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㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町)4

㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町)4


■横田騒動

結婚式を終えると、(ただ)(かず)は、房姫とゆっくり話すこともなく側を離れた。

直後に藩を揺るがす大騒動が起きる。


(ただ)(かず)は、横田内膳の祝いを、屋敷で受ける。

(ただ)(かず)がお膳立てし予期した通り、わずかの伴だけで来た。

横田内膳が推して(ただ)(かず)近習とした近藤善右衛門がおり、守ってくれると信じていたからだ。

それでも、すぐに、不穏な雰囲気を感じる。


その時、安井清十郎が切りかかった。

(ない)(ぜん)も夢中になって応戦する。

多勢に無勢追いつめられ、とどめを刺したのは近藤善右衛門だった。

横田内(ない)(ぜん)村詮は、近藤善右衛門が裏切るとは信じられず、無念の思いの中で、最後の最後まであがき、死んだ。


近藤善右衛門。

横田内膳の推挙によって中村家の家臣となる。

1500石と弓20挺を得て、重臣となり、一氏に仕える。

近江の藤原氏を祖とし、遠江引佐郡を得て勢力を広げ、国人となり、今川氏に従った一族だ。

今川氏凋落後、徳川家に仕えたが、関東には従わなかった。

一氏が駿府支配を始めると(ない)(ぜん)に全面的に協力し推され一氏家臣となる。

(ない)(ぜん)配下の武将のはずだった。


横田内(ない)(ぜん)の近習は、(ない)(ぜん)の命令で一目散に逃げ、嫡男、横田主馬助に報告する。

主馬助も主君と父の仲が気まずかったことをよく知っており「父の無念を晴らす」とすぐに反撃の体勢を整える。

米子城の東の砦、飯山城に横田主馬助、三好右衛門兵衛、三好左内、三好玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、安井太平、近藤九右衛門らを集め、武装して立てこもる。


横田内(ない)(ぜん)を支持する一族郎党が、一忠に反旗を翻し戦いを宣言した。

内膳によって、中村家重職を担い、恩に感じていた家臣たちだ。

横田主馬助は(ただ)(かず)のいとこであり、安井家・近藤家は身内で分かれた。

こうして、家中を二分する内紛が始まってしまった。


横田村(むら)(あき)内膳は家康に近い武将との繋がりを深めており、一族は家康が救うはずだと信じ籠城した。

家康に近い家臣は動かなかったが。

中村家中にとっては、身内同士の戦いだ。

中村家中は一氏の元、結束の強い強く優秀な家臣団が揃っていた。

内紛を好まない。


そのため、(ただ)(かず)に従う家臣の多くが、力が入らず横田勢に「投降してほしい」と願い、それぞれの伝手で、和解を試みる。

その為、なかなか鎮圧できず、(ただ)(かず)は、隣国の出雲松江藩主、堀尾吉晴に助けを求め、援軍を得てようやく鎮圧した。


この時活躍したのが、内膳の客将、柳生五郎右衛門宗(むね)(あき)だ。

剣豪として名が知れた柳生一族の中でも最強の剣豪の一人だ。

内膳と同郷で、内膳が招いていた。

妻は、旧今川家家臣で、若き秀吉を召し抱えたことで有名な松下之綱(1537-1598)の娘、おりん。

中村家重臣、松下吉綱(1535-1598)の一族だ。


同じく、おりんの妹は、中村一族に繋がる中村正吉に嫁いでいる。

浜名湖の軍船を支配した旧今川家家臣で、今川領を家康配下に置くことに功をなした。

家康の側室を屋敷に預かり、結城秀康が生まれるまで大切に守ったことで有名だ。


駿府支配時、一氏は、家康の臣だが、駿府を動かなかった武将を家臣として召し抱えた。

その時、家康の意向も尊重し、一門とすべく縁付けた武将も多い。

家康と一氏の家臣が入り組み、多くが、そのまま米子に移った。


(むね)(あき)従臣、森池五郎八(いろは)

彼も剣豪だった。

(むね)(あき)森池五郎八(いろは)主従は、横田派を助け、思う存分戦い、衆目を集め、家康に中村氏憎しの大義を見せつけ、果てた。


(ただ)(かず)は、計画成就にほっとし、安井清十郎を700石から6000石への大幅加増とし筆頭家老に任じる。

わずかの期間だけだが。

伯耆米子藩の内紛は、事態を見守っていた家康に知らされる。


待ち構えていた家康は、想定内の事として、関与者の処罰を決める。

安井清一郎、天野宗杷には、取り調べることなく、反逆罪だと切腹を命じる。

豊臣家に近い家臣を米子藩から追い払い、豊臣家から切り離すための騒動だ。

首謀者は有無を言わさず殺した。

そうすれば、中村家のかじ取りが楽になるからだ。


一氏は、駿府を治めていた頃から家康の手腕を認め、家康の駿府支配の手法を受け継いだ。

秀吉死後は、家康への臣従の証として、人質を兼ねて身内を江戸に送り秀忠に仕えさせた。

父の考えを知る(ただ)(かず)は、家康に敵対する考えは全くなく内膳の排除だけを考えた。

結婚に期待し、徳川一門になることを誇りに思っていたのだから。


家康は、秀吉の腹心、一氏が家康に与した事で豊臣恩顧の大名を動揺させ、徳川方に引き込んでいる。

その功は大だと、結婚まもない(ただ)(かず)を責めず(ただ)(かず)の側近の責任とした。

この時点では、(ただ)(かず)の周囲を、家康の息のかかった臣で固めることと、豊臣家からの切り離しが、主であり、大成功だった。


豊臣家が健在であり、家康は豊臣恩顧の外様大名の処遇に細心の注意を払った。

そして、徳川江戸幕府を創設し、万人が納得する天下人を目指した。

豊臣恩顧の有力大名を、自らが配した家臣との内紛でつぶすのが周知のこととなれば、他の豊臣恩顧の大名が反発するのは明らかだ。

慎重に、大義なき改易は避けなければならない。

ここは、家康の太っ腹を見せ、中村家の処遇は、じっくり考えればよいとした。


ただ、横田内膳を増長させたのは、家康の厚遇と家康が配した家臣によるところが多く、関係者を罰し、家康との関わりを絶った。

道家長右衛門、道家長兵衛は処罰された。


家康は、秀吉死後を考え、中村氏が駿府城主になると、徐々に家康方に取り込んできた。

主に、中村家重臣の取り込みから始めている。

野一色氏・朝倉氏・大藪氏・小倉氏・志村氏・松下氏などとは、江戸に招いたり、家康との取次ぎを頼んだり、後には江戸詰めを命じるなど親交を深めた。

最終的に、一族を旗本として取り立て、幕府に忠誠を誓わせている。


若き藩主、(ただ)(かず)が何を考えようとも、周辺は幕府第一の家臣団で固まった。

中村家の行く末は、いつでもどうにでもできる状態だ。

こうして、(ただ)(かず)は、何も咎められずに、内紛の始末を終えた。

幕府の裁定を気にした(ただ)(かず)は、米子藩は守られたと、ほっとするが。


ようやく、結婚式はしたものの、落ち着いて話すこともなかった幼い房姫と一忠との結婚生活が始まる。


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