㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町)6
㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町)6
■房姫の決断、中村氏の終焉
それでも、結婚生活は続き、房姫に子が授かった。
男子が生まれれば、家康の外孫であり、中村家は安泰のはずだと、家中は喜ぶ。
ここで、ようやく房姫主従に笑顔が戻る。
子が授かった喜びに浸っているとき、京で一忠に男子、小武が生まれたと知らされる。
一忠は隠していたが、家中には幕府に忠節を尽くす家臣がおり、すべての情報が家康や房姫に知らされた。
房姫は、一忠に裏切られた腹立たしさと「私(家康養女)への裏切りは、反幕府に通じる動きと見なされ、幕府への忠誠心を疑われる」と心配で頭を悩ます。
米子藩京屋敷。
一忠が、生まれ育った豊臣時代からの屋敷だ。
この屋敷は居心地がよく、再々利用した。
京屋敷、3千石家老は、矢野正倫。
一忠の守役でもあった。
矢野正倫が、滞在する一忠の世話をさせたのが、信頼置ける縁戚の女人だった。
そして子を身籠った。
徳川の姫を正室に迎えた以上、正室が認めない限り側室の存在はあり得ないにも関わらず、その存在が側室として、房姫や幕府に伝えられた。
妊娠を知るとすぐに実家に戻し、何ら関係がないと押し通すべきだった。
なのに、一忠は何があっても隠さなければならないという意識がなかった。
それどころか矢野正倫は「身内が殿の子を身籠った」と大喜びなのだ。
出産まで大切に守り続け、隠すことはなかった。
しかも、大坂城の秀頼の元を訪れ連絡を取り合っていることがバレていた。
すべてが幕府に敵対する行為であり、豊臣方の人物と断定される。
1608年半ば過ぎの事だった。
房姫に姫が生まれる。
誕生の祝いに房姫の元を訪れた一忠に「私を軽んじるのは幕府に対しての謀反と見なされます。仲むつまじくし男子が生まれなければ結婚の意味はありません。殿(一忠)の首を絞めるようなものなのです」と鋭く追及し、責めた。
京で男子、小武が先に生まれ、房姫には姫が生まれ、落胆し、つい興奮した。
一忠に2度とこのような事をして欲しくないと思いの丈をぶつけたのだ。
一忠はうなづき詫びながらも、次第に、房姫を避けていく。
会いに来るときは少なくなった。
一忠には普段政務を執り、暮らす屋敷がある。
房姫の屋敷とは別だ。
そこに、叔父、一栄の後継、栄忠が、家臣であり一族でもある娘、梅里(梅里伯清の娘)を推し、一忠に仕えさせた。
倉吉に移り米子城を留守にすることが多くなった栄忠が、一忠との緊密な関係を保つ為に、一忠側近に自らの家臣を置いた。
その一人だ。
房姫との仲が険悪になると、一忠と同い年の梅里との仲が、深まってしまう。
一忠は江戸・京・米子を忙しく行き来し、家康婿だと胸張り、幕府に忠誠を誓っていた。
それでも、幕府に縛られない自分なりの藩政を執ろうとした。
庶子の誕生も含めて、米子藩主として自分の道を進み始めた。
すると1609年6月12日、一忠は19歳で急死した。
房姫は、この日が来ることを予期していた。
姫が生まれ、一忠を激しく責めて以来、二人の仲は冷めてしまった。
言うべきでないことを言ってしまった後悔の念はあったが、一忠が幕府に縛られない藩政を目指した証でもあった。
家康が許すはずがないことを考えたのだ。
幕府は、房姫以外の女人との間に男子を儲け、反幕府の意思を表したと見た。
すると、一忠が急死し、結婚生活は6年で終わった。
房姫は、振り返る。
初めの3年は、一忠との仲は良かったが、一忠を理解できていなかった。
才ある夫として、満足していた。
子を生める年になると、米子藩の置かれている状況が見えてきた。
一忠は、幕府第一を言いつつ米子藩主として藩政を執れない状況にもがいていた。
