⑲豊臣大坂城(大阪府大阪市中央区大阪城1)1
⑲豊臣大坂城(大阪府大阪市中央区大阪城1)1
秀吉が天下統一の拠点として築城した大坂城。
「三国無双(この世で比べるものがない)の城」と讃えられる豪壮華麗な城だ。
本願寺を追い出したあと、本丸、二の丸、取り囲むように2km四方に惣構のある大城郭を築城し、完成させる。
城郭北下は、淀川が流れる天然の要害であり、淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもある。
この石山本願寺があった地を、信長は高く評価し、本願寺を滅亡させたら、壮大な城郭を築こうとしていた。
その思いを受け継いで、秀吉は、1583年から築城を始める。
そして、天下人となり、愛する女人、茶々との間に、鶴松・秀頼が生まれる。
■大坂城の女主、茶々
1598年9月18日、秀吉が亡くなった。
翌年、茶々(1569-1615)29歳が、秀吉の遺命を受けて、大坂城の女主として本丸に入る。
秀頼の後見をし、天下を治める気概に満ちて、気合の入った笑みを浮かべての入城だ。
秀吉は、大坂城を武家の棟梁の居城に相応しい大城郭としたかった。
その為に、多くの兵を受け入れられる巨大な総構えの堀を築いていた。
豊臣家の未来永劫の繁栄を願い、天下人、秀頼にふさわしい城とするためだ。
だが、途中で亡くなった。
茶々は、秀吉の遺言である、総構え普請を急がせ、外郭13㎞にも達する堀を完成させ、秀頼と共に入城した。
天守に上り城下を見渡し「(秀吉の)言われた通り、大坂城は、天下に号する豊臣家の居城として完璧になりました」と感動を押さえられないほど紅潮してつぶやく。
ところが、その年の終りには、徳川家康が西の丸に、小天守を築いて入城した。
秀吉の天守に比べると、一回り以上小さいが、それでも堂々とした天守だった。
茶々は、伏見城で政務を執るはずの家康が、茶々の目の前に来たことに衝撃を受ける。
秀頼・茶々の判断を仰ぐ前に築き、入城した。
茶々に、言い知れない不安がよぎる。
家康は、上機嫌で、茶々・秀頼と再々、話し合い、天下の政治を執りたいからと話す。
大坂城内に家康がいれば、茶々も思いを直ぐに伝えられる身近さを感じる。
だが、家康は、茶々・秀頼の許可を得ない独自の行動が多い。
しかも、家康は政治に関して茶々に事後報告しかしない。
秀吉の遺命を家康が理解しているかどうかさえも疑わしい。
茶々は、家康が身近になったとは感じるが、豊臣家は家康の監視下に置かれているような、気分の悪さも感じる。
豊臣政権は、名ばかりの五大老での合議制でしかなく、国政は家康の判断で行われている。
茶々が最も信頼した前田利家は伏見屋敷に居ることが多く、たまにしか大坂城に来ず、政治的影響力は、家康にとても及ばない。
大坂城に来たときは、辛そうな身体だった。
前田利家の病気の具合を心配していたが、やはり病は回復せず、1599年4月27日、亡くなってしまった。
しかも、後継、利長(1562-1614)は、家康への暗殺を計画したと追及される。
利長は、家康の謀略だと怒り心頭だが、家中は時期尚早と家康との対決を押しとどめた。
自分を抑えられず、家康との対決も辞さず戦いの準備をすると、金沢に戻ってしまった。
家康の策謀ではないかと、不安が高まる。
利長は、家康への敵対姿勢を明確にしたが、茶々へ具体的話はせず慌てて戻ってしまった。
詳細を聞きたいが、側にはいない。
秀頼側近には家康に通じている者が多いと疑っているようで、心の内を話さないし、使いの者も来ない。
茶々が最も信頼する、いとこ(信長の娘、永姫が妻)になる利長だが、離れてしまった。
秀頼を託したかったが、豊臣家をどう考えているのかわからない。
宇喜田秀家・毛利輝元も、家中に内紛を抱え、国元と大坂を行ったり来たりで、茶々の側にどっしりと構えていることはない。
しかも、家中の内紛は、家康の影響を受けてのことが大なのだ。
秀吉が国事を委ねた五大老のうち家康を除く4大老すべてが、家康憎しの思いを強く持つようになった。
前田利長・宇喜多秀家・毛利輝元に共通する思いだが、家康の影響力を排除し、家中をまとめるのが精いっぱいで、家康に対決するまでにはならない。
茶々も家康の専横ぶりが許せず、共感する。
それでも、茶々には彼らが家康に代わり、秀頼を守れるかが一番の関心で確信が持てない事だ。
皆、茶々に逐一相談することなしに大坂を離れ、国元と行き来し、秀頼への忠誠心に確信が持てない。
利長から、家康との戦いが始まれば援軍を願う、と秀家を通じて知らされるが、これもどこまでが真実かわからない。
また豊臣政権に、秀頼に、どんな益があるのか、答えはなく返事が出来ない。
1600年になると、家康は、五大老の一人、上杉景勝の豊臣家への忠誠心のない行動を散々あげつらうようになる。
