となって、家康と対峙した毛利輝元。
だが関ヶ原の戦いで完敗、敗戦の責任を取らされ、去り、1600年、引き継いだのが福島氏。
秀吉の親戚であり、豊臣恩顧の筆頭格だった。
だが、幕府に嫌われ、1619年改易。
引き継いだのが、豊臣家を引き継ぐと、家康が見なした浅野長晟。
ねねに引き立てられ、家康の娘婿となり、広島城主となる。
幕末まで安芸広島藩42万6000石居城として、広島城を守り続けた。
■浅野長晟とは
1586年、秀吉の妻、ねねはすべての愛情を注いだ嫡男、秀勝の死の衝撃に打ち沈んだ。
信長4男の秀勝は、信長から養子として与えられた秀吉・ねねの嫡男だった。
我が子を生むことがなかったねねには、正室の座を守る唯一の宝だった。
ねねは、秀勝の側近として妹、ややと浅野長政に生まれた嫡男、幸長をつけた。
秀勝を支え、豊臣政権を主導する役目を与えようとした。
秀勝が亡くなり、幸長は主君をなくし、秀吉の側近くで仕えることになった。
秀吉は、秀勝に付けた多くの小姓・近習をそれぞれ別の部署に振り分けた。
あっという間に、秀勝は忘れ去られたかのように、誰も話題にしなくなる。
秀勝の死に合わせたかのように、ねねと秀吉の仲も、自由奔放な無敵の天下人と子のいない正室と化し、一心同体で助け合った伴侶かつ戦友の時代は過ぎた。
そんな時に長晟が生まれた。
妹、ややの次男だが、秀勝の生まれ変わりのように思えた。
秀吉に近侍し会うことが少なくなった幸長の身代わりにも思え、長晟を幼い時から再々呼び寄せ可愛がった。
ねねは、縁ある3家系を身内として引き立てた。
ねねの母の実家、杉原本家。
杉原本家の分家であり、秀吉が名を与えたねねの実家、木下家。
ねねの養家であり、妹、ややの婚家、浅野家。
それぞれの当主、杉原家次・木下家定(ねねの兄)・浅野長政(ねねの義弟)を豊臣家重臣にしたいと後ろ盾になった。
秀吉も一族として重用していくが、次第に冷めた評価をしていく。
ねねも納得するところだが。
杉原家は、家次が近江国坂本城を与えられ、丹波福知山3万2千石藩主にまでなるが、藩主になって1年余り1584年、急死した。
嫡男、長房(1574-1629)が引継ぎ秀吉に仕えるも、一からの始まりされた。
秀吉に忠誠を尽くしようやく但馬豊岡3万石の領主となるも、もっと重臣になりたかったし、ねねもしたかった。
秀吉に重用されない分、秀吉との縁は薄くなり、秀吉死後、家康に取り込まれ内通し、関ヶ原の戦いで西軍に属したとみなされても、所領安堵される。
木下家は
家定嫡男、勝俊(1569-1649)が若狭国8万石。
家定次男、利房(1573-1637)が若狭高浜2万石。
家定三男、延俊が家定と共に姫路城2万5千石をそれぞれ得た。
ねねの実家としての体面をどうにか保てる処遇だった。
その分、秀吉とのつながりが深く、関ヶ原の戦いでは、それぞれが中立を保ちそれぞれの立場でねねを守った。
ところが、家康は厳しく、西軍とみなし、改易だ。
ねねは、家康の沙汰に納得できず、以来、家康と冷静に対処していく。
それでも、家康に協力してきたと訴え、高齢の家定が備中足守に2万5千石藩主となり、どうにか家名を守らせた。
秀吉は杉原家を評価せず、木下家はねねの縁戚としてそれなりに優遇、豊臣家一門重臣とした。
ねね一門として、高く評価し優遇したのは浅野家だった。
家康も似たような評価をした。
幸長は豊臣政権を主導する武将に成長し、ねねも秀吉の処遇を正しいと思う。
幸長の代わりにそばに置いた長晟も、兄に劣らず賢く育ち、可愛かった。
ねねは、長晟を傍近くに置き、顔をほころばせながら武将としての心得を教え、学問も怠らないよう面倒を見る。
長晟はわが子のように思えた。
1594年、幸長が秀次付きとなり、長晟は入れ替わりに8歳から秀吉に仕えた。
長晟は兄、幸長のようになると、うきうきと秀吉に仕えた。
だが、4年後、秀吉が亡くなる。
あまりに短い主従の期間だった。
長晟は、元服前で、まだ武将として認められていない。
ねねも、秀吉死後の対応に追われ、召し抱えることはできない。
長晟は、兄幸長の家臣となるしかなかった。
