㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町) 3
㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町) 3
■房姫(浄明院)と一忠、結婚。
一忠は、家康養女、房姫と結婚すると決まっていた。
加増国替えが知らされた時、同時に打診があったのだ。
断ることは出来ない。
家康との縁は、中村家に大切なことと、家中は賛同した。
家康は、幼君、一忠のために、国替えが落ち着いてからの結婚で良しと、取次役を道家長右衛門、道家長兵衛に命じた。
二人は、米子と江戸を往復しながら具体的に結婚の準備を進める。
取次期間が長くなり、道家長右衛門、道家長兵衛は、米子に在住することが多くなる。
同時に、家康からの指示で、豊臣恩顧の中村家中と豊臣家との関係を探り、中村家中の様子を逐一報告する役目も担う。
また、将軍家兵法指南役、大和柳生藩1万2500石藩主、柳生宗矩の兄、柳生五郎右衛門が、妻の縁で呼ばれ、同郷の内膳の客将となり、米子に居た。
家康・柳生宗矩のよく知るところだった。
柳生家は、大和の土豪であり、軍事力に秀でており、大和国支配者、三好長慶・松永久秀に従っていた。
だが、秀吉の時代となると秀吉に素直には従わなかった。
大和は、秀吉の弟、秀長の領地となり、柳生家は力をなくす。
柳生家の剣豪としての名声はゆるぎなく、門下には毛利輝元などがいた。
1594年、黒田長政の仲介で対面「無刀取り」を披露し兵法指南役となる。
に迎えたいと申し出を受ける。
ここから、柳生宗矩が剣道師範として家康に仕え始める。
それより前、兄は、中村家に仕えた横田内膳の客将となっていた。
道家氏は信長旧臣。
平安時代、九条家の美濃・尾張・三河にある荘園の管理を行い、主人、九条道家の名を自らの姓とする。
その後、在地し多くの分家が出来た。
尾張で、信秀に仕え、信長の幼少の頃に側近くに付けられた道家一族がいた。
当主、清十郎は、1570年、近江宇佐山城攻めで弟、助十郎と共に討死する。
信長は「天下一の勇士だ」と褒めた。
と伝わる見事な戦いぶりの勇猛な武将だ。
美濃衆として斎藤道三に仕えた後、信長に仕えた一族もいた。
信長は、滝川一益に付けた。
滝川一益は妹婿とし、一門に加えた。
生まれたのが甥、道家彦八郎正栄。
滝川家が失脚し、正栄の子、道家長右衛門・道家長兵衛は家康に仕え、房姫の結婚の取次ぎを命じられることになった。
結婚に伴い、房姫の付け家臣となり、中村家に仕える。
家康が任じた付け家臣だが、池田家・中村家との縁も深く、順当な人選だった。
中村家中は、家康の姫を迎えることに沸き立ち、一忠も楽しみにした。
家臣一同、結婚により豊臣恩顧から名実ともに、徳川一門へと変わると期待した。
嫡男が生まれれば米子藩の安泰は間違いないと側近たちは顔をほころばした。
家康への複雑な思いはあっても、家康が天下人であることは誰の目にも明らかで、天下人と一門になり深く結びつくことは、中村家にとって有益であると家中一同信じた。
1603年12月16日、一忠13歳は家康養女、房姫と結婚する。
一忠は、祝宴に乗じて叔母婿、横田村詮をおびき寄せ、殺害すると決めていた。
家康の娘としてはるばる米子に嫁いで来た房姫は、家康の異父弟、下総関宿藩(千葉県野田市)4万石藩主、松平康元の娘。
家康の母方の姪になる。
家康の母、お大の方が家康の父、松平広忠と別れた後に久松俊勝と再婚し、再婚後に生まれた最初の子が康元だ。
松平康元には5男6女が生まれている。
彼女たちの結婚すべてに家康が関与している。
家康が天下人を頭に描く前に嫁いだ上の娘3人は、譜代の家臣との結婚だった。
下の3人の娘は、天下人を目指す家康の養女となり外様大名との結婚となる。
4女、満天姫(1589-1638)は安芸広島49万石藩主、福島正則(1585-1608)の嫡男。
5女、久松院は筑後柳川32万石藩主、田中忠政(1585-1620)。
6女、房姫(1593-1653)が、伯耆米子18万5千石藩主、中村一忠だ。
3人とも外様つぶしの刺客となり、時間に多少のずれはあるが、藩を改易に追い込み100万石を幕府に献上する。
幕府安泰に多大な貢献をした才媛姉妹だ。
房姫は1593年、父、康元41歳の時、生まれた。
子沢山の康元だったが、房姫は末っ子であり、愛情に恵まれて甘やかされて育つ。
房姫は姉達の豪華な嫁入り支度を見てあこがれ「私も姉上のように殿様(家康)の養女になりたい」と願った。
父は笑って言った。
「大丈夫だ。殿様(家康)はきっと叶えて下さる」
願い通り、姉、久松院の結婚後まもなく、家康養女として中村家への輿入れが決まる。
婿殿は、秀吉政権で中老という重職を担った中村家御曹司、中村一忠だった。
関宿藩の四倍以上の大藩、伯耆米子藩主だ。
結婚が決まり、房姫は小躍りしながら母に中村一忠とはどのような人かと聞く。
ここから3年間、家康の養女として相応しい教養を身に着ける勉学の日々が始まる。
姉たちの嫁入り支度に見入って覚えた婚礼調度が、望むままにしつらえられる。
房姫に、一忠の人となり教えてくれたのは、結婚の取次役であり、結婚後は付け家臣となる道家長右衛門、道家長兵衛だ。
中村一忠は、わがままなところもあるが真面目で一本気で能力のある藩主だと、詳しく聞かされる。
房姫は、3歳年上の一忠がすてきな若武者に思え、嬉しくてうきうきしながら結婚の日を指折り待つ。
1603年9月19日、房姫の父が、亡くなる。
結婚3ヶ月前だった。
父は「帰るところはないと思い嫁ぎなさい。中村家に尽くし、一忠殿と仲睦まじくするように。必ず男子を生むように」と別れがつらそうに話してくれた。
父の言葉を胸に抱きしめながら、まもなく、米子に向かった。
父を亡くした傷心の日々だが、一忠も同じ様に父を亡くしており、どこか親近感があり、身近に思え、きっと良いことがあると思える旅だった。
(中村一忠が)幕府に忠実に従う藩主となるよう支える事。
徳川家の縁戚になる嫡男を生む事。
と意味はよくわからないが、何度も繰り返しつぶやく。
房姫は、まだ子を生める年ではなかったが、生まれたときから仕えている乳母が妻としてすべきこと、夫婦の秘め事をとても良い事だと教えた。
母代わりで米子に付き従う。
「妻としての役目は簡単だ。必ず出来る」と房姫は旅を楽しんだ。
米子までは遠かったが、家康の姫として各地で歓待され晴れがましく養女に選ばれた喜びをかみしめる。
1603年12月16日、冬の寒さを感じながら房姫10歳と一忠、13歳は米子城で結婚式を執り行なう。
房姫(浄明院)は、盛大な結婚式が行われ歓迎されていると感激した。
夫、一忠の緊張している様子は痛々しいほどだったが、房姫を見るまなざしは優しさがあふれていた。
これからの日々が実り多いと思え、自然と笑みがあふれた。
一忠は「結婚を機に、藩主として藩政を執る」と強く決意していた。
天下人、家康の婿となりながら、藩主として藩政を執れないのは耐えがたいと、天野宗把・安井清十郎ら側近の意見を聞いたうえでの結論だった。




