㉒津山城(岡山県津山市山下)2
㉒津山城(岡山県津山市山下)2
■別れが続くえいの暮らし
えいと可成は成し遂げた満足感で抱き合い、毎年のように子が授かる。
えいは目鼻口元がはっきりした美形だ。
歳を重ねたが、まばゆい美しさを保ち、森可成は愛おしくてならない。
骨太で豊満な姿態を持ち、どの子も安産で、元気に健やかに育つ。
えいは、子の安らかな寝顔を見ながら子供を授かった愛の時を思いだす。
めくるめく愛に身をゆだね、子が授かりたいと、可成の手を握りしめた。
そして子が授かった。
えいは幸せだった。
「この幸せは仏様のご加護」と信じた。
林家は本願寺(浄土真宗)を篤く信仰し、えいも幼い時から影響を受け、信仰心は篤い。
成長とともに悲惨な戦いを見て、心の平安を求める宗教心がふつふつと湧き出た。
向学心も驚くほど強く、仏の教えに関する書物を読み漁った。
古今の書物を読み学ぶのに夢中の時、女人も成仏できるという本願寺の教えに目を輝かせ、ますます、浄土真宗に帰依した。
『報恩感謝の念仏を唱えることで浄土へ往生する』教義が雷に打たれたように体中に入り込んだ。
信仰心は、えいに高い志を持たらし、より一層、芯のある強い女人となる。
金山城に入城すると「亡き母の菩提を弔いたい」と妙願寺を建立する。
林家の本家筋、稲葉一鉄の妻は、三条西実枝の娘。
本願寺を率いる顕如の妻は三条公頼の娘、如春尼。
三条西実枝の子、実綱は、三条公頼の養子となり家督を継いでいる。
つまり、実綱を介して一鉄の妻と顕如の妻は姉妹なのだ。
えいは、妙願寺の建立にかける思いを、稲葉家(実枝の娘)を通じ如春尼に伝えた。
そして、8歳年下で、まだ21歳の若き如春尼と.出会う。
揺るぎない信念を持って、熱き想いを訴え、如春尼も共感し親交を深めていく。
妙願寺の建立に、細かく指示し、出来ることは自ら手伝い、心を込めた堂宇が完成する。
心のよりどころが出来、ますます教義を奥深く学び続ける。
敬虔で優秀な信者であると同時に、庇護者としても名が知られていく。
森家の奥を仕切り、次々生まれる子達の世話にも気を緩めることはなかった。
信長は天下取りを目指し、進撃を続け、森家は戦い続けた。
1570年、手塩にかけた嫡男、可隆の初陣の日が来る。
最近は、戦いに出る父、可成の留守中、金山城代の役目を果たしていた。
信長が上洛を果たし京に政権を打ち立てた後、可成は、近江宇佐山城(滋賀県大津市南滋賀町)の守りを任された。
京に近い地であり、京で危急あれば、すぐはせ参じる役目だ。
在京の織田家臣団は見事な働きぶりで、京は朝廷公家武家領民すべてが、信長支持にまとめていった。
京の治安は安定し、全国各地の支配者が、信長に臣従を示していく。
信長は、快く受け入れ、機嫌がよかった。
その中、臣従の姿勢を見せない朝倉勢がいた。
怒った信長は、許せない攻め潰すと、越前への侵攻を開始する。
可成はその戦いを嫡男、可隆の初陣とすると決めた。
えいは、出陣の準備を整える。
たくましく成長した可隆の姿を目にして、しみじみと幸せを感じる。
「立派な一人前の武将になりました」と声を弾ませ褒めた。
次いで「父上に従い手柄を立てるように」と戦いに送り出す。
1570年5月29日、朝倉方の越前敦賀・手筒山城(福井県敦賀市)攻めの戦いが始まる。
可隆は、緊張しつつも、胸を張って戦い、信長勢が勝利し、初陣を果たした。
続いて、金ヶ崎の戦いが始まる。
その時、浅井長政が信長を裏切った。
同盟軍のはずの浅井勢が信長の背後で裏切り、挟み撃ちに合った信長は窮地に追い込まれ命からがら逃げだした。
無事に逃げた信長は、すぐに体勢を立て直し反撃に出る。
長政居城、小谷城(滋賀県長浜市湖北町)に近い近江宇佐山城は、浅井・朝倉攻めの出撃基地となる。
森勢が先頭に立ち浅井勢を攻める。
6月8日、可隆18歳は一番槍の活躍を見せたが、戦闘の最中に戦死。
えいは、晴れ姿に目を潤まして、たった15日で我が子が亡くなったとの死の報を受け取る。
まもなく、夫、可成が戻り、えいに可隆の見事な最後を話す。
信長からも褒められた。
えいは涙をためつつも、自分のなすべき立場、森家を守る妻であり母であることを忘れない。