秀吉側近となり、出世が約束されていたのにすべてがだめになったと、将来が不安になり呆然とする日を過ごす。
この頃は、家康から全く気にもかけられない存在だった。
そして、家康の天下となる。
ねねは秀吉から1万5千石化粧料を得ており、家康も安堵し、優雅に暮らす。
人質として京に来た秀忠の面倒を見て以来、秀忠とは親しい関係が続いている。
家康は、心中信頼できないが、豊臣家のため、相応に付き合っていこうとした。
それでも、豊臣家の将来に不安が渦巻いていく。
そこで、家康の協力が得られるうちにねねの終の棲家、高台寺を建立したく思う。
家康に高台寺の建立への支援を丁寧に願う。
天下人、家康の確立はまだまだで、ねねとの親密な関係は必要と家康はにこやかに賛成した。
高台寺(京都市東山区)建立に、家康をはじめ諸大名がこぞって賛成し支援した。
広大な寺領に伏見城から移築した建物や、きらびやかな堂宇が立ち並んだ。
室内の装飾には桃山様式の贅を極めた蒔絵が施された。
その上、蒔絵調度類が多数作られ「蒔絵の寺」と呼ばれる豪華絢爛な寺となる。
秀吉の冥福を祈る寺であり、ねねの菩提寺だ。
1608年、ねねの兄、備中足守藩2万5千石藩主、家定が亡くなる。
ねねは家定嫡男、勝俊に遺領が与えられることを望み、秀忠の内意を得た。
だが、家康は次男、利房に与えた。
ねねは納得できず、秀忠の内諾を得ていると、勝俊・利房の共同相続という名目で勝俊に与えた。
利房には、ねねの化粧料である領地を相続させるつもりだ。
家康は激怒した。
関ヶ原の戦い時、伏見城から無断で逃げた勝俊への憎しみは、ねねの想像を超えたすさまじいものだったのだ。
勝俊は、戦いを好まず、ねねを守ると伏見城を去っただけだったが。
ねねは、家康が家定の遺領すべて取り上げると息巻いていると聞く。
家康の木下家・豊臣家への冷たい対応を知り尽くしている。
時代は移った、家康が天下人なのだ。
悔しいが、どうすることもできない。
それでも、兄、家定が一番頼りにした勝俊にいくらかでも相続させたいと、長晟に家康との取り次ぎを頼む。
ねねは兄の一家臣として、黙々と働く長晟に活躍の場を与えたかった。
我が子のような長晟だが、秀吉・ねねの側に居たことで家康に無視されていた。
豊臣家はまだ健在であり、家康にとって、ねねを取り込むことに多少の意義があることを、ねねは知っている。
長晟に家康と会う機会を与えることで、きっと良い結果が生まれると確信した。
家康は、ねねの言い分に聞く耳を持たなかったが、取り次ぎをした長晟の態度の良さが気に入った。
そこで、木下家から備中足守藩を取り上げ、長晟に与える。
兄の一家臣にすぎない長晟22歳にとって、予想外の展開だ。
思いがけず、大名となったのだから。
ねねは、きっとこうなると予想していたが。
秀忠に幼いときから仕え、気に入られている妹、ややの3男、長晟の弟、長重は、すでに大名となっていた。
弟、長重に比べ、はるかに遅れたが、長晟は、ようやく大名になった。
苦渋の10年をひたすら兄に仕え、耐えて、長晟に花が開いた。
まだ本人はわからなかったが、ねねは、長晟の優秀さを見抜いており、これでいいと受け入れた。
長晟は、秀忠が足守藩を木下家が引き継ぐ事をねねに認めている、と知っており、ただ預かっただけだと、自らを戒めた。
勝俊嫌いの家康により一時的に与えられた中継ぎの藩主でしかなく、足守藩は木下家に返還されるべきなのだ。
1610年から長晟は木下家に礼を尽くしつつ、足守藩主として藩政に携わる。
この頃、長晟は、家康は弟、長重を気に入っていると、思い込んでいた。
今まで家康から相手にされず、ひたすら兄に従い豊臣信奉者の多い和歌山藩内の治安維持と安定のために働いた。
嫡男の兄、幸長は常日頃「浅野家は、一丸となって家康様に尽くし、生き残るしかないだ」と長晟に言った。
「幕府の信を得つつ秀頼様を支え豊臣家を守るのが、秀吉様に引き立てられた浅野家の進むべき道だ」と。
兄を尊敬する長晟はうなずき、兄に尽くした。
ところが、ねねの頼みに応じ、思いもかけず足守藩主になった。
兄と離れ独立した。




