⑳徳川大坂城 2
⑳徳川大坂城 2
■大坂城の女主、お芳
慶喜は、思い描いた将軍ではないと嘆くが、それでも、念願の将軍職だ。
国政を担う幕府の最高責任者としての権限は大きく、あくなき好奇心が満たされやりがいがあった。
1867年3月、フランス公使、レオン・ロッシュと大坂城で将軍として満面の笑みで会見する。
フランスの資金援助・指導を受け横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、幕府の軍事力強化を目指すことを決める。
側にはにこやかに微笑むお芳がいた。
お芳も慶喜に負けないほどに好奇心が旺盛だ。
フランスについて学ぶ。
フランスに続き、イギリス公使、オランダ公使らとも会見する。
2人は、諸外国からの情報に目を輝かせる。
慶喜は、各国の代表と会えば、貪欲に知識を吸収し、日本の将来を思い描く。
幕府政策の企画立案・技術の習得目標など無限に思いつき、実現すると奮い立つ。
幕府主導で日本を外国に負けない近代的な国にすると決意を新たにする。
お芳も大賛成だ。
悲しみも多い。
慶喜の決意を実行する数少ない側近が次々殺されたのだ。
一橋家家老、中根長十郎(1794-1863)が1863年12月3日、尊攘派に暗殺。
家老並み、平岡円四郎(1822-1864)が1864年7月19日、水戸藩士に暗殺。
1867年9月11日、原市之進(1838-1867)が幕臣により暗殺された。
幕臣からも尊王攘夷派からも狙われ殺された。
頼りにしていた中根長十郎・平岡円四郎の暗殺は衝撃だった。
そのうえ、知恵袋であり同志だった原市之進が殺され、将軍としてなすべきことが進まなくなる。
情けなかった。
彼らの死により、現状分析・具体的な施策の立案・実行に支障が出る。
大きな痛手だった。
反対に、薩長らの倒幕の動きはますます加速していく。
明治天皇・朝廷も傾いていく。
お芳も共に、心痛めた。
頼るのは父、辰五郎しかいない。
辰五郎に厳重な警備を頼むが、すでに、300人を超える子分を上洛させ、手いっぱいだった。
すべて自費であり、父も苦しい。
慶喜は、明治天皇を公武合体派に早急にしなければならないと焦る。
そこで、薩長に行政能力はなく、朝廷では、国内の安定・対外交渉は、不可能だと知らしめることが、急務だと考える。
徳川政権を存続させる事しか、この国の将来はないのだと内外に見せつける必要があった。
1867年11月9日、倒幕を封じ込める為、政権返上を明治天皇に上奏する。
大政奉還だ。
慶喜の読み通り、朝廷は代案が見つからず、薩長に倒幕の実行延期を命令した。
次は、改めて政権を幕府に任されるはずだった。
ところが翌1868年1月3日、王政復古の大号令が発令された。
慶喜の将軍職辞職が勅許され江戸幕府は廃止となった。
慶喜は、想定外の返答に、声も出ない。
一度は、慶喜の思い通り朝廷側は慌てて幕府へ政権維持を命じると進んだのに。
だが、明治天皇は、若く新しい世を創る事ができるはずだと決意した。
旧勢力に頼らない、新しい世を創る為、慶喜を出し抜き、江戸幕府を崩壊させた。
この事態に動揺した慶喜は、自らの身を守る事にも不安を抱き、二条城を退去し大坂城で今後の策を練ることにする。
水戸家は、天皇家中心の国政を理想とし、慶喜の母は皇族の有栖川宮吉子だ。
慶喜は、天皇家に格別の親近感を抱いており、敵対したくはなかった。
お芳も行く末を気にしていたが、慶喜は疲れた顔でお芳の元に戻ってきた。
大坂城しか居り場はなく、慶喜の本拠となった。
朝廷の決断を知り、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・イタリア・プロイセンの六カ国公使が、今後の幕府の動向に不安を持ち、押し掛けてくる。
そこで、慶喜は、強く宣言する。
「外交権は幕府が保持している。安心するように」と。
宣言しながら、むなしい言葉だと、胸が詰まる。
それでも、せっかく握った将軍の地位・権力を手放したくなかった。
守りたい。
実質、全国一の権力を握っているのは、今でも圧倒的に幕府なのだ。
必ず政権を取り戻すと、自分に言い聞かす言葉とした。
お芳は、冷静にいつもと変わらず、慶喜の世話をしながらも心配になってくる。
慶喜は、言うこととすることが離れているのだ。
夢の中にいるように、現実でも動く。
薩摩長州を遙かに凌ぐ圧倒的優位の軍事力を誇示し朝廷を守るのは幕府だ、と示すのだと高らかに決意表明する。
朝廷から再び、政権を任すと言わしめるのだ、と慶喜は突き進む。
そこで、幕府の軍事力を誇示する為の示威軍事行動を朝廷に向かって京で起こす。
慶喜は、信頼できる側近が少なく命令通りに動く組織作りが出来ていなかった。それでもきっとうまくいくと楽観的に突き進んだ。