胸を張り、悠然と、気丈に振る舞う。
心中、子を産み育てるのは素晴らしいことばかりでないと、可隆の死が残念でならない。
何か避ける方法があったのでは、と思い悩む。
それでも、日に日に大きくなっていくお腹に夫の手を導く。
お腹の動きは激しく「きっと男の子だ。可隆の生まれ変わりだ」と涙をあふれさせ、笑う。
夫、可成と、その日も結ばれ愛の時を過ごした。
可成は、すぐに、近江宇佐山城に戻り、戦いの日々となる。
1570年7月30日、姉川の戦いが始まる。
ここで、信長勢は、浅井・朝倉勢を撃破し、金ヶ崎の戦いの敗北を跳ね返し、信長勢有利を見せつけた。
可成の武勇も目覚ましかった。
勝利を確認すると、可成は、一息をついた。
劣勢に陥った浅井・朝倉勢だが、反撃の機会を狙っていた。
本願寺と浅井氏・朝倉氏が協議し、京に在する信長を背後から倒すと決めた。
信長を守る北部最前線、宇佐山城を攻める戦いが始まる。
先頭に立ち戦いの火ぶたを切ったのは、本願寺。
続いて、浅井・朝倉勢も連動して出撃。
浅井・朝倉・比叡山の僧兵を加えた本願寺門徒の連合は2万8千だ。
総力を挙げて戦い、一気に信長を追い詰めると士気が上がっていた。
可成は本願寺勢の動きを察知するのが遅れた。
一斉蜂起を知るとすぐに信長に援軍要請するが、到着前に戦いが始まってしまう。
宇佐山城にいた可成軍、その数わずか3千だった。
それでも、信長を守るため、浅井・朝倉勢の進撃を食い止めると、迎撃に出る。
信長の援軍が来るまで、討って出て時間稼ぎしなくてはならない。
可成は自ら敵陣に突撃し、切込み、混乱させると覚悟を決める。
宇佐山城死守を腹心の武藤氏・林氏・肥田氏・各務元正らに命じた。
覚悟の出撃だ。
南近江坂本に出陣し信長弟、織田信治と共に思い切り暴れ、壮絶な最期となる。
可隆を亡くして4ヶ月あまり、10月19日だった。
宇佐山城を死守する森勢は、決死の戦いを繰り広げ、信長の援軍が来るまで持ちこたえた。
信長自ら援軍とともに、宇佐山城に入り、浅井・朝倉・本願寺勢を追い払う。
えいは夫、可成を亡くした。
最愛の人であり、森家のために共に励んだ盟友だ。
あってはならないことと、受け入れられなかった。
えいは、亡くなった夫・子を誇りに思いつつも宝を失った悲しみがこみ上げる。
寄り添い、肌を重ね合った可成の死は、身にも心にも重く突き刺さる。
しかも、殺したのは深く信仰する本願寺の門徒だ。
浄土真宗妙願寺を菩提寺には出来ない。
菩提を弔うために、美濃金山に臨済宗、可成寺を建立、篤く弔った。
信長は、森家の家督を次男の長可12歳が継ぐように指示した。
この時、3男、蘭丸はまだ5歳で出番がなく、この次だ。
えいは信頼する各務元正や父を後見に頼む。
その時、義父、森可行(1494-1571)が、可成の弟、可政(1560-1623)11歳を近習として欲しいと願った。
えいは了解した。
翌年、義父、森可行77歳は、安心し心安らかに、息子や孫の後を追い亡くなる。
義父は、祖を同じくする土岐氏に仕えたことを誇りとし、土岐氏を追い落とした斎藤道三をどうしても受け入れることができなかった。
土岐氏が道三の庇護下に置かれると美濃を離れ、織田信秀の客将となり織田勢の一角を占めて戦った。
1548年、織田信秀と斎藤道三が和睦すると、がっくりと肩を落とし可成に家督を譲り隠居した。
可行は、自由な時間が増えると、信仰を深め趣味を楽しみ、ついには老いらくの恋をした。
尾張津島の大橋氏一族、重俊の娘だ。
まさかと信じがたかったが、66歳で可政が生まれ、溺愛した。
可政の成長を老後の楽しみとし、持てるものすべてを引き継がせると武芸の修練から勉学まで、手を取って教えた。
そして、可政の行く末をえいに託したのだ。
えいは複雑な思いで義父を看取る。
義父は、亡くなるまで斎藤道三やえいの実家、林家と、一線を引いていた。
そして、えいの子達より、明らかに可政を可愛がった。
可成の先妻の子、長女と青木次郎左衛門秀重(義母、青木氏の縁者)。
次女と長田又左衛門(継母、大橋氏の縁者)。
二人の結婚を取り決めた時も、えいの意見を聞かれることはなかった。
えいと義父の仲は、亡くなるまで、どこかわだかまりがあった。




