⑳徳川大坂城 1
⑳徳川大坂城 1
大坂の陣での戦禍で、廃墟のようになった大阪城。
家康を受け継いだ将軍、秀忠は、幕府直轄領とし、1620年、新たに大阪城築城を始めた。
3代将軍家光の時代に完成する。
西日本を睨み、かっての豊臣氏の支配の象徴、豊臣大阪城を一掃し、徳川幕府の威光を見せつける徳川大坂城だ。
徳川大坂城の城主は歴代将軍自身。
譜代大名から選ばれた大坂城代・補佐する譜代大名2家・軍備を担当する旗本4家で守られた。
1634年、完成した大坂城に将軍、家光が入る。
父、秀忠が亡くなり、名実ともに独り立ちした家光の権威を、西日本の諸大名・朝廷・公家・領民に見せつけるためだ。
以後、将軍が訪れることはなかった。
幕末が近づいた時、やむなく将軍、家茂が大阪城に入城。
最後の将軍、慶喜は、二条城と大坂城を宿泊地とする。
二条城を追われると、1868年1月3日大坂城を居城とする。
慶喜は、1868年1月27日旧幕府軍を率い、鳥羽・伏見の戦いで勝利するも、大坂城に逃げ戻る。
1868年1月30日、慶喜は船で江戸へ逃げ、大坂城は新政府軍が引き継ぐ。
徳川家の居城、大坂城は、短い期間だった。
今なお残っている遺跡は、この頃のものだ。
■最後の将軍、慶喜に出会うお芳
慶喜(1837-1913)は、徳川宗家を継ぎ将軍になることを願い続けたが、家定・家茂が将軍となり、将軍にはなれなかった。
幕府を率いるのは自分しかいないと自負していたが、機会はなかなか訪れない。
1862年、将軍後見職に就任する。
そして翌1863年、将軍の名代として上洛する。
ようやく、歴史を動かす表舞台に飛び出した。
付き従うのが、お芳。
お芳が、大阪城で慶喜の世話をすることになった。
お芳は、喜んで慶喜に付き従い、共に船で大阪城入し、慶喜の側室となる。
幕末を迎え慶喜は朝廷との折衝をせざるを得ず、京・大阪と江戸を行き来する。
この間、お芳は、できうる限り慶喜と行動を共にする。
慶喜は、お芳がそばにいることを望んだからだ。
1864年、慶喜は、禁裏御守衛総督に就任し、大坂城に留まることが増える。
ここから、慶喜の側近くにいつもいるのがお芳となる。
お芳は、江戸の町火消・新門辰五郎の娘。
1800年生まれの新門辰五郎は、気風が良く豪胆な純粋、江戸っ子。
煙管職人、中村金八の子に生まれる。
運悪く、弟子が火事を起こし、中村金八は責任を取るように、焼死してしまった。
母は育てられなくなった辰五郎を、親戚筋を頼り、江戸町火消、浅草十番組「を組」の組頭、町田仁右衛門に預ける。
辰五郎は、父譲りの手先の器用さと頭の良さがあった。
火消しに、激しい闘志を持ち、のめり込み、めきめき腕を上げた。
養父の絶対的信頼を得て、娘、錦の婿養子となり、引き継ぐ。
次々、大名火消しと競いながら、見事な火消しを続け、並ぶものがないほどになり、「と組」「ち組」「り組」「ぬ組」「る組」を束ね、町火消十番組の頭取になる。
火消しの大親分となり、千人とも二千人とも言われる子分を抱える。
火消しと治安は一体であり、辰五郎は、望まれ警護の役目を果たすこともある。
辰五郎の活躍ぶりを目にした、上野寛永寺の寺務を統括する覚王院義観が警護を頼む。
そして、主人、寛永寺座主、輪王寺宮(北白川宮能久親王)に紹介した。
物騒な世となっており、警備や火消しをいくらでも必要としていた勝海舟や、慶喜とも引き合わせる。
浅草寺別当の伝法院に皇族が隠居し新しい門が作られると、警護を任せられる。
以来、「新門の親方、辰五郎」と呼ばれる。
1851年から新門辰五郎は、一橋家に出入りし、慶喜の身辺警護を請け負う。
慶喜は、辰五郎と意気投合し頼りにし、家族ぐるみの付き合いとなる。
娘お芳が、一橋家に仕えるようになる。
身軽なお芳は、慶喜の動きに合わせて付き従った。
また、一橋家には十分な藩士がいなくて、資金もないことから、辰五郎は御所と二条城の警備と防火の任を任せられる。
ここで、64歳の辰五郎は200名以上の子分を連れて上洛、慶喜の身辺を守る。
父娘で、慶喜のなくてはならない人となる。
1866年8月29日、将軍、家茂20歳が、大坂城で亡くなった。
第二次長州征伐の途中だった。
将軍の死で幕府軍は戦意をなくし崩壊。
10月、慶喜は朝廷に願い休戦の勅許を得て休戦協定を締結。
幕府の権威を失墜させる大事件となった。
ここで、慶喜が徳川宗家を相続する。
家定・家茂が亡くなり、ようやく実現した。
幕府改革の夢をことごとく潰された後の、追い詰められた幕府の最後の将軍になるしかないのが残念だったが。
これ以後、慶喜の主たる居城は、江戸城ではなく大坂城となる。
お芳は大阪城では唯一の側室として、丁重な扱いを受ける。
いままで、影のように寄り添っていたが。
慶喜は「お芳にもっともっと良い目をさせる」と胸を張り、側室として最高級の待遇とする。
私的な場には堂々と側に控える。
慶喜はお芳が好きだった。
お芳は「私は火消しの娘。あまりの厚遇、もったいない」と恐縮する。
それでも「将軍様の側室も悪くないと」すぐに、大坂城の女主だと慶喜に合わせて胸を張る。
慶喜は、将来の展望を見出せない将軍になるのだから、状況をよく確認したい徳川宗家は継いだが、将軍就任には慎重だった。
幕府を守るために、将軍として力を奮うために、朝廷及び幕政に関わる主要大名等の総意の元に将軍になる必要があったからでもある。
すると、将軍がいない状態が続き、幕政は滞り皆が困った。
周囲が皆、慶喜の将軍就任を必死で懇願する。
「よし、時が来た」と納得し1867年1月、慶喜は将軍に就任する。
1867年1月30日、孝明天皇36歳が突如、崩御される。
公武合体の維持を望み、慶喜の意向をよく理解する天皇だった。
孝明天皇と手を携え難局を乗り切ると、すべての準備を整えて将軍になったのだ。
肝心の天皇が崩御されてしまった。
慶喜は、未来に暗雲が立ち込めたと、肩を落とす。
続いて、明治天皇15歳が、即位。
「明治天皇はまだ若く、先代天皇の意思を受け継ぐ」と信頼関係も変わらないと信じるしかなかった。
慶喜30歳は明治天皇の義兄弟(妻が姉妹)であり、とても近い存在だと。
皇后が、一条美子。
慶喜御台所は、一条美賀子(養女)。