京には幕府の元に集結した多くの軍隊がいた。
だが、慶喜の考え、命令は、うまく伝達されなかった。
致命傷だった。
1868年1月27日、示威行動だけのはずが、幕府軍は薩摩藩の挑発に乗り、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)を始めてしまう。
慶喜は、戦いたくなく、回避したかった。
戦いは起きるはずがなかったのに、悔しい。
ところが、戦いが始まると、幕府の強さを見せつけると張り切った。
自ら出陣し、幕府軍を鼓舞し、薩長軍を追い詰めていく。
幕府軍の軍事力は薩長をはるかに超えており、将軍自ら先頭に立つと、皆奮い立ち、薩長軍はこの頃、敵ではなかった。
慶喜は、幕府軍は勝つ。
きっと朝廷は、幕府の力を認めると意気揚々と戦う。
だが、薩長は、天皇、朝廷に必死で働きかけた。
後戻りはできない。
新しい世を作るのだと。
朝廷側は、薩長に賛同し慶喜追討令を出した。
慶喜は、絶対に避けたかった「朝敵」になってしまった。
慶喜は陣頭指揮し、勝利は間違いなかった。
だが、「朝敵」になるという予想外の展開に動揺し、我を失う。
大坂城に戻り考えをまとめるしかないと、戦線を放棄した。
だが、絶望しもはや立ち直れなかった。
慶喜の目指すのは、天皇の元での幕府政権だった。
朝敵となり、天皇と戦うのは許される事ではなく、耐えられない。
もはやすべて終わったと頭の中は真っ白になったままだった。
我を失った慶喜が大坂城に戻り、お芳を呼び、側にいてくれと哀願した。
お芳は、京の様子を父から逐一聞いていた。
慶喜の顔を見て、予想以上に深刻だとすぐ悟った。
それでも、にこにこと動揺を見せないで、いつものように軽い冗談を言いながら側に居て、とりとめのない話をする。
慶喜は恐怖でおののいており、お芳の話に応えない。
「江戸にもどりたい」それを話すのが精いっぱいだった。
すぐに、開陽丸出航の準備がされた。
そして「京大坂は放棄する、本拠、江戸に戻り策を練る」と宣言した。
1月30日、慶喜は大坂城を脱出する。
付き従うのは、老中2人と会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、そして愛するお芳らわずかの近習だけだ。
開陽丸に乗り込み海路江戸へ。
慶喜は、安全な海上に出て、命は守られたとほっとし、少し冷静になって、大坂城方向を見つめながら、お芳につぶやく。
「幼い時から将軍を目指しようやく将軍になったが、わずか1年足らずだった。
しかも徳川幕府を消滅させてしまった。
こんなはずじゃなかったが、自分の力ではどうにもならない時代の波に流されてしまった。幕府としての意地は貫きたいが、これからは前将軍としての誇りだけを胸に慎ましく生きるしかないだろう。
もしかすれば、責任を取らされるかもしれない」と不安げに。
慶喜逃亡の噂はすぐに広まり、幕府の信頼は失墜する。
大坂城は慶喜が去り、長州兵の攻撃を受け炎上、灰燼に帰す。
態度を保留していた諸藩の多くが、幕府を見限り、朝廷側に付く。
突如、薩長軍は錦の御旗を高く掲げた。
ここで、天皇を擁する官軍の士気は上がり、幕府軍は戦意をなくす。
薩長軍の快進撃が始まる。
お芳は「慶喜様は、精一杯、素晴らしい仕事をされました。朝敵になることではありません」と力づける。
「慶喜って人は何でもやりたがるしできる人だ。
とてつもない物知りだし。
自ら戦う戦さもうまいけど、何でも自分でしないと気が済まない人だ。
とても天下をまとめ率いる大将って器じゃないと思っていた。
外国公使に会ったときの感動を話す顔が一番良かった。
将軍には向いていなかったのだ。
だから私は町民なのに、将軍様の側室として良い目が出来たのかもしれない。
大坂を離れると、慶喜様と別れることになるのだろうけど、新しい時代が出来ていくのだ。父と私で、慶喜様を一時期でも守れたのだ。満足満足」と海を見ながら心のなかでつぶやく。
子供になったようにしょんぼりしている慶喜を見ながら笑顔がこぼれてしまう。
江戸に着くと、お芳は慶喜に従わず、実家に戻ると頭を下げた。
慶喜もそれが良いと、江戸城に急いだ。
以後、二度と会うことはない。
永遠に変わることはないはず幕府であり、将軍だった。
だが、あっという間に流れが変わってしまった。
歴史の転換点は、こんなに単純なのだと思う。
自分の目で一挙に流れが変わったあの修羅場を見たのだ。
これだけでも悔いることのない一生だった。
とお芳は江戸城を見つめる。
慶喜のいない暮らしが始まり、続く。
お芳は、慶喜をどんなに癒やし力づけ、讃えたか、詳細を話すことはない。
深く愛され、伴侶として支えた数年間の良い思い出だけを抱きしめる。
別れ話は、江戸女のきっぷの良さには似合わないとお芳らしく生き抜く。




