㉒津山城(岡山県津山市山下) 1
㉒津山城(岡山県津山市山下) 1
姫路城・伊予松山城と並び、日本三大平山城の一つと称される名城。
津山盆地の中央にあり城の東部を吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖で守る。
城の南部を吉井川・西部を藺田川で外郭とし守り、内側に城下町主要部を築く。
1603年、森忠政が美作国津山藩18万6500石を得て、渾身の力を込め1604年から築城を始めた。
1616年の完成まで13年の歳月を要し大城郭を築く。
外郭を含めて、広島城の76棟、姫路城61棟を超える77棟の櫓が建ち並び壮観だった。
■ 森蘭丸の母、えい
藩主、森忠政は、信長に重用され一世風靡した森蘭丸の弟。
母が、えい(1524-1596)。
えいは、森家中興の祖とも言える女傑だ。
えいが、信長の絶大な信頼を得て、森家は織田家中で名の知られる重臣になった。
えいの生涯は、息つく暇もないほどの波瀾万丈だった。
森家の栄光と挫折を味わい、めげることなく再びの栄光を作りだし、また再びの凋落の予感の中で亡くなる。
ただただ必死で生きた満足感だけしか残らなかったが、最後は優しい眠りにつく。
えいは1524年、美濃国本巣郡の林家屋敷で誕生した。
安産で生まれ、大きな声を上げて、元気だよと泣き、周囲を驚かしたほどだ。
生まれた時から、積極的だった。
それからも、前向きに思い切りよく、たくましく生き抜く。
えいの父は、斎藤家家臣、林通安。
えいの後に、井戸宇右衛門に嫁ぐ妹と、年の離れた弟が生まれ、3人妹弟となる。
えいは、幼い頃から利発だった。
濃姫の母、小見の方の目に留まり、濃姫に仕える。
そして1549年、濃姫(1535-)の結婚に付き従い、美濃から尾張に移り行く。
父、林通安(林常照)が濃姫付きの家臣に命じられた為でもある。
えいは父と共に信長に目通りし、濃姫付き侍女として織田家に仕える。
同族の遠縁の信長家老、林秀貞が笑顔で見守り、織田家中の一員となる。
父、林通安は、織田家家臣となり斎藤家との取り次ぎを行う。
信長は「濃姫によく尽くした」と、えいを褒め、結婚相手を決める。
相手は、織田家中で存在感を高めている森可成だ。
翌1550年、えい26歳で可成27歳に嫁ぐ。
信長は、華々しい戦いぶりで戦果を挙げる可成に目を留め、引き立て、ふさわしい結婚相手を探していた。
才知に秀でたえいこそ似合いだ、と決めた。
林通安の織田家家臣としての地位を安泰にさせる為でもある。
同時に、道三と距離を置く森家を、斎藤家と近い関係にし、確固とした地位を築かせる為だ。
信長は、道三と親密な関係を築き美濃衆は斎藤家と近しい関係としたかった。
森可成は父が可行。
母が青木秀三の娘。
尾張葉栗郡蓮台(岐阜県羽島郡笠松町)に生まれた。
弟に可政がいる。
森家は清和源氏の一家系(清和天皇を始祖とする末裔)、河内源氏から始まる。
河内源氏の棟梁、源義家(源頼朝に繋がる)の子、義隆。
その子、若槻頼隆の次男が森頼定を名乗り森家が始まった。
庶流ではあるが、武門の家柄として、長く続いた名門でもある。
室町時代初期から始祖を同じくする美濃守護、土岐氏に仕え、美濃国に住した。
時が過ぎ、土岐氏は斎藤道三により没落する。
道三から仕えるようにと命じられたが、可行は嫌い、可成も父も浪人となる。
その後、織田家の客分に迎えられ、織田勢として戦い、戦功を挙げた。
その武勲に信秀が注目し、召し抱え、信長に付けた。
織田家中では新参者の森家だった。
織田家中で確固たる地位を築いている林一族との縁談は願ってもないことだ。