房姫はすぐにでも嫡男が生まれるはずだと、希望に燃えて一忠の訪れを待った。
だが、房姫が思うほどには、一忠は思いに応えてくれなかった。
それでも一忠は主君、家康の娘として最大限に敬意をもって接し、子を授かった。
すでに遅く、京屋敷の女人の事は、公然の事実となってしまっていた。
家康の養女を正室に迎えた外様大名は、正室が子を生める年齢を過ぎるまで、側室を持つことはなかった。
たとえ、側室がいたとしても公になる事はなく、子が生まれても存在自体、闇に包まれた。
正室が許せば別だが。
一忠の死後、まもなく、梅里が、男子、一清を生む。
「中村家の存続の為に、一清様を房姫様の養子とし嫡男とし、幕府に認められるよう取り計らってほしい」と家臣が房姫に嘆願した。
一清は中村家の血筋を受け継ぐ男子であり、房姫も心動かされる。
一栄は米子騒動の黒幕の一人と見なされた一氏の弟だ。
幕府への裏切り者だった。
一栄の養女格の生母であり、幕府が認められない子だ。
一方、家老、矢野正倫も、京屋敷で大切に庇護していた男子を後継にと願う。
房姫は、自分の子しか幕府は後継に認めないとよく知っていた。
二人の男子を養子とし、我が子だと幕府に申し出れば、伯耆米子藩をそのまま引き継ぐことは難しいが、石高は減っても後継を認められるかもしれない。
実現は困難だが、やってみてもよいと思った時もあった。
だが、生母の庇護者は、幕府の認める事の出来ない米子藩重臣であり、彼らと一忠が結託していたことは明白だ。
「幕府は認めないし、房姫様をないがしろにする許されないことです」と近習は言う。
房姫も同意した。
すると重臣が、姫に徳川家に縁がある男子を婿養子に迎え、中村家の存続をと願う。
一忠及び家臣の幕府への忠誠心を疑っていた家康は、改易しか考えていなかった。
豊臣家が幕府に対して臣従の姿勢を見せず、豊臣家をどうすべきか悩んでいる最中であり、豊臣恩顧の武将に囲まれている一忠は抹殺すべき対象でしかない。
幕府は、姫の誕生の報告も、後継についても一忠から何の申し出もなかったと一喝した。
房姫は、米子藩中村家は幕府にとって必要のない外様大名なのだと思い知る。
姫は存在さえ公にされず、寺に引き取られ、房姫の手を離れた。
ここで、幕府は後継者なしと断定し、中村家はわずか二代で断絶する。
幕府の裁定に納得できなかった矢野正倫は、一忠の嫡男がいると直接幕府に届け出た。
房姫を抜きにしてはあり得ないことで、即刻却下だ。
それを見て恐怖した梅里母子は、栄忠の元に隠れた。
江戸に戻る前に、房姫のすべきことは、残された藩士の行く末に助力する事しかなかった。
米子藩に残された資金を皆に分けるよう、房姫の嫁入り調度すべてを置いていくと伝える。
豊臣恩顧と見なされる一忠側近の後ろ盾になることは出来ない。
後を引き継ぐ池田家を頼るのを良しとするぐらいだ。
幕府に近い家臣は、そのまま旗本になるべく、手はずは整えられていた。
一忠が亡くなるのを知っていたかのように。
豊臣か徳川かはっきりしない家臣は、浪人か地元で帰農や商人となったりする。房姫は、中村家が解体されていくのを寂しく見つめる。
江戸に戻る日が近づき、米子城引き取りに来ていた幕府側と引き継ぎする。
すると、待っていたかのように、依藤半右衛門・中村栄忠伊豆守・河毛備後守の3名が伯耆米子藩の財宝を隠匿していると暴かれた。
彼らの権限はなくなり、彼らの持つすべての財産は没収され、彼らは身を隠すしかなかった。
こうして中村一忠の忠臣は、名誉も資金も取り上げられ、追い出された。
しばらく後に、中村一清は、池田家に引き取られた。
房姫は、家康の用意周到な巧妙さに身を震わせ、自分が中村家を安泰にする役目を果しえなかったと非力を嘆く。
そして、一忠が精魂込めて築いた米子城に別れを告げ江戸に戻る。
秀吉に一氏ありと絶賛された中村家は2代で断絶し家康に笑みがこぼれる。




