㉓鳥取城(鳥取県鳥取市東町)1
㉓鳥取城(鳥取県鳥取市東町)1
戦国時代、但馬守護、山名氏が久松山の自然地形を活かし築いた山城、鳥取城。
何度かの攻防戦があり、毛利家が奪い取る。
次いで、秀吉との攻防戦となり、1581年『鳥取城の渇え殺し』と世に有名な惨状が起きる。
秀吉から配下の武将、宮部氏に与えられるが、関ケ原の戦いで、西軍に属し改易。
東軍に属し戦功を上げた池田氏が1600年、恩賞として得た。
池田長吉が6万石大名として入城、近世城郭に、拡大改修する。
1617年、引き継いだ池田光政が大藩、因幡・伯耆32万5千石藩主として入城。
ここで、鳥取城は、大大名の居城にふさわしく、さらに拡張整備され、城下町も整備された。
■信長の乳母、お養
鳥取城を拡張改修し、近世城郭の原型を築いたのは、池田長吉(1570-1614)。
長吉の祖父は尾張池田氏の祖、池田恒利。
祖母は、お養(1515-1608)。
池田家家付き娘として、恒利を婿養子に迎え引き継がせたのだ。
お養は、信長の乳母となったことで、女傑として名を残す。
恒興を育て、池田家の要となり池田家を発展させていく。
長吉は、お養の嫡男、恒興を父に荒尾御前を母に生まれた。
嫡男、元助・次男、輝政に次ぐ3男だ。
嫡流、池田宗家は、元助・輝政と続く。
後には、この家系が鳥取藩主となり、幕末まで続く。
長吉は、関ヶ原の戦いの恩賞で秀吉時代の3万石に3万石加増され鳥取藩6万石藩主となる。
一国一城の主となるのが幼い頃からの夢で、長年の夢が実現すると興奮した。
思い通りの城を築くと張り切って、築城を始める。
全力を傾け拡大改修し、鳥取城は自慢の居城となる。
池田家は古代豪族の紀氏を始まりとし、清和源氏・橘氏と血筋が入り組んでいくが、綿々と続いた家柄だ。
美濃に在地し、治めた時から美濃池田氏と名乗る。
源頼朝の鎌倉幕府の開府に、源氏に繋がる武将として従い、勝ち残った。
恩賞として、美濃池田荘地頭職に加え、摂津(大阪近辺)地頭職を得る。
摂津は豊かで歴史ある地で喜ぶが、勢力争いが続く支配するのが難しい地だった。
治めるためには、より強い軍事力が必要で、懸命に軍事力を強化し領地を守る。
こうして、摂津池田氏と称する一族ができる。
摂津の支配が軌道に乗ると、戦乱続く京にまで勢力を伸ばしていく。
摂津池田氏は京の覇者の間でうまく立ち回り、有力国人の地位を確立する。
この頃には、摂津池田家が美濃池田氏を凌ぎ、宗家と見なされていた。
影が薄くなった美濃池田氏だが、尾張に出て織田家に仕えた一族がいた。
時が過ぎ、尾張池田家は力を蓄え、織田家中で有力家臣となっていく。
尾張池田氏に生まれたお養の父、政秀は、摂津池田家から迎えられた母の婿養子だった。
二人の間には、男子は産まれず、生れたのは娘二人だけだった。
そこで、長女、お養に婿を取ることになった。
政秀は娘婿に実家、摂津池田家ではなく、縁戚になる河内国高安郡(大阪府八尾市東部)の有力豪族、高安家から選ぼうと考えた。
すると、高安家は、滝川家の次男、恒利を薦めた。
高安家と滝川家は摂津池田家と尾張池田家と同じく同族であり縁戚が続いていた。
この頃、滝川家は、高安家から婿を迎え、4人の男子が生まれていた。
滝川家の本拠は、美濃近くの近江甲賀だ。
摂津池田家にも、尾張池田家にも縁ある、滝川家の次男が、恒利だった。
そこで、政秀は、恒利に会い、武勇に優れた若武者であること。
将来性がある力を秘めていると確かめた。
こうして、摂津池田家から政秀、続いて甲賀武家の滝川家から恒利が家臣を引き連れ尾張池田家に入り、彼らの実家も尾張池田家を支援する。
尾張池田家の軍事力は格段に充実していく。
そして織田家の力を飛躍させた勇猛な主君、織田信秀が褒める戦いをしていく。
尾張池田家は、織田家中で有力な家臣となっていく。
恒利が信秀に仕えて5年目、1534年、勝幡城で信長が生まれる。
信長は、信秀の嫡男として複数の乳母が選ばれ育てられ、まもなく、信秀の居城、那古野城に移る。
那古野城に移った信長は、環境の変化に適応できず、2歳になっても、乳離れが出来ない。
乳母の乳は、次第に先細りとなる。
信長は乳が出なくなった乳母に怒り暴れる。
父、信秀は仕方なく、乳の良く出る新しい乳母を探すよう命じた。
その時、推されたのが、出産直後のお養だった。
推したのは、信秀の家老、森寺秀勝。
池田家は森寺家の与力とされ、戦うことが多かった。
森寺秀勝の妻は、お養の妹で、森寺家は池田家を一門と見なしていた。
お養は、恒興を産んだ直後だった。
乳房は痛いほどに張り、乳は吹き出すほどに出た。
信秀に呼ばれ、目通りを済ませると、直ぐに城の奥に入る。
信長を見て、抱き上げると、惜しげもなく胸をはだけ、乳を含ませた。
信長は吸い寄せられるように乳を飲み、お養の乳房に手を添える。
その様子をおもしろそうに見ていた信秀は、うなずき、乳母として召し抱える。
お養は信長が満足するまで乳を与え続けた。