可成は信長の配慮に感謝し、えいと結婚する。
年を重ねた二人の結婚だった。
可成は斎藤道三を認められない父、可行の思いをよく知っていた。
だが、時代は変わった。
いつまでも土岐家を大切にしていては、森家は滅びる。
道三と信長の関係を受け継ぎ、森家と林家は力を携えるべきと可成は決意した。
えいと結婚し、落ち着きと後ろ盾を得た可成の活躍はすばらしい。
信長も、褒め、一軍の将として認めた。
えいも、可成の武勇に胸を熱くする。
可成を見る目は熱く潤み、二人の仲は睦まじい。
高齢出産にも関わらず、次々子に恵まれる。
1552年、嫡男、可隆誕生。
1555年、長女、鴻野殿・碧松院誕生。
1558年、二男、長可誕生。
1565年、三男、成利(蘭丸)誕生。
1566年、四男、坊丸(長隆)誕生。
1567年、五男、力丸(長氏)誕生。
1569年、次女、うめ・宝泉院誕生。
1570年、六男、忠政誕生。
可成には、えいとの結婚以前に生まれた娘が二人いた。
えいは、結婚後引き取り面倒を見たが、結婚相手は義父が決めた。
長女は、義父の先妻、青木氏の縁者で一門の重臣となる、青木次郎左衛門秀重。
次女は、義父の後妻、大橋氏の縁者で一門の重臣となる長田又左衛門。
と結婚。
彼らは、森家一門として共に戦い、強い軍事力を発揮し重要な戦力となる。
結婚の翌年、1551年、信長17歳は父、信秀41歳を亡くし、家督を継ぐ。
信秀の急死は謎が多く、織田家中には反信長の不穏な動きが起きる。
そうした中、森家は信長の覇権確立の為に忠実に従い、信長を守り戦い続ける。
次いで、1556年、道三が殺された。
林家は本拠の美濃を失い、果たすべき役目もなくなる。
そこで、信長の腹心にまで勢力を高め、織田勢の一角を占める戦力となった、森家に従うと決める。
えいが、実家を招き、筆頭家老としたのだ。
森家の戦力は格段に増す。
信長も、後ろ盾だった道三を亡くし、窮地に陥った。
「(信長に)道三の支援はない。孤立無援だ。(信長弟)信勝(信行)様が、織田家の当主になるべき時だ」と織田家譜代の重臣、林秀貞、通具兄弟・柴田勝家らが謀反を起こす。
稲生の戦いが始まった。
この時、森可成は林通安と共に信長に従い必死で戦う。
えい一族は、宗家林家とは一線を引いた。
森家の戦いぶりは素晴らしく、形勢不利だった信長が息を吹き返す。
こうして、信行派に勝利し、信長は当主の座を強固にする。
森家は、格上だった林家を配下にし、ますます信長の信用を得て、飛躍していく。
勢いづいた信長は、信行の後ろ盾だった守護代の織田本家を倒し、織田一族の頂上に立つ。
続いて尾張守護も、追い出す。
戦国時代の避けられない下克上の戦いの中で、可成は信長の側を離れず戦功を挙げ続けた。
信長もいつ裏切るかわからない混沌とした家臣団を率い、不安も大きい。
その中で、森家は安心して信じられる数少ない腹心となった。
森家も信長の信頼を得て、士気は高まる。
「何が起きても信長様の元を離れない」との強固な忠誠心で突撃を繰り返す。
1558年、尾張岩倉城を攻めた浮野の戦いでも先陣で戦い敵軍を大敗に追い込む。
1565年、美濃を制圧した信長は、恩賞として森可成に鳥峰城(岐阜県可児市)を与えた。
えい41歳と可成42歳、二人はようやく故郷に領地を得た。
成功の証となった城に「信長様の恩は忘れません」と感激して移る。
鳥峰城を拡張し、金山城と改名し居城とし、城下の整備も併せて行う。
この地、金山は東美濃の中心地として繁栄していく。
えいは、濃姫に仕え、信長の信を得て、織田家重臣、森可成と結婚した。
この年森蘭丸が生まれた。
ここまで、順調すぎた。
わずか5年だった。




