㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町) 1
㉔ 米子城(鳥取県米子市久米町) 1
1591年、吉川広家が中海に望む標高90mの湊山(鳥取県米子市)の地に築城を始める。
だが築城半ばで関ヶ原の戦いでの敗者となった。
改易され去った。
1600年、関ケ原の戦いで東軍に属した中村一忠が伯耆一国17万5000石を得て、米子藩主となり、城入りする。
築城半ばの米子城に入り、築城を続ける。
山頂の本丸、北側中腹の二ノ丸、その下に三ノ丸を築き近世城郭を完成させた。
四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が並び立ち、城域の周囲の堀は海水で満たされている。
山陰一の名城として人々に愛される。
■米子藩主、中村一忠
秀吉が、全幅の信頼を置き家康を追い出した後の駿府城を与えた、中村一氏。
3中老の一人とし秀吉死後、豊臣政権が円滑に行われる為の仲裁役とした。
だが、秀吉の後を追うかのように関ヶ原の戦いの直前、亡くなる。
亡くなる直前、すがっても詮無い相手、家康に中村家を託し、藩政は弟、一栄に委ねた。
重ねて、弟、一栄に「中村家の一門筆頭として嫡男、一忠が立派な藩主となるまで、見守るよう」と遺言した。
中村一氏は、優秀な家臣団を培っており、駿府という立地の良さで家康と親しい関係を築き、秀吉から家康への主君の移行も自然にできるはずと信じていた。
まだ、幼い一忠だが中村家を立派に引き継ぐと、何度もつぶやき、逝った。
一栄も「必ず、一忠殿を、兄上のように育てて見せます」と誓った。
一見、すべてが一氏生前と変わらず、引き継がれた。
こうして始まった関ヶ原の戦い。
一忠10歳の後見として一栄が大将となって戦う。
中村勢は、犬山城攻めでは勝利し、杭瀬川の戦いでは敗れたが、大垣城の戦いで活躍、関ヶ原では毛利軍の押さえをした。
だが、一氏ほどの軍事の冴えはなかった。
家康は、中村勢の戦いぶりをよく観察した。
そして秀吉を信奉する家臣が多い中村氏家中を外様と見なし、冷たく厳しい恩賞を与えた。
中村家の加増は、わずか3万石しかなかった。
しかも引っ越し費用の掛る西国、伯耆米子藩17万5千石に国替えを命じた。
中村一氏は、駿府を故郷とも思うほど気に入っていた。
領民からも慕われ、善政を敷き、名君と謳われていたが、かけがえのない地から引き離された。
東軍に属した豊臣恩顧の諸大名は、倍増近い加増となる恩賞を得たものが多かったのに。
徳川家の本拠、江戸から遠く離れさせられ、わずかの加増に、中村家中はがっくりだった。
一忠は駿府城を追い出され、築城が7割方進んでいた米子城を居城とせざるを得ない。
完成まで時間も費用も莫大必要だ。
一忠はすべてを理解できる力はなかったが、望んだ結果ではないと感じた。
叔父、一栄が、怒り悔しがっていたからだ。
その上、家康は戦死した筆頭家老、野一色助義(1548-1600)の後任を、一氏の妹婿、横田内膳(1552-1603)と決めた。
一忠も一栄も、驚き、納得できなかった。
中村家への家康の干渉に気味悪さまで感じた。
この時点で、中村氏に内紛の種がまかれたのだ。
内膳は家康の抜擢に喜び張り切り、一忠の後見をする。
一栄は一門筆頭であり、一忠の親代わりとして後見人であることは認められたが、藩政からは遠ざけられ、影響力は格段に減った。
一氏が全幅の信頼を置きすべて託した弟は、力のない一門筆頭に祭り上げられた。
野一色助義は、中村勢最強の軍事力を持ち、戦いの主力だった。
一栄と呼吸がぴったりと合う盟友でもあった。
残された男子は4人。
関ヶ原の戦いを前に、人質として江戸に送られた長子、助重(1589-1615)は、戻されることなく、そのまま秀忠に仕える。
ずっと人質として扱われ、後に旗本となる。
そこで、家督は次男、義重が継ぐと決められる。
家康は、義重はまだ幼いと家老の地位を取り上げた。
助義の弟が代わって家老とはなるが、一家老に過ぎず藩政への影響力は減った。
野一色家はかっての権限を行使できず、不満を募らせる。
野一色助義は筆頭家老として8000石を得ていたが取り上げられた。
代わって、横田村詮内膳は家康より6000石を得る。
かっての筆頭家老家は、家康の名を振りかざす内膳に冷遇されていく。
一氏は、横田内膳の行政手腕を認めていたが、中村藩政を取り仕切る権限は与えなかった。
あくまで、行政の力を認めただけだった。
1583年、秀吉に勧められ、召し抱えた時、横田内膳はすでに30代、妹婿とし一門とはするが、再婚だ。
内膳には、前妻との間に嫡男、主馬助が生まれていた。
妹との間に子は生まれず、一氏は、横田家を中村家の血を引き継ぐ一門とは見なさなかった。
優秀な家老の一人に過ぎなかった。
家康は、すべて承知であえて、筆頭家老にした。
一栄は、駿府時代に要所、沼津三枚橋城(沼津城)を得て守った。
米子でも同じく要所、八橋城(鳥取県東伯郡琴浦町)3万石を得て、藩主の次に位置する。
一門筆頭の座は揺るがない。
一忠も、一栄を父とも思い信頼していた。
だが、家康の沙汰は納得出来ず、悔しく情けない。
筆頭家老、野一色助義と一門筆頭、中村一栄で、中村家を支えるはずだった。
野一色家嫡流は、追いやられ、叔父が一家老となった。
一門筆頭、中村一栄は、一忠の後見人とはなったが、一家老に過ぎなくなる。
横田村詮が家康の後ろ盾でその上に位置することになったのだ。
一栄は、一忠が藩主として自立するまで中村家を率いる責任を果たしたかった。
そこで、一氏が望んでであろうことを横田村詮に申し出る。
だが、家康の意向を重視する横田村詮とは意見が対立するばかりだ。
譜代の臣も、横田村詮と意見が合わない。
故郷や長浜時代からの股肱の臣が、横田村詮内膳が新たに召し抱えた新参の家臣に追いやられていく。
そのうえ、一栄は、屈強だった自分の身体が病にむしばまれていくのを感じる。
兄嫁、おせんの方や兄の死が続き「中村家は呪われている」と恐怖心が芽生える。