信長に乳を含ませながら、安らかに眠り始めた美しい顔を見つめた。
「運命の出会い。ありがとうございます」と心の底から湧き出る愛しさを感じる。
直ぐに信長の心を掴み、唯一の乳母になる。
主君の嫡男の乳母は、なりたくてもなれない憧れの役目だ。
池田家の出世や名誉をもたらす誇るべき仕事であり、喜びで輝く目は美しかった。
だが、那古野城を離れることが出来なくなり、信長につきっきりの暮らしとなる。
我が子、恒興のもとには戻れず、恒興が不憫で、寂しくて、辛い面もある。
かんしゃく持ちで、気分屋の信長が愛おしく、乳母である喜びに浸る。
見とれるほどに、整った顔の信長が、お養にしがみ付き、乳をねだる様子に照れてしまうほどだ。
幼い信長だが、目を離すことが出来ないほど動き回り、知恵も発達していた。
周りの状況をよく見て、相手に応じて、甘えたり、気取ったり、威張ったり、と変幻自在に態度を変えるのだ。
その様子を興味深く見続ける。
幼いながらの状況把握の的確さと、きわだった自己表現に感動してしまう。
並の主君ではないと確信する。
お養は、後世の信長を見抜き信長に自信と安らぎをもたらした最初の人となる。
信秀も満足し森寺秀勝を褒め、母を取られた恒興の面倒を見るように命じた。
恒利には、お養の功に報い、那古野(愛知県名古屋市中川区)城近くに屋敷を与え、親子が頻繁に会えるようにする。
信長は4歳になろうとする頃、乳離れした。
それでもお養を離さない、お養も嬉しくて、池田家・恒利が信秀に重く用いられるよう懸命に尽くす。
だが、1538年、肝心の夫、恒利が亡くなってしまう。
家付き娘として池田家を継いだが、残された恒興はまだ2歳、先行き不安で落ち込む。
自分で池田家の未来を切り開くしかないと気を奮い立たせていくが。
そんなお養の心を見抜く信秀。
森寺秀勝に恒興の後見を命じ、恒興が家督を継ぐことを許す。
信秀は、戦が強く、勢力をさらに強めていた。
1539年、今川氏との領地争いが続く東方面の防衛を強化するため、古渡城(愛知県名古屋市中区)を築城し移る。
ここから、信秀の居城は古渡城となり、信長は那古野城を居城とする城主となる。
1546年、信長は元服し林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介が付家老となる。
ここまで、信長の側にずっと仕えたお養は一つの区切りをつけるべき時が来たと、信長の元を辞する旨を信秀に伝える。
お養には乳母としての顔と、もう一つ女としての顔があり、その決意も同時に伝えたのだ。
信秀を好きだったのだ。
信長の乳母になった時から信秀の熱い視線を感じ、心ときめいていた。
そして、夫の死後、何くれとなく気を遣ってくれた信秀への感謝の思いは募るばかりだった。
信秀も同じ想いだった。
そして、信秀の誘いで側近くに行く事が増え、そのうち男女の仲になった。
信長に仕えること、信秀に愛されることに、幸せを満喫した。
信秀が古渡城に移ることになり、お養は冷静に現実を見た。
自分の役目は終わった、これで良いとあきらめる時が来たのだと。
そこで、お役目辞退を申し出たのだ。
信秀は、許さなかった。
時々、那古野城に来て、寂しかったとお養を抱く。
信秀との逢瀬は、めったに会えない寂しさとこのままいつか忘れ去られる怖さを併せ持ち、興奮で我を忘れるほどだった。
信長が元服すると池田家を守る暮らしに戻ると決意した。
中途半端な状況は嫌で、信秀からも信長からも距離を置くべきで、池田家・恒興のために働かなくてはならないと冷静に自分を見た。
覚悟を決め、不退転の決意で、信秀に想いを伝えた。
すると、信秀は、恒興10歳を召し抱えるので、伴い古渡城に来るよう命じた。
信長は、お養と離れたくないと暴れたが、引き離される。
お養は31歳、信長と離れるのはつらいが乳母の宿命であり、恒興の信秀近習への取り立てを喜び、共に移った。
待っていた信秀は、恒興を近習とし、お養を側室とした。
信秀のお養への愛は強く、側に置きたくて、側室とし身分保障をしたのだ。
ここから、お養は堂々と信秀の愛妾として、古渡城の奥に目を配る。
二重の晴れがましさで天にも昇る思いだった。
恒興は、古渡城に住む同い年の信長の弟、信行に仕えつつ信秀の薫陶を受けた。
そして、信行と共に恒興は、一人前の武将になっていく。
信秀は、信行がお気に入りだった。
1548年、信秀は古渡城より東に末森城(名古屋市千種区城山町)を築く。
末森城を信長の弟、信行の居城とするためだ。
末森城を信行に与え、信秀自身もお養を伴い末森城に移る。
ここから、恒興は、信行に仕える。
主従の関係だが、兄、恒興と弟、信行のような仲の良さで、3年が過ぎる。
この間、お養は信秀の愛を独占し、子が授かる。
1551年、末盛城で小田井殿を産む。
36歳の高齢出産で、恥ずかしかったが、無事生まれ、主君の子の母となった。
だが、出産後まもなく、信秀は急死した。
あまりに若い41歳だった。




