⑲豊臣大坂城(大阪府大阪市中央区大阪城1)2
⑲豊臣大坂城(大阪府大阪市中央区大阪城1)2
■大坂城と共に滅ぶ茶々
家康はいつものように、取り澄ましたしたり顔で「五大老は、家康一人となりましたが、責任持って国政を執ります。ご安心を。ただ天下のために使うようにと秀吉様が支配されていた領地・鉱山や貿易等の諸権利は、家康が直接統括いたします」と茶々に話した。
茶々はいわれなき理由と腹立たしかったが、反論できなかった。
家康に北条攻めを許したことが、大きな間違いだったと苦しみ悔やむ。
茶々に残されたのは、大坂城と豊臣家の直接支配地、摂津・河内・和泉65万石だけとなってしまった。
訳の分からない内に、家康に押し切られ、豊臣家は一大名になり下がった。
茶々は「秀頼が成長後、関白になり、豊臣恩顧の大名に支えられ政権を取り戻す」と何度も心の中で繰り返すしかなかった。
それからは、家康と軋轢を繰り返しつつ、家康から知行を与えられた家臣や直臣と共に摂津・河内・和泉を治める。
広大な大坂城を守り豊臣家の威光を京・大坂で維持するには、65万石では足りないほどだ。
家康の元、豊臣政権に関与したり、天下人、秀頼に仕える家臣の知行は、家康が統括する資金より出される。
天下人、秀頼に仕える家臣なのだ。
政権を主導する家康が出すべきだと理解した。
だが、その結果、秀吉から受け継いだ家臣が、茶々の支配下でありながらも、家康の家臣ともなっていく。
返す返す、本来、秀頼が得るべき資金だと腹立たしい。
秀頼から家臣に支払われるべき家臣への手当てが、全て、家康の手を通すことになった。
こうして、大坂城で仕える主な家臣は家康の家臣でもあるかのようになった。
元々大坂城に詰めて、秀吉が任命した武将が多い。
本来、秀吉家臣であり、茶々・秀頼に忠誠を誓うべき家臣だ。
家康を主君と見なす言動を聞くと、つらい。
大坂城で主要な役目を担う重臣は、天下の政務を主導する家康の直臣扱いとなっていく。
もちろん、家康の関知しない秀頼・茶々の直臣も多くいる。
家康の意向により動く家臣と、秀頼直臣とは立場が違ってくる。
彼らと、豊臣家譜代の臣との緊張も出てくる。
大坂城に詰め秀頼に忠誠を誓いつつ、すべての情報を家康に流す家臣がいるのだ。
この混成家中を率い、天下人、豊臣家を率いる茶々には、カリスマ性があり、家中をまとめる力があった。
内紛を起こさず、領民は茶々・秀頼を崇拝し続け、大坂の町は賑わった。
茶々は、豊臣家に忠誠を尽くし裏切らせない人心掌握術を心得ていた名君だった。
茶々の美貌・説得力・要所要所の気配りは非の付けようがなかった。
存在自体が華麗で、神社仏閣を庇護する姿は神々しかった。
家康は、秀吉を弔う為に多くの寺院の修復を積極的に、茶々に勧めた。
茶々や秀頼も同感で、豊臣家の安泰とご加護を願い、ひたすら寺院修復に力を傾けた。
多額の私財を投じての修復になり、それが秀吉の遺産を使わそうとの家康の考えだとよくわかっていた。
だが、江戸に政庁が移り、次第にさびれていくのを実感する人々に、京・大坂の賑わいを与え続けたかった。
神社仏閣の復元は、その地の人々に誇りと喜びをもたらす大事業であり、豊臣家を受け継ぐものの責務だと貫いた。
そのような茶々・秀頼の頑張りは、江戸幕府の安泰を願う家康には許せない。
豊臣家は、幕府に従う一大名でなければならないが、それ以上の存在であり続けたからだ。
次第に運命の時が来る。
方広寺(京都市東山区)造営は、1586年、秀吉が奈良の東大寺の大仏を凌駕する規模で京に大仏を建立すると宣言し始まった。
秀吉は大仏の建立に夢を持っており、日本一の大きさにこだわり真剣に取り組み、1596年ほぼ完成した。
だが、直後、伏見大地震で壊れてしまう。
感激した後、直ぐに襲った深い悲しみに試練を感じ、屈することなく、再び、造営を命じた。
だが、大仏殿の完成半ばで亡くなった。
茶々は秀吉の遺志を継ぎ、1600年から大仏殿の再建を開始する。
順調に建立が進んでいたが、鋳造中に出火、炎上する。
原因はわからない。
家康に通じる誰かの仕業と考えるが、追求することはできなかった。
ここで、悩む。
建立を続けたいが、必要とされる莫大な費用を知り「続けられない。殿もあきらめてくれるでしょう。これも仏様の思し召し」と大仏殿造営を中止した。
この頃、茶々は、豊臣家が一大名となるのもやむを得ないと考え始めていた。
家康の天下は揺るぎようがなく、豊臣家では太刀打ちできないほど強力になったからだ。
