㉓鳥取城(鳥取県鳥取市東町) 2
㉓鳥取城(鳥取県鳥取市東町) 2
■信長と乳兄弟、池田恒興。弟、長吉。
信秀に最後まで仕え心より愛したお養は、突然の死がつらく理解に苦しむ。
信秀は、戦いが続き心身ともにすり減らす、過酷な暮らしを続けていた。
たが、着実に勢力を伸ばしていた。
今川勢との戦いは、厳しさを増していたが、戦い甲斐がある相手だと胸を張って話した。
そんな信秀の不可解な死だった。
お養は、信秀の正室ではなく、織田家に直接関与できる立場にはない。
すぐに「感傷に浸っている時ではない。池田家を背負っていることを忘れてはならない」と頭を切り替える。
そこに、信長から那古野城に来て仕えるようにと恒興に命令が来る。
信行からは、引き続き、自分に仕えるよう命じられる。
恒興は、このまま、信行に仕えたいという。
ここで、お養は、迷うことなく信長を選ぶ。
恒興にも池田家中にも信長に忠誠を尽くすのが池田家の進む道だと厳しく命じる。
信秀の当然の急死で、信長は嫡男であると後を継いだが、家中をまとめきれてはいない。
不安定な立場の信長を守ることこそ、恒興の役目だと、お養は厳しく命じた。
お養は、再び、信長に仕えることになった。
とても嬉しかった。
信秀との愛の日々は幸せだったが、主君としての器量は信長が上だと見抜いた。
「(信長は)最高の主君だ」と固い信念を持っている。
だが、恒興16歳にとって、主君は信秀であり信行だとの思いが強い。
お養にとって、命をかけて育てた信長は、我が子以上の存在でもある。
だが、信秀の急死で家中は動揺しており、信長18歳の立場は非常に厳しく、亡き者にしようと襲われる恐れもあった。
お養は、濃姫を立てつつ、信長の絶対的信頼を後ろ盾に、信長が奥にいる限りは、側近くを離れず、細心の注意で身辺警護に気を配り、緊張が続く。
織田家は、代々尾張守護代を務める家柄で、名門だ。
だが、信長の織田家は、守護斯波氏・守護代織田本家の下に付く三奉行家の一つでしかない。
信秀は猛将で本家を凌ぐ覇権を確立し専横を極めたが、本家筋から憎まれ敵も多かった。
本家は、この機会に若年で力も未知数な信長の織田家を潰すと、織田一門家中を巻き込み動いた。
お養は信長の尋常でない姿を見続け、困難が増すほど闘志を燃やす性格も見抜いている。
緊張の日々であっても「信長様は必ず家中をまとめ率い、果てしなく伸びます」と穏やかな笑顔を浮かべ信長を励ます。
信長は、周囲に祭りあげられた弟、信行との家督争いに対峙する。
1556年、信行が謀叛を起こした。
未然に防いだ信長は、母の願いもあり許した。
だが、翌1557年、またしても謀反の動きがあった。
信長は「二度目は許さない」と謀殺を決める。
そこで、信行を信用させ、おびき寄せ、とどめを刺す役目を、信行と親しい恒興に命じる。
お養も恒興に「主君は信長様だけだ。迷うことなく命令を守りなさい」と強く命じる。
恒興は、しぶしぶ役目を果たす。
ここでようやく、信長は信秀との愛を選び、逃げ去ったお養親子への不信感をぬぐい去る。
恒興の忠誠心を大いに褒めた。
続いて、信長は信行を扇動した守護代を滅ぼし、織田本家の居城、清洲城を奪い入城する。
そして尾張守護、斯波義銀(1540-1600)を傀儡とし、尾張の支配権を一手に握る。
恒興も信行を裏切った負い目から立ち直れないでいたが、信長の快進撃と、見事な采配ぶりに心打たれ「信長様こそ命を賭け仕える主君だ」と確信する。
ここで、主従は強く結ばれる。
お養は、目的の為に冷酷になりきり、苦しさの中で身を切る犠牲を払う信長の鋭い先見の明を改めて見て、尊敬する。
こうして、信長は、織田家中をまとめ、次なる飛躍の道を進む。
信長は「義理の弟であり、乳兄弟だ」と恒興を可愛がり、信長一族とした。
恒興は、織田家宿老として、織田家を主導する力を持っていく。
その力を見込んで、秀吉が近づいた。
信長の筆頭家老とならんとする秀吉は、恒興を味方としたかった。
そこで、恒興3男、長吉を、秀吉の猶子(継承権を持たない養子)に望んだ。
長男、元助は嫡男で家督を継ぐと決まっていた。
次男、輝政は、荒尾家に養子入りしていた。
その為3男、長吉が選ばれた。
秀吉は改めって「池田家と縁戚になり、ともに信長様に尽くしたい」と思いを話す。
こうして、長吉は、秀吉の養子となった。
長吉も兄二人より偉くなった気分で嬉しかった。
秀吉に尽くし、可愛がられた。
だが、1582年、信長は本能寺で死んだ。
恒興は長吉を通じて秀吉と親戚だとの思いがあり「後継は秀吉だ」と決めた。
そして、秀吉の織田政権獲得に大きく貢献し、秀吉から盟友扱いされる。
秀吉は、一門として共に新たな信長政権を創りたいと話した。
そして、恒興娘、若御前と秀吉の後継と見なされる秀次との結婚を決めた。
ところが、父、恒興・兄、元助の死と不運が続く。
長吉は、3男だが、秀吉の猶子であり、秀吉に推され池田家家督を継ぐと信じた。
だが、秀吉は、次男の兄、輝政を池田家後継に決めた。
他家を継いでいる輝政が家督を継ぐことは納得できなかった。
秀吉に裏切られたと、理解できない不運を嘆いた。
それでも、秀吉に忠誠を尽くし、2万石を超える所領を得る。
そして秀吉の死。
長吉は「(秀吉は)兄、輝政を厚遇し、兄に比べ、あまりに、自分への評価が低すぎる」と不満が渦巻いていた。
秀吉への忠誠心は、揺らいでおり、家康に傾いていく。
そして迎えた関ケ原の戦い、一点の曇りもなく家康に従い、戦った。
恩賞で鳥取藩6万石を得た。
秀吉から得た所領の3倍増で、鳥取城を得たのだ。
兄、輝政との差に落ち込むが、それでも、喜んだ。
ここから、思い描いていた念願の近世城郭の築城に取り掛かる。
秀吉のもとで学んだ、築城技術を駆使し、名城を築いていく。