そして、秀頼に上杉征伐への許可を求める。
上杉景勝は国元に戻り、大坂城に来ることもない。
茶々や秀頼に連絡もない。
五大老の内4人は茶々の側にはおらず、家康しか政治の動向を話さない。
政権の実務を担当するはずの5奉行も、筆頭、石田三成は、秀吉子飼いの武将に襲われ、居城、佐和山城で謹慎している状態だ。
頼りにならない。
他の4奉行の内、浅野長政はねねの義弟であり、以前からどこかよそよそしい。
しかも家康暗殺の嫌疑をかけられ、家康の命に従い、謹慎している。
茶々の元から離れてしまった。
前田玄以・増田長盛・長束正家の3奉行は、茶々・秀頼の元、よく顔を出す。
だが、具体的に政権の今後を話すわけではなく、秀頼に帝王学を教えるわけでもない。
それでも、秀頼側近として、親密な関係を保とうとしているのが嬉しい。
この三人が、力を持ち、秀頼を支えるならば、茶々は協力を惜しまないつもりだが、家康の顔色ばかり見ている。
彼らも権力を握りすぎる家康に対して嫌悪感を話すが、政権の動向には、口を出さない。
家康の顔色を見ながら批判しており、対抗できるとは思えない。
三成と連絡を取り合っており、三成次第で動くのがありありだ。
茶々は、三成がそばに居てくれればと思うが、詳しく事情を話すことなく去ってしまった。
裏切られた思いだ。
秀頼を託すには心もとない。
前田家・宇喜多家中心で豊臣政権の総帥、秀頼を支え、政務は三成が主になり執ると茶々は考えていた。
だが、家康が突出してしまった。
利家が、生きていれば家康を牽制しつつ、秀頼に帝王学を教えたはずだがもういない。
家康に反発があることはよくわかっており、茶々も苦々しい思いをしているが、茶々に豊臣政権の今後を話すのは家康だけだった。
秀頼が成長し、豊臣政権を率いるようになるまでは、家康を信用せざるを得ないと思う。
やむなく、強硬に迫る五大老筆頭の家康の言い分を信じて、上杉征伐の許可を与える。
茶々は、政務は伏見城で執り、5大老・3中老・5奉行が再々大坂城に来て秀頼に政務の状況を報告すると考えていた。
天下人は、秀頼であり、秀吉が作った制度の状況をそれぞれの立場で報告するのが当然だと。
それらの報告や今後なすべきことを協議しながら、秀頼が学び、成長し、統括することになるのだと。
だが、豊臣政権の将来を話せるのは家康しかいなかった。
大阪城総構えは完成させたが秀吉政権を守る組織は、がたがただと茶々はため息をつく。
秀吉が、5大老筆頭、家康に任せた政務内の事として、上杉征伐への許可を出さざるを得なかった。
とても、口惜しい。
家康は秀頼の許可を得て、高らかに諸大名に上杉征伐への出陣要請をする。
秀頼の許可があれば、諸大名で反対する者はいない。
挙国一致で、上杉征伐に向かう。
家康が大阪を離れたことを知った三成が、茶々を訪ねてくる。
三奉行と共に、家康の秀吉の遺命に背く数々の行為をあげつらい、糾弾し、排除したいと願い出た。
茶々も同感するところがあり、家康排除には賛成する。
だが、秀頼が直接兵を率いて戦いに出ることを望まれた時、拒否した。
家康が面と向かって秀頼に不忠を働いたわけではなく、家臣同士の争いとしか考えられなかったからだ。
家康の専横ぶりを非難する声は聞いており、内心豊臣家がないがしろにされている不満が渦巻いていた。
それでも、三成らが周到な準備をし、家康を倒せる力があるとは思えなかった。
勝利を確信できなかった。
今にして想えば「三成の意見に賛成している。もう少し、時期を待つように。その時は秀頼を含め豊臣家のすべてを任す」と諭すべきだったが。
だが、必死の石田三成の進言にうなづいた。
秀頼は出せないが、勝利を祈っていると。
茶々は家康にも三成にも同意したことになった。
三成も、秀頼の許可を得たと、諸大名に家康追討のために戦うよう、命じた。
大将は、5大老の内、毛利輝元と宇喜田秀家。
前田利長・上杉景勝も連名にしたかったが、茶々は上杉征伐を認めている。
上杉の名は出さない方がいいと判断した。
上杉氏とは、以心伝心だと思っていたが、打ち合わせは必要だった。
ところが、その時間さえもなく、共同作戦は取れない。
母、まつを人質に送った利長は、家康に賛同していた。
家康は、三成が挙兵するよう段取りをして、京・大坂を離れた。
家康がお膳立てしたとおり、家康のいない隙を狙っての挙兵だ。
家康の敷いたレ-ル上を走る挙兵だった。
当然、西軍側は準備不足だった。
「家康憎し」の寄り合い所帯で、統制も取れない。
そして、起きた、関が原の戦い。
大坂城が、三成方西軍の本拠となった。
毛利輝元が総大将として在城し、宇喜多秀家が総大将に代わり出陣した。
そして、敗戦。
豊臣政権の重要事項を決める五大老のうち3人は退けられ、前田家は辞退した。