ところが、家康は、熱心に大仏殿造営を秀頼に勧めた。
すると、秀頼も「父上の強い望みです。是非叶えたい」と言い出した。
茶々は賛成できなかったが秀頼の強い想いが嬉しくもあり「やむないこと」と折れて、再度大仏殿の工事を始める。
1612年、ようやく、銅造大仏の座する大仏殿が完成する。
続いて、方広寺の堂宇の修復を終え、最後の仕上げが鐘の鋳造だった。
1614年、方広寺造営すべてが終わり、豊臣方は、家康に報告する。
茶々も成し遂げた熱い思いで、一息ついていた。
その時、家康が「方広寺の鐘銘に(家康を)落とし込める不吉な語が刻まれている」と突然、怒り出す。
秀吉の霊廟の造営でもあり、幕府も神経をとがらせ見守っていた。
修復中、何度も幕府方と事細かい打ち合わせをしており、すべて幕府が了承の上進めた。
費用は茶々が出し、幕府の指示に従う造営であり、争いが起きるはずがなかった。
にもかかわらず、家康が怒った。
不吉な予感がする。
それでも、片桐且元らと茶々の乳母、大蔵卿局らを弁解の使者とし駿府城に行かせる。
片桐且元は浅井家に仕えた忠臣であり長い付き合いだ。
秀吉が亡くなる直前、茶々の願いで秀頼守役となった。
以後、豊臣家家老として長年、茶々に尽くしている。
家康から大和竜田2万8千石を与えられ、長女を人質に江戸に送っている。
そして、家康から豊臣家大坂城代家老に任命されていた。
家康は、すべて予測した通りと見据え、綿密に考えられた行動を取る。
まず、片桐且元に「豊臣家は許すことの出来ない大罪を犯した。秀頼殿の参勤、茶々殿の江戸入り、豊臣家の大坂城の退去を命ずるしかない」と冷たく言った。
且元は家康の命令を伝え聞くのみで会うことさえ出来ず、無念の涙を浮かべた。
その一方で、大蔵卿局には家康自ら会い、和やかに「ご足労、大義、大義」と労をねぎらい武力行使の意思など無いことを告げる。
報告を聞く茶々は「またしても、家康の二枚舌だ」と底知れない怒りで震える。
家康には、過去に何度も煮え湯を飲まされており、よくあることだが。
今までは、豊臣家の誇りを失なうことは絶対にしない、他の大名とは違うのだと胸を張って主張し続けた。
家康も豊臣家が主君筋であることは認めざるを得ず、幕府の制度に従わない独自の藩政を許した。
もちろん独立国ではなく、藩政の概要は幕府に報告され指導下にあった。
茶々は、もう後に道はないほど追い詰められたと身震いする。
「いまや、幕府の力は全国に行き渡り、幕府に従い諸大名は動いている。豊臣家だけ特別視する必要がなくなったのだ。いよいよ、そのときが来た」と。
「家康の勧めで京の再生の象徴だと取り組んだ方広寺を、豊臣家打倒の引き金にするとは、あまりに汚い」と頬が引きつる。
大蔵卿局への過剰な接待に意味はなく、家老、片桐且元への申し入れが、家康の狙いだ。
家康への全面降伏しか豊臣家存続の道はないのは明らかだった。
今までも、豊臣家に内紛を起こさせようと家康の企てが多々あり、家中にも親德川派と反德川派の対立はよくあった。
茶々は、微動だにせず、家中の内紛を押さえており、今後も押さえる自信はあったが、家康直々の宣戦布告には叶わない。
いつかこの日が来ると、恐れながら予期していた。
豊臣家の存続の為に、秀頼が生きるためには、何でもすると江戸に人質に行く覚悟をした。
片桐且元が「徳川家と豊臣家を繋ぐ役目を果たせず、申し訳ありません」と大坂城を去る。
すると、城中の雰囲気が変わり、流れが変わった。
「家康に打撃を与え豊臣家の名誉ある存続に向けて道を作る」との意見が大勢を占めた。
「家康を殺して豊臣家を守る」とまで言う威勢の良い若い次世代が育っていた。
茶々は、家康にひれ伏すしかないと覚悟を決めたが、秀頼は反対した。
若い世代は頼もしいが今の状況をどこまでわかっているのか、わからないと秀頼に言うが。
茶々も秀頼も、もう逃げ場のない状態に追い込まれたことをよくわかっていた。
秀頼は、豊臣家の誇りを持ち続けたいと決意を述べる。
茶々も、豊臣家の存続よりも、秀頼の意思を重んじたいとうなづいた。
秀頼の思うようにすれば良いと、にっこりと笑う。
秀頼は、家康との戦いを決意した。
豊臣家の誇りを持って、果敢に戦い散ると宣言する。
茶々も、秀吉亡き後、足掛け17年、豊臣家と大坂城を守ったと自らを誉めた。
この間の苦労を秀吉に話したいと、精一杯生きた満足感と共に戦いに臨んだ。
そして、炎上する大坂城の火に包まれた。




